第四十一回 連谷城で子玉が自殺し、践土壇で晋侯が盟を主す(後編)

*今回は『東周列国志』第四十一回後編です。
 
晋の大軍が衡雍に営寨を築きました。
文公は狐毛と狐偃に晋の兵を率いて践土の王宮を築造させ、同時に欒枝を鄭城に送って鄭伯と盟を結ばせました。
鄭伯も自ら衡雍を訪れて致餼(物資を提供すること)・謝罪したため、文公は鄭伯と歃血して友好を約束しました。
文公が鄭伯と話している時、楚の子玉の英勇に触れました。すると鄭伯が言いました「彼は既に連谷で自殺しました。」
文公は久しく嘆息しました。
鄭伯が退席してから、文公は秘かに諸臣にこう言いました「今日、鄭を得たことは嬉しくもない。しかし楚が子玉を失ったのは嬉しいことだ。子玉が死ねば、残った者は心配の必要がない。諸卿も枕を高くして寝ることができるだろう。」
 
狐毛と狐偃は明堂(天子が政教を宣布する場所)の制に基づいて王宮を築きました(『東周列国志』は『明堂賦』を紹介していますが省略します)
王宮の左右には複数の館舍が建てられます。工事は昼夜休まず続けられ、一月余で完成しました。
文公が諸侯に檄を飛ばしてこう伝えました「五月朔日、践土に集結せよ。」
宋成公・王臣、斉昭公・潘は元々晋と旧好があり、鄭文公・捷は新たに晋に帰順したばかりだったため、率先して参加しました。この他にも、魯僖公・申は楚と友好を通じており、陳穆公・款、蔡荘公・甲午は楚と共に出兵した楚の党でしたが、晋の罪を恐れて参加しました。邾・莒は小国なので言うまでもありません。しかし許僖公・業は楚に仕えて最も長いため、晋に帰順しませんでした。秦穆公・任好は晋と同盟関係にありましたが、中国(中原)の会盟に参加したことがなかったため、躊躇して結局参加しませんでした。衛成公・鄭は襄牛に出奔しており、曹共公・襄は五鹿に囚われています。晋侯は二国の復国を約束しましたが、まだ明確な赦しを得ていなかったため、会に参加できませんでした。
 
このうち、衛成公は晋が諸侯を集めたと知って甯兪に言いました「諸侯を会に集めながら衛に声がかからないということは、晋の怒りがまだ収まっていない証拠だ。寡人はここに留まっているわけにはいかない。」
甯兪が言いました「主公がいたずらに出奔したとしても、誰が主公を受け入れるでしょう。国君の位を叔武(成公の弟)に譲り、元咺に叔武を奉じさせて践土の盟への参加を乞わせるべきです。そうすれば主公は遜避(譲位)して国を出たことになります。もし天が衛に祚(福)を与え、武が盟に参加できたら、武によって国が保たれます。それは主公が国を有するのと同じです。武は元々孝友の人物なので、主公に代わることはできません。これは主公が国君の地位を回復する計となります。」
衛侯は不服でしたが、事ここに至っては同意するしかありません。孫炎を衛都に送り、甯兪が話した事を君命として叔武に伝えることにしました。孫炎は命を受けて楚丘(衛都)に向かいます。
衛侯が甯兪に問いました「寡人は出奔したいと思うが、どの国がいいだろう?」
甯兪が躊躇して答えないため、衛侯が問いました「楚に行くのは如何だ?」
甯兪が言いました「楚とは婚姻関係がありますが、晋の仇です。しかも既に楚との関係を絶つと宣言したので、楚に行くべきではありません。陳に行くべきです。陳は晋に仕えようとしているので、晋と通じる助けになります。」
しかし衛侯はこう言いました「楚との関係を絶ったのは寡人の本意ではない。楚は赦すはずだ。それに、晋・楚の将来もまだ分からない。武を晋に仕えさせ、わしが楚に助けを求めれば、二つの道から展望できるではないか。」
こうして衛侯は楚に向かいました。しかし楚の辺人が衛侯を追い払って罵倒しました。
衛侯は行き先を陳に変え、甯兪の先見の明に感服しました。
 
