第四十三回 智甯兪が衛を復し、老燭武が秦を説く(後編)

*今回は『東周列国志』第四十三回後編です。
 
復位した衛成公は吉日を選んで太廟の祭祀を行い、約束を守って周と冶廑に卿職を授けることにしました。二人には卿服を着て廟の祭祀に同席するように命じます。
当日五鼓(五更。午前三時から五時)、周が車に乗って先に到着しました。ところが廟門を通ろうとすると、突然眼球を翻らせてこう叫びました「周!穿窬(壁に穴を開けたり乗り越えて侵入する賊)の小人!蛇豕(蛇や豚)の奸賊!我々父子は国に対して忠を尽くしたのに、汝は卿位の栄誉を貪って我が命を害した!我々父子が九泉で冤を含んでいるというのに、汝は卿服を着て祀に臨むとは、さぞ嬉しいことだろう!わしが汝を捕まえて太叔と子瑕に会わせてやろう。汝はどうやって言い逃れするつもりだ!わしは上大夫の元咺だ!」
言い終わると九竅(顔や体中の孔)から血を流し、車の上で死にました。
後から来た冶廑は驚いて卿服を脱ぎ、中寒(病)と称して引き返します。
衛成公は太廟に入り、二人の代わりに甯兪と孔達を同席させました。
成公が朝廷に戻ると、冶廑が爵位を辞退する表章が届いていました。衛侯は周の死を不思議に思っていたため、冶廑へも卿位を強制しませんでした。
しかし一月も経たずに冶廑も病死しました。
憐れで愚かな周・冶の二人は卿位を貪ろうとして不義の事を行い、一日の栄華を得ることもなく、千年の唾罵(罵声)を得ることになってしまいました。
 
衛侯は自分を守ってきた甯兪を上卿に用いようとしました。しかし甯兪が孔達に譲ったため、孔達が上卿に、甯兪は亜卿になりました。
孔達は衛侯のために画策して元咺と子瑕の死を全て周と冶廑の二人の罪とし、晋侯に使者を送って謝罪しました。晋侯は成公を責めませんでした。
 
 
周襄王十二年、晋が兵を休めて一年以上経ちました。
ある日、晋文公が朝廷で群臣に問いました「鄭人の無礼にまだ報いていない。しかも鄭は晋に背いて楚と通じた。諸侯と合流して罪を問いたいと思うが如何だ?」
先軫が言いました「諸侯は頻繁に働いています。鄭のためにまた動員したら、中国を安んじることができません。そもそも我が軍には欠けがなく、将士も命に従っています。外に援けを求める必要はありません。」
文公が言いました「秦君と別れた時、必ず共に事を行うと約束した。」
先軫が言いました「鄭は中国の咽喉に当たるので、斉桓公も天下の伯(覇者)を欲した時にはいつも鄭の地を争いました。もしも秦と共に鄭を討ったら、秦が必ず鄭を争うようになります。本国の兵だけを用いるべきです。」
しかし文公は「鄭は晋と隣接しているが秦からは遠い。秦にとって利はない」と言い、秦に使者を送って九月上旬に鄭境で合流することを約束しました。
 
文公は鄭の公子・蘭を従わせることにしました。子蘭は鄭伯・捷の庶弟で、かつて晋に奔って大夫に任命されました。文公が即位してから、子蘭は文公の左右に仕えて並ぶ者がないほど忠謹だったため、文公に気に入られていました。
今回、鄭を討伐することになったため、文公は子蘭に先導させようとしました。しかし子蘭はこう言いました「『君子は他郷にいても父母の国を忘れない(君子雖在他郷,不忘父母之国)』といいます。主公が鄭を討伐するとしても、臣がそれに参加することはできません。」
文公は「卿は本に背くことがない」と称賛し、公子・蘭を晋の東鄙(東境)に留めました。文公はこの時から子蘭を鄭君に擁立したいと思うようになります。
 
