第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(三)

*今回は『東周列国志』第三十七回その三です。
 
当時、鄭文公は楚に臣服しており、中国(中原)との交通を絶っていました。強大な楚に頼って弱国を虐げています。
滑伯が衛に仕えて鄭の指示を聞かなくなったため、鄭文公は兵を興して討伐しました。
滑伯が恐れて講和を求めたため、鄭軍は引き上げましたが、滑はやはり衛に仕えて鄭に服しません。
激怒した鄭文公は改めて公子・士洩を将に、堵兪彌を副将に任命し、大軍を発して滑を攻撃しました。
 
それを知った衛文公は、周と良い関係にあったため、鄭の出兵を周に訴えました。
周襄王は大夫・游孫伯と伯服を鄭に派遣して、滑のために仲介することにしました。しかし二人が至る前にそれを聞いた鄭文公は怒ってこう言いました「鄭と衛は一体(同格)だ。王はなぜ衛だけを優遇し、鄭を軽視するのだ。」
鄭文公は游孫伯と伯服を鄭の国境で捕えさせ、滑を破って凱旋してから釈放すると宣言しました。
 
孫・伯の二人は捕えられましたが、近臣が逃げ帰って周襄王に報告しました。
襄王が怒って言いました「鄭が朕を見くびること甚だしい!朕は報復しなければならない!」
襄王が群臣に「朕のために鄭の罪を問う者はいないか?」と問うと、大夫・頽叔と桃子の二人が進み出て言いました「鄭は先王の兵が敗れてからますますはばかることがありません。今また荊蛮(楚)に頼って王臣を捕えました。しかし、兵を興して罪を正そうとしても勝てるとは限りません。臣の愚見によるなら、翟に兵を借りる必要があります。そうすれば威を伸ばすことができるでしょう。」
大夫・富辰が「いけません、いけません(不可,不可)!」と繰り返してから言いました「古人は『疎遠な者は親しい者を割くことができない(疏不間親)』といいました。鄭は無道ですが、子友の子孫であり、天子の兄弟にあたります。武公には東遷の功労があり、厲公は子頽の乱を鎮めました。その徳はどちらも忘れてはなりません。これに対して、翟は戎狄豺狼であり、我が同類(同族)ではありません。異類を用いて同姓をないがしろにし、小怨に報いて大徳を棄てたら、臣にはその害が見えてもその利を見ることはできません。」
頽叔と桃子が言いました「昔、武王が商を討伐した時も九夷が皆援けに来ました。なぜ同姓にこだわるのですか。東山の徴(出兵)は管・蔡(周王の一族)が原因です西周成王時代の戦争)。鄭の横逆(横暴・反逆)は管・蔡と同じです。翟は周に仕えて礼を失ったことがありません。順を用いて逆を討伐するのに、何が悪いのでしょうか。」
襄王は「二卿の言う通りだ」と言って頽叔と桃子を翟に派遣し、鄭討伐を相談させました。
 
翟君は喜んで王命を受け入れ、狩猟と偽って兵を出すと、鄭の地に突進して櫟城を破りました。翟君は兵を置いて櫟を守らせてから、二大夫(頽叔、桃子)に使者を同行させて周王に戦勝を報告します。
周襄王が言いました「翟は朕のために功を立てた。朕は最近、中宮(王后)を喪ったばかりなので、翟と婚姻を結ぼうと思う。」
頽叔と桃子が言いました「翟人がこのような歌を歌うのを聞きました『前に叔隗がおり、後ろにも叔隗がいる。珠玉のように光輝を生んでいる(前叔隗,後叔隗,如珠比玉生光輝)。』これは翟の二女を歌っています。二人とも叔隗といい、共に殊色をもっています。前叔隗は咎如国の娘で既に晋侯に嫁ぎました(恐らく晋文公の妻を指しますが、文公の妻は叔隗の妹・季隗のはずです。叔隗は趙衰に嫁いでいます。第三十一回参照)。後叔隗は翟君の娘でまだ嫁いでいません。王は後叔隗を求めることができます。」
喜んだ襄王は再び頽叔と桃子を翟に派遣して婚姻を求めました。
翟人は叔隗を周に送ります。
襄王が叔隗を継后(二代目の王后)に立てようとすると、富辰がまた諫めて言いました「王が翟の功を認めるのなら、慰労するだけで充分です。今、天子の尊をもちながら、身分を下げて夷女を配そうとしていますが、翟がその功に頼って姻親(婚姻関係)を強くしたら、必ず窺伺(隙を窺うこと)の患を招くことになります。」
襄王は諫言を聞かず、叔隗に中宮後宮の政を任せることにしました。
 
叔隗は韶顔(美貌)をもっていましたが、元々閨徳(女性としての徳)が乏しく、本国にいた時から馬を駆けさせたり矢を射ることを好みました。翟君が狩りに行くたびに自ら同行を願い、いつも将士と一緒に原野を駆け巡って拘束されたことがありません。
しかし周王に嫁いでからは深宮に入れられ、籠の中の鳥か檻の中の獣のような生活を強いられました。
そこである日、襄王にこう言いました「妾(私)は幼い頃から射猟を習い、父もそれを禁じませんでした。ところが今は宮中で鬱鬱と過ごしているので、四肢がたるんでいます。このままでは痿痺の疾(身体が動かなくなる病)を得ることになるでしょう。王が大狩を主宰して、妾に見せていただけませんか?」
襄王は隗后を寵愛したばかりだったため、すぐに同意して太史に吉日を選ばせました。多数の車徒(車兵と歩兵)が動員され、北邙山で狩猟が行われます。有司(官員)が山腰に幕を張り、襄王と隗后が座って狩りの様子を眺めました。
襄王は隗后を喜ばせるため、「日中(正午)を期限とし、三十禽(獲物)を得た者には(兵車の一種。以下同)三乗を与える。二十禽なら●車(●は「車」の右に「童」)二乗、十禽なら車一乗だ。十禽を越えなかった者には賞はない」と宣言しました。
王子、王孫や大小の将士が一斉に飛び出し、狐や兔を追います。厚賞を得るためにそれぞれが力を尽くしました。
久しくして太史が言いました「日中になりました。」
襄王が伝令を飛ばして諸将を呼び戻します。諸将は自分が得た禽獣を献上しました。十禽を献上する者も二十禽を献上する者もいましたが、三十禽を越えたのは一人の貴人だけでした。
その貴人は儀容俊偉(容貌が抜きん出ていること)の人物です。襄王の庶弟で名を帯といい、国人は太叔とよんでいました。爵は甘公に封じられています。以前、周王の跡継ぎの地位を狙っていましたが、かなわなかったため戎師を招いて周を攻めました。しかし失敗して斉国に奔りました。後に恵后が襄王の前で再三弁解して赦しを乞い、大夫・富辰も襄王に兄弟の仲を直すように勧めたため、襄王はやむなく太叔を呼び戻し、今日に至っていました。
狩猟が始まると太叔は気を奮いたたせて技を駆使し、諸将が及ばない功を挙げました。喜んだ襄王は約束通り車を与えます。他の諸将も獲物の数に応じて賞が与えられました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十七回その四に続きます。