その頃、孫炎が叔武に会って衛侯の命を伝えました。叔武が言いました「私は摂(代理)として国を守っているのです。讓(譲位)を受けることはできません。」
叔武は国君の代理として元咺と共に践土に赴くことにし、孫炎には衛侯にこう伝えるように命じました「晋侯に会ったら兄のために復位を哀願しましょう。」
元咺が言いました「主公は猜疑心が強いので、親子弟(肉親の子弟)を孫炎に従わせなければ信じないでしょう。」
元咺は子の元角に命じて孫炎と一緒に還らせました。名目は問候(安否を問うこと。挨拶)ですが、実際は人質です。
公子・犬が秘かに元咺に言いました「主公が復位できないのは分かりきったことです。子(あなた)はなぜ讓国の事を国人に宣言し、夷叔(叔武。「夷」は諡号なので、生前の叔武を夷叔と呼ぶことはありません。『東周列国志』の誤りです)を擁して自ら相にならないのですか?晋人もきっと喜ぶでしょう。子が晋の後ろ盾を得て衛に臨めば、子は武と共に衛を治めることができます。」
元咺が言いました「叔武が兄を無視することができないのだから、わしも主公を無視することはできない。そもそも、今回は我が主公の復位を請いに行くのだ。」
犬は言葉がなくなり退出しました。しかし、もし衛侯が復国できたら元咺がこの件を漏らすかもしれません。その時は犬が罪を問われることになります。そこで秘かに陳国に入り、衛侯にこう言いました「元咺は既に叔武を国君に立て、晋と会してその位を定めようとしています。」
衛成公はこの言葉に惑わされて孫炎に問いました。しかし孫炎はこう言いました「臣の知らないことです。元角がここに来ています。父に謀があるのなら、角も聞いているでしょう。角に問うべきです。」
衛侯が元角に問うと、元角は「そのような事はありません」と答え、甯兪もこう言いました「咺が主公に対して不忠なら、自分の子を送って主公に侍らせるはずがありません。疑う必要はありません。」
しかし公子・犬は個人的に衛侯に会ってこう言いました「咺が主公を拒む謀を設けたのは、一日の事ではありません。子を送ったのは主公に対して忠心があるからではなく、主公の動静を探って備えとするためです。もし晋に哀願して主公の復位を求めるのなら、会への参加は辞退するはずです(国君の立場には立たないはずです)。もし公然と会に参加するようなら、本当に国君になるつもりです。主公は注意して見守るべきです。」
衛侯は叔武に知られないように人を送り、践土で叔武と元咺を監視させました。
 
夏五月丁未日(初十日)、周襄王が践土に入りました。晋侯が諸侯を率いて三十里外で出迎え、王宮に送ります。
襄王が殿に座ると、諸侯が謁拝稽首しました。起居(あいさつ)の礼が終わり、晋文公が楚から得た捕虜や戦利品を王に献上します。甲冑をつけた馬百乗、歩卒千人、器械衣甲十余車です。
襄王は喜んで自ら慰労し、こう言いました「伯舅・斉侯が世を去ってから、荊楚が再び強盛になり、中夏を侵犯するようになった。しかし叔父が王室を尊ぶために義によって討伐した。文王・武王以下、先王が叔父の休(美徳)を頼りにしている。朕だけが感謝しているのではない。」
晋侯が再拝稽首して言いました「臣・重耳が幸いにも楚寇を殲滅できたのは、全て天子の霊(福)のおかげです。臣に功はありません。」
 
翌日、襄王が宴を設けて晋侯をもてなしました。上卿・尹武公、内史・叔興が策命によって晋侯を方伯(覇者)に任命し、大輅の服と冕、戎輅の服と韋弁(大輅は天子の車。戎輅は兵車。服というのはそれぞれの車に見合った衣服や装飾。冕と韋弁は冠の種類)、彤弓一・彤矢百(彤は赤)弓十・矢千は黒)、秬鬯一卣(秬鬯は祭祀で用いる酒。卣は酒器)、虎賁の士(勇猛な士)三百人を下賜しました。
尹武公等が王命を宣言しました「汝晋侯に征伐の特権を与える。それによって王慝(王に悪を行う者)を糾弾せよ。」
晋侯は再三辞退してから受け入れ、王命を諸侯に告げました。
 
文公を中心に諸侯を集めて会を開き、盟会の政(会盟の約束)を改めることになりました。襄王が王子虎に命じて晋侯を盟主に冊封させます。
晋侯が王宮の側に盟壇を築きました。諸侯は王宮で覲礼を行ってから会盟の場所に集まります。
王子虎が会盟を監督しました。晋侯が壇を登って牛耳を執り、諸侯が順に壇を登ります。
これ以前に元咺が叔武を連れて晋侯を謁見しました。会盟の席では、叔武が衛君の摂(代理)として載書(盟書)の最後に名を記します。
子虎が誓詞を読みました「この同盟に参加した全ての国は、皆、王室を援け、互いに害してはならない。盟に背く者がいたら明神の殛(咎)を受け、殃(禍)は子孫に及び、命を落として祀を絶えさせることになる。」
諸侯が声をそろえて言いました「王命によって和睦が修められました。謹んで受け入れます。」
それぞれ歃血して信を誓います。
 
会盟が終わってから、晋侯は叔武を襄王に謁見させようとしました。成公の代わりに叔武を衛君に立てることを襄王に認めさせるためです。
叔武が泣いて言いました「かつて寧母の会で鄭の子華が子でありながら父の位を犯そうとしました。しかし斉桓公はそれを拒絶しました。今、貴君は桓公の業を継いだばかりなのに、武(私)に弟の身でありながら兄の位を犯させるのですか。君侯が武に嘉恵を施し、矜憐(憐れみ)を与えようというのなら、臣の兄・鄭の復位を請います。臣の兄・鄭は君侯に仕えて裏切ることはありません。」
元咺も叩頭して哀請したため、晋侯はやっと首肯しました。
 
衛侯はいつ国に帰ることができるのか、続きは次回です。