第三十八回 周襄王が鄭に住み、晋文公が原を降す(中編)

*今回は『東周列国志』第三十八回中編です。
 
二将が捕えられたと聞いた周襄王は、富辰にこう言いました「早くから卿の言に従っていれば、このような禍を招くことはなかった。」
富辰が言いました「翟の勢いは盛んです。王は暫く出巡するべきです。諸侯の中には必ず王の帰還を倡議する者がいます。」
しかし周公・孔が反対して言いました「王師は敗れましたが、百官の家属を全て集めれば、まだ城を背にして一戦できます。なぜ軽々しく社稷を棄てて諸侯に命を委ねるのですか。」
召公・過が言いました「主戦は危計となります。臣の愚見では、この禍は叔隗から出ています。王はまず誅(罪)を正し、それから城を堅守して諸侯の援けを待つべきです。これが万全の計です。」
襄王が嘆息して言いました「朕の不明によって自ら禍を招いてしまった。太后の病も重い。朕は暫く位を避けて太后の意思を満足させよう。もしも人心(諸侯)が朕を忘れないようなら、諸侯の考えを聞けばよい。」
襄王が周公と召公の二人に言いました「太叔がここに来るのは隗后のためだ。隗氏を得たら国人の誹謗を恐れて王城に長居しようとはしないだろう。二卿は朕のために兵を整えて王城を守り、朕が帰るのを待て。」
周・召二公は頓首して命を受けました。
襄王が富辰に問いました「周と隣接しているのは鄭、衛、陳の三国だけだ。朕はどこに行くべきだ?」
富辰が言いました「陳と衛は弱いので、鄭に行くべきです。」
襄王が言いました「朕はかつて翟を用いて鄭を討伐した。鄭は怨んでいるだろう。」
富辰が言いました「臣が鄭に行くように勧めたのは、まさにそのためです。鄭の先世(先代の国君)は周に対して功があり、その嗣(後継者)もそれを忘れるはずがありません。王が翟を用いて鄭を討伐したので、鄭は心中に不平を抱いており、翟が周に背くことで自らの順(恭順)を明らかにしたいと日夜願っています。今、王が鄭に行けば、鄭は喜んで王を迎え入れる出しょう。怨まれることはありません。」
襄王は鄭に行くことを決意しました。
富辰が続けて進言しました「王が翟鋒(翟の勢い。翟の主力)に立ち向かって城を出たら、翟人がことごとく王に難を成すでしょう(王を集中して攻撃するでしょう)。臣が家属を率いて翟と決戦するので、王はその機に乗じて脱出してください。」
富辰は全ての子弟親党を集めました。数百人が忠義に勉め、門を開いて翟の陣営に突進します。富辰の一隊が翟兵を足止めしている間に、襄王は簡師父、左鄢父等十余人と共に城を出て鄭国に向かいました。
 
富辰は赤丁と大戦し、多くの翟兵を殺傷しました。しかし富辰も重傷を負います。頽叔と桃子が富辰に遭遇したため、慰めて言いました「子の忠諫は天下が知っている。今日ここで死ぬ必要はない。」
しかし富辰はこう言いました「以前、私はしばしば王を諫めたが、王が聞き入れなかったために、こうなってしまった。もしも私が死戦を尽くさなかったら、王は私が王を怨んでいると思うだろう。」
富辰は再び力戦し、長い間戦った末に力尽きて死にました。子弟親党で共に死んだ者は三百余人に上ります。
 
富辰の死後、翟人はやっと襄王が王城から脱出したと知りました。城門は既に閉じられています。
太叔は原伯貫を釈放して門外から城内を説得させました。周・召二公が城楼に立って太叔に言いました「門を開いて迎え入れたいところですが、翟兵が入城して剽掠(略奪)を行うのではないかと恐れるので、城門を開くわけにはいきません。」
太叔は赤丁を説得し、城外に駐軍すれば府庫の財物を出して労うと約束しました。赤丁は同意します。
太叔は王城に入って冷宮から隗后を救い出しました。その後、恵太后に謁見します。太叔を見た太后は、喜びのあまり一笑して息絶えました。
太叔は太后の喪を治めず、真っ先に隗后と宮中で一緒になりました。
小東を探して殺そうとしましたが、哀れな小東は罪を恐れて既に井戸に身投げしていました。
 
翌日、太叔が太后の遺命と偽って自ら王位に立ち、叔隗を王后にしました。朝廷に臨んで群臣の祝賀を受けます。
また、府藏を発して翟軍を大犒(慰労)しました。
これらが終わってから太后の喪を発します。
国人が太叔を謗って歌を作りました「母の喪をせず、婦人を娶る。嫂を婦人とし、臣下が王后を娶る。恥じ入ることなく、醜悪を語る。誰が彼を逐うのだろう。私と汝で動かそう(莫喪母,且娶婦,婦得嫂,臣娶后。為不慚,言可醜。誰其逐之,我與爾左右)。」
国人の歌を聞いた太叔は衆論が服していないと知り、変事の発生を畏れます。そこで隗氏を連れて温に遷り、大規模な宮室を築きました。日夜、そこで遊んで暮らします。
王城内の国事は全て周・召二公に委ねられました。太叔は王を名乗ったのに実際には臣民と接することがありません。
原伯貫は原城に逃げました。
 
