第四十三回 智甯兪が衛を復し、老燭武が秦を説く(中編)

*今回は『東周列国志』第四十三回中編です。
 
周襄王が京師に戻り、群臣が謁見して祝賀しました。
晋の先蔑が稽首して晋侯の命を伝え、衛侯を司寇(法官)に預けるように求めます。
当時、周公・閲が太宰として政治を行っていたため、閲は衛侯を館舍(客舎)に住ませて修省(修身反省)を確認しようとしました。しかし襄王は「大獄に置くのは重すぎるが、公館に住ませるのは軽すぎる」と言い、民間の空部屋に囚室を造って幽閉するように命じました。襄王は衛侯を守りたいと思っていますが、晋文公の怨恨が深く、しかも先蔑が監視しているため、晋の不満を招くことを恐れました。そこで囚禁という名目で幽閉しましたが、実際は寛大な措置です。
 
甯兪は衛侯に従って一歩も離れず、寝る時も一緒でした。飲食の類は必ず自分で毒見をしてから衛侯に進めます。
先蔑は医衍に何回も催促しましたが、甯兪の警戒が厳しいため、手を下す余地がありません。医衍はやむなく実情を甯兪に話し、こう言いました「晋君の強明は子(あなた)も知って通りです。罪を犯す者がいたら必ず誅し、怨みがある者には必ず報います。衍がここに来たのは、命を奉じて酖を用いるためです。実行しなければ衍が罪を得ることになります。衍は死から逃れるために計を行います。子はそれを漏らさないでください(見逃してください)。」
甯兪が医衍の耳元で言いました「子(汝)は腹を割いて私に教えてくれた。子の謀を妨害するつもりはない。ところで、子の国君は老いたので人謀を遠ざけて鬼謀を近づけている。最近では曹君が赦されたが、巫史の一言を聞いたからだ。子が酖を薄めて進め、鬼神の言を借りれば、国君の罪を得ることなく、寡君からも薄献(礼物)が与えられるだろう。」
医衍は意図を察して帰りました。
 
後日、甯兪が衛侯の命と偽って医衍に薬酒を提供させ、秘かに一函(箱)の宝玉を贈りました。
医衍は先蔑に「衛侯の死期が来ました」と言うと、酖を甌(酒器)に入れて衛侯に届けます。わざと毒を少なくし、他の薬を混ぜて色をつけました。
甯兪が毒身をしようとすると、医衍はそれを拒否し、衛侯に強制して薬を飲ませました。ところが、衛侯の口に薬酒を二三口注いだ時、医衍は目を開いて天を仰ぎ、突然絶叫して地に倒れました。口から鮮血を吐き、意識を失って甌を投げ捨てます。酖酒は撒き散らされました。
甯兪はわざと驚いたふりをして左右の近臣に太医を抱きかかえさせます。暫くして医衍がやっと目を覚ましました。甯兪が倒れた理由を聞くと、医衍が言いました「酒を注いだ時、突然、一人の神人が現れました。身長は一丈余もあり、頭は斛(重量を量る容器)ほどの大きさがあり、身なりには威厳があります。天から地に降りて直接室内に入り、こう言いました『唐叔の命を奉じて衛侯を救いに来た。』言い終わると金鎚で酒甌を打ち壊し、私の魂魄を失わせたのです。」
衛侯も自分が見た医衍の様子を話しました。医衍の話と一致しています。
甯兪がわざと怒って言いました「汝は毒を用いて我が君を害すつもりだったのか!もし神人が助けに来なかったら、禍から逃れられなかっただろう。わしと汝は義によって共に生きることはできない!」
甯兪が医衍と争おうとしましたが、近臣が止めて騒ぎを収めました。
変事を聞いた先蔑が急いで車を駆けて確認に来ました。
先蔑が甯兪に言いました「汝の国君が神祐(神の助け)を得たのなら、後禄(今後の福禄)がまだ尽きていないのでしょう。蔑が寡君に報告します。」
衛侯が飲んだ酖は薄くて少なかったため、一時的に体調を壊しただけですぐに回復しました。
先蔑と医衍は晋に還って文公に報告しました。文公はこれを信じて医衍を誅殺しませんでした。
 
魯僖公は衛と代々親睦がありました。医衍が酖を進めても死なず、晋文公も医衍を罰しなかったと知り、臧孫辰に問いました「衛侯は復位できるだろうか?」
臧孫辰が言いました「復位できます。」
僖公がその理由を問うと、臧孫辰が言いました「五刑を用いる場合は、大きいものは甲兵斧鉞を使い、次のものは刀鋸鑽笮を使い、最も下のものは鞭撲を使います。また、原野に晒したり、市朝でみせしめにすることで、百姓に対してその罪を明らかにします。しかし今、晋侯は衛に対して刑を用いず、秘かに酖を使いました。また、医衍を誅殺しませんでした。これは衛侯殺害の名を避けたいと思っているからです。衛侯を助けるとしたら、周より大きな力を持つものはいません。もし諸侯(魯)(周に)請えば、晋は必ず衛を赦します。衛侯が復国したら、必ずますます魯と親しくし、諸侯も魯の高義を称えるでしょう。」
喜んだ僖公は臧孫辰に命じて白璧十双を周襄王に献上させました。衛侯の釈放を求めます。
襄王が言いました「これは晋侯の意思だ。晋の後言(影の意見。反対意見)がなければ、朕が衛君を嫌うこともない。」
臧孫辰が言いました「寡君は辰(私)を晋に送って哀請させるつもりです。しかし天王の命がなければ、下臣が勝手に晋に行くわけにはいきません。」
襄王は白璧を受け取って同意したことを示しました。
 
