第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す(中編)

*今回は『東周列国志』第四十一回中編です。
 
晋文公は楚師を破ってから本営を楚の大寨に移しました。
寨内には楚軍の大量な糧草が残されています。晋の各軍はそれを消費し、戯れてこう言いました「これは楚人が我々を館穀(住む場所と食糧を提供すること。招待)したのだ。」
斉と秦および晋の諸将が北面して祝賀の辞を述べましたが、文公はそれを受けず、憂色を浮かべました。諸将が問いました「主公は敵に勝ったのに憂いていますが、何故ですか?」
文公が言いました「子玉は人の下になることに甘んじるような者ではない。勝っても頼りにならなければ(「勝不可恃」。勝利を得てもそれが盤石でなければ)、惧れをなくすことはできない。」
国帰父、小子憖等が別れを告げました。文公は戦利品の半数を斉・楚に譲ります。二国は凱旋帰国しました。
宋の公孫固も本国に帰りました。宋公は斉と秦に使者を送って謝意を示しました。
 
先軫が捕えた祁瞞を文公の前に連れてきました。命に背いて軍を辱めた罪を上奏します。
文公は祁瞞が楚軍の誘いに乗って出撃したことを譴責して言いました「上下二軍が先に勝っていなかったら、楚兵を制すことができたか?」
文公は司馬・趙衰に罪(刑)を定めさせ、祁瞞を斬って軍中に晒し、こう号令しました「今後、元帥の令に逆らう者がいたらこれを視よ!」
軍中の将兵はますます軍令を恐れるようになりました。
 
大軍が有莘に三日間滞在してから、撤兵の命令を発しました。
晋軍が南河まで来た時、哨馬が報告しました「河下黄河沿岸)の船がまだ準備できていません。」
文公は船の準備を命じた舟之僑を呼びましたが、舟之僑はいませんでした。
舟之僑は虢国から降った将ですが、晋に仕えて久しいため、功を立てて重用されることを願っていました。しかし今回与えられた任務は南河で船を集めることだったため、心中不満でした。ちょうどその頃、家の報せを受けました。妻が重病にかかったという内容です。舟之僑は晋・楚の対峙が長引くと判断し、暫く虢の家に帰って妻の看病をすることにしました。ところが晋軍は夏四月戊辰(初一日)に城濮に至り、己巳(初二日)に交戦して楚軍に大勝しました。その後、三日間兵を休ませ、癸酉(初六日)には大軍が引き上げ始めます。前後六日も経たずに晋侯が河下に至ったため、渡河の準備が間に合いませんでした。
激怒した文公は軍士に命じて四方から民船を徴収しようとしました。すると先軫が言いました「南河黄河南岸)の百姓は我々が楚を破ったと聞き、恐れ震えています。もし無理に徴収したら逃げ隠れしてしまうでしょう。厚賞を与えると約束して船を募るべきです。」
文公は同意して軍門に厚賞の令を掲げました。すると百姓は争って船を岸に泊めます。わずかな時間で蟻のように舟が集まりました。晋の大軍が黄河を渡って北上します。
 
文公が趙衰に問いました「曹・衛の恥は既に雪いだが、鄭の仇だけはまだ報いていない。どうするべきだ?」
趙衰が言いました「主公が師を遠回りさせて鄭を通過すれば、鄭は必ず出て来ます。」
文公はこれに従いました。
 
数日後、遠くに一隊の車馬が見えました。多くの人が一人の貴人を囲み、東から向かってきます。
晋の前隊にいた欒枝が迎えに行って確認すると、貴人はこう言いました「私は周天子の卿士・王子虎です。晋侯が楚を討伐して勝利し、中国を安らかにさせたと聞いたので、天子が自ら鑾輿(天子の車)を駕して三軍の犒(慰労)に来ました。それを知らせるために虎(私)を先行させたのです。」
欒枝が子虎を文公に会わせました。
文公が群臣に問いました「天子が自ら寡人を労いに来たが、道路の間(路上。国外)でどのような礼を用いるべきだろうか?」
趙衰が言いました「ここから遠くない衡雍に践土という場所があります。そこは土地が広くて平らなので、昼夜をかけて王宮を建造しましょう。完成してから主公が列国の諸侯を率いて天子の駕を迎え、朝礼を行えば、君臣の義を失わずにすみます。」
文公は王子虎と相談して五月の吉日に践土で周王の駕を待つことを約束しました。子虎は別れを告げて戻ります。
大軍が衡雍に向かって再び進みました。
 
途中でまた一隊の車馬に遭遇しました。一人の使臣が晋軍を迎えます。鄭の大夫・子人九でした。
子人九は鄭伯の命を奉じており、晋軍が鄭の罪を討つことを恐れて講和を求めました。
晋文公が怒って言いました「鄭は楚が敗れたと聞いて恐れて来たのだ。本心ではない。寡人は王に朝覲してから師徒を率いて鄭の城下に至ろう。」
趙衰が言いました「我々が出師してから、衛君を逐い、曹伯を捕え、楚師を破り、既に兵威を振うことができました。更に鄭に対して多くを求めたら、師を疲労させるだけです。主公は黙って講和に同意するべきです。もし鄭が本当に帰順を決心したようなら罪を赦しましょう。もしまだ二心があるようなら、数カ月休息してから討伐しても晩くはありません。」
文公は鄭との講和に同意しました。
 
 
 
*『東周列国志』第四十一回後編に続きます。