周襄王は王城を出てから鄭国に向かいましたが、心中では鄭が受け入れるかどうかを疑っています。
襄王一行は竹が豊かに茂った場所に至りました。公館は見当たりません。ここは氾の地で、一名を竹川といいます。
襄王は土人(現地民)に尋ねて鄭の国境に入ったと知り、車を止めさせました。農民・封氏の草堂を借りて宿泊します。
封氏が「官(あなた)の職は何ですか?」と問うと、襄王は「わしは周の天子だ。国内に難があったので、それを避けてここに来た」と答えました。
驚いた封氏は叩頭謝罪してこう言いました「我が家の二郎は昨晩、夢で紅日が草堂を照らすのを見ました。その夢の通り、貴人が下降されました。」
封氏はすぐに二郎に命じて鶏を殺させ、食事の準備をしました。
襄王が問いました「二郎とは誰だ?」
封氏が答えました「民(私)の後母が生んだ弟です。民とここで同居し、食事を共にし、一緒に農耕を行って後母を養っています。」
襄王が嘆息して言いました「汝は農家の兄弟だが、このように和睦している。朕は天子という貴い地位にいるが、同母弟に害された。朕はこの農民に遥かに及ばない。」
襄王が悲痛して泣くと、大夫・左鄢父が言いました「周公は大聖でしたが、それでも骨肉の変がありました。王が自分を傷つけることはありません。速やかに難を諸侯に告げましょう。諸侯が坐視することはないはずです。」
襄王は自ら書稿を作り、斉、宋、陳、鄭、衛に送りました。そこにはこう書かれています「不穀(天子の自称)は不徳のため、母の寵子である弟の帯から罪を得て、遠く鄭地の汜に滞在している。敢えてこれを伝える。」
 
簡師父が言いました「今日の諸侯で伯(覇業)を図る志があるのは、秦と晋だけです。秦では蹇叔、百里奚、公孫枝といった諸賢が政治を行い、晋では趙衰、狐偃、胥臣といった諸賢が政治を行っているので、その君に勤王の義を説くはずです。他の国には望みがありません。」
そこで襄王は簡師父を晋に、左鄢父を秦に派遣して難を伝えました。
 
鄭文公は襄王が氾に住んでいると聞き、笑って言いました「天子は今日になってやっと翟が鄭に及ばないことを知ったか。」
即日、工師を氾地に派遣して廬舍を建てさせ、文公自ら起居(訪問して様子を伺うこと)し、生活に必要な物資を確認して全て供給しました。礼を尽くす鄭文公を見て、襄王は慙愧の色を表します。
魯・宋の諸国も使者を送って安否を問い、食糧や物資を献上しました。しかし衛文公だけが来なかったため、魯の大夫・臧孫辰(字は文仲)が嘆いて言いました「衛侯はもうすぐ死ぬだろう。諸侯に王がいるのは、木に本(根)があり、水に源があるのと同じだ。木に本がなければ枯れてしまい、水に源がなければ涸れてしまう。(王を尊重しなかったら)死なないはずがない。」
これは襄王十八年冬十月の事です。
翌年春、衛文公が死んで世子・鄭が即位しました。これを成公といいます。臧文仲の予言が的中しました。
 
晋に向かった簡師父が王命を伝えました。晋文公が狐偃に意見を求めると、狐偃はこう言いました「かつて斉桓公が諸侯を糾合できたのは、王を尊んだからにほかなりません。しかも晋は頻繁に国君を変え、民はそれが当然のことと思っているので、君臣の大義を知りません。主公は王を帰還させて太叔の罪を討ち、民に二心を持ってはならないことを教えるべきです。今こそ文侯が周を援けた勲を受け継ぎ、武公が晋を開いた烈(功業)を明らかにする時です。晋が王を援けなかったら、秦が援けるでしょう。そうなったら伯業(覇業)は秦に帰することになります。」
文公が太史・郭偃に卜をさせました。郭偃が報告しました「大吉です。黄帝が阪泉で戦った兆です黄帝は阪泉で炎帝を破って天下の主になりました)。」
文公が言いました「寡人には恐れ多いことだ。」
すると郭偃が言いました「周室は衰えたとはいえ、天命はまだ改まっていません。今の王は古の帝にあたります(晋文公が黄帝にあたるのではなく、周王が黄帝にあたります。文公が恐れ入る必要はありません)。叔帯に勝つのは確実です。」
文公が言いました「わしのために改めて筮で占ってみよ。」
郭偃が占うと、『乾』が下、『離』が上の『大有』の卦が出てから、第三爻が動いて『兌』が下、『離』が上の『睽』の卦に変わりました。
郭偃が断言しました「『大有』の九三は『公は天子に享される(公用享於天子)』といいます。戦に勝って王が享す(福を与える。宴を開く)のですから、これ以上の吉はありません。『乾』は天、『離』は日を表します。日が天の上で照らすのは昭明の象です。『乾』が『兌』に変わったのは、『兌』は沢を意味し、それが下にあるので、『離(日)』に照らされていることを表します。これは天子の恩光が晋国を照らすということです。躊躇する必要はありません。」
喜んだ文公は車徒(車兵と歩兵)を選んで左右二軍に分けました。趙衰が左軍の将、魏犨が佐となり、卻溱が右軍の将、顛頡が佐になります。文公も狐偃、欒枝等を率いて左右両軍の動きに呼応することにしました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十八回後編に続きます。