臧孫辰は晋に入って文公に会い、再び白璧十双を献上してこう言いました「寡君と衛は兄弟です。その衛侯が君侯の罪を得たので、寡君は安心できません。最近、曹伯が既に釈放されたと聞きました。寡君は不腆の賦(粗末な礼物)を献上して衛君のために贖罪したいと願っています。」
文公が言いました「衛侯は既に京師におり、王の罪人である。寡人が勝手に決めることはでいない。」
臧孫辰が言いました「君侯は天子に代わって諸侯に号令しています。君侯がその罪を赦すのなら、たとえ王命でも違えることはできません。」
先蔑が進言しました「魯は衛と親しいので、主公が魯のために衛を赦せば、二国と親しくなって晋に帰心させることができます。主公にとって不利なことはありません。」
納得した文公は先蔑に命じて臧孫辰と共に周に行かせました。二人が襄王に衛成公の釈放を請い、衛成公はやっと国に帰されます。
 
この時、衛国内では元咺が既に公子・瑕を国君に奉じていました。城壁を修築し、城門を出入りする者を厳しく取り締まっています。
衛成公は帰国の日に元咺が兵を発することを恐れて甯兪に相談しました。
甯兪が言いました「周と冶廑は子瑕を擁立した功があるので卿の位を求めましたが、それがかなえられず心中に怨みを持っていると聞きました。二人と結んで内援にしましょう。臣はある者と深く交わっています。姓は孔、名は達といい、宋の忠臣・孔父の後代で、胸中には広く経綸(国家の大事を図る計策)を持っています。周・冶の二人は孔父と知り合いでした。孔達に主公の命を与え、卿位を使って二人を誘わせましょう。元咺を殺すことができれば、他の者は恐れるに足りません。」
衛侯が言いました「子(汝)が秘かに行動してくれ。事が成功したら卿位を惜しむことはない。」
 
甯兪は心腹の者を使って「衛侯は寬釈を得ることができたが、帰国する顔がないから楚国に向かって難を避けるつもりだ」という噂を流しました。同時に衛侯の手書を孔達に送り、個人的に周と冶廑の二人と交わらせました。成公復位の計画が伝えられます。
と冶廑が言いました「元咺は毎晩、自ら城を巡視する。伏兵を城闉(城門の外側にある曲城)の陰に隠して刺殺してから、宮中に入って子瑕を殺そう。その後、宮室を整理して衛侯を迎え入れれば、我々二人を越える功はない。」
二人はそれぞれ自分の家丁を埋伏させました。
 
黄昏の頃、元咺が東門を巡視しました。周と冶廑の二人が共に迎えに来ます。元咺が驚いて問いました「二人はなぜここにいるのだ?」
が言いました「城外の人々の噂では、故君が既に衛境に入り、旦晩にはここに至るとのことです。大夫は知らないのですか?」
元咺が愕然として問いました「その噂はどこから聞いたのだ?」
冶廑が言いました「甯大夫が人を城内に送り、諸臣と出迎えを約束したようです。大夫はどう対処するつもりですか?」
元咺が言いました「そのような乱言を信じることはない。そもそも大位は既に定まったではないか。なぜ故君を迎え入れなければならないのだ。」
が言いました「大夫は正卿であり、万里を洞察する必要があるのに、このような大事も知らないのか!あなたを活かしておいても意味がない!」
冶廑が元咺の両手をつかみました。元咺は暴れて抵抗しましたが、周が佩刀を抜き、大喝して頭を半分に斬ります。
そこに伏兵が襲いかかったため、元咺に従っていた者達は驚いて四散しました。
と冶廑は家丁を率いて公宮に向かいました。道中、「衛侯が斉・魯の兵を率いて城外に集まった!汝等百姓は安居しておれ。妄りに動いてはならない!」と大呼しながら進みます。人々は門を閉じて家にこもりました。
朝廷で官職に就いている者達は半信半疑でしたが、どうすればいいか判断ができないため傍観して消息を待ちます。
その間に周と冶廑が宮中に殺到しました。
 
公子・適(衛君・子瑕)は弟の子儀と宮中で酒を飲んでいました。兵変を聞いた子儀は剣を手にして宮外に確認に行きます。しかし周に遭遇して殺されました。
と冶廑は公子・適を探しましたが見つかりません。宮中は一晩中、混乱に陥りました。
翌朝、空が明るくなる頃、子適が井戸に身を投げて死んだことがわかりました。
と冶廑は衛侯の手書を朝堂に掲げて百官を集めました。衛成公が城に迎え入れられて位を復します。
後世の人は甯武子(甯兪)を論じる時、身を屈して成公と苦難を共にし、ついに復位させた智謀を称えました。しかし本来なら成公を諭して子瑕に国を譲らせるべきだったとも言っています。子瑕が衛君の帰国を知ったら、兵を率いて戦うとは限らず、臣下の位に退いたかもしれません。そうなっていたら双方が満足できる結果を得られました。周と冶廑を招いて国君の位を奪わせ、弑逆を行って骨肉の争いを招いたのは、衛成公の徳が薄かったからとはいえ、武子も無罪とはいえません。
 
 
 
*『東周列国志』第四十三回後編に続きます。