晋軍が鄭境を越えました。
秦穆公も謀臣・百里奚、大将・孟明視、副将・杞子、逢孫、楊孫等と車二百乗を率いて合流します。
両軍は共に郊関を破り、曲洧に直進して長い包囲網を築きました。晋軍は鄭城西の函陵に、秦軍は鄭城東の氾南に駐軍します。遊兵(小部隊)が日夜巡警し、鄭人は樵採(柴刈り)もできなくなりましたが、鄭文公には成す術がありません。
大夫・叔詹が進言しました「秦と晋は兵を合わせたばかりで勢いが鋭いので、まともに争うべきではありません。舌辯の士を得て秦公を説得し、兵を退かせるべきです。秦が師を退いたら晋は孤立するので、恐れる必要はありません。」
鄭伯が問いました「秦公を説得できる者はいるか?」
叔詹が言いました「佚之狐ならできます。」
そこで鄭伯は佚之狐に命じましたが、佚之狐はこう言いました「臣には荷が重すぎます。代わりにある者を推挙させてください。この者は口懸河漢(口が黄河漢水に繋がっている。話し始めたら止まらないこと。弁舌に優れていること)、舌搖山嶽(舌が山岳を動かす。弁舌に優れていること)の士ですが、老齢なので用いられていません。主公が官爵を加えて説得に行かせれば、秦公は必ず耳を傾けます」
鄭伯が「それは誰だ?」と問うと、佚之狐が言いました「考城の人で、姓は燭、名は武といいます。年は七十を過ぎていますが、圉正(馬を養う官の長)として鄭国に仕え、三世に渡って官を換えていません。主公が礼を加えて彼を派遣することを請います。」
鄭伯は燭武に入朝を命じました。髭も眉も全て白く、背も腰も曲がっており、足の動きもゆっくりでおぼつかないため、鄭伯の左右の者は皆笑いをこらえました。
燭武が鄭伯を拝して問いました「主公が老臣を召したのは何のためでしょうか?」
鄭伯が言いました「佚之狐が子の舌辨は人を越えていると言った。子を派遣して秦師を退かせたいと思う。成功したら、寡人は子と共にこの国を治めることにしよう。」
燭武は再拝してから辞退して言いました「臣は学に疎く才も劣ります。少壮の時ですら尺寸の功を立てることもできませんでした。既に老耄となったので筋力ともに尽きており、言葉を発するにも息が続きません。どうして犯顔(帝王や君子に会うこと)説得して千乗の国を動かすことができるでしょう。」
鄭伯が言いました「子は鄭に仕えて三世になるのに、老いても用いられなかった。これは孤(国君の自称)の過ちだ。今、子を亜卿に封じる。寡人のために行ってくれないか。」
佚之狐も横から言いました「大丈夫が老いても時にめぐり会えなかったのは命(天命)というものです。今、国君が先生の事を知って用いようとしているのですから、先生は辞退するべきではありません。」
燭武はやっと命を受けて出発しました。
 
この時、二国は激しい攻撃を加えていました。しかし燭武は東の秦軍と西の晋軍が連携できていないことを知っています。
その夜、燭武は壮士に命じて東門に縄を降ろさせました。縄には燭武が結びつけられています。城壁を降りた燭武は秦寨に走りました。
秦の将士が陣門を塞いで中に入れようとしないため、燭武は営外で大哭しました。営吏は燭武を捕えて穆公の前に連れて行きます。
穆公が「汝は誰だ?」と問うと、燭武が答えました「老臣は鄭の大夫・燭武です。」
穆公が問いました「何を大哭していたのだ?」
燭武が言いました「鄭が亡びようとしているから大哭したのです。」
穆公が問いました「鄭が亡ぶのに、なぜ我が寨の外で号哭したのだ?」
燭武が言いました「老臣は鄭のために哭しましたが、秦のためにも哭したのです。鄭が亡ぶのは惜しくありません。惜しいのは秦です。」
穆公が怒って言いました「我が国の何が惜しいというのだ!もしその言に理がなかったら、即刻斬首する!」
燭武は恐れる様子もなく、身振り手振りを加えて利害を説きました。その内容はこうです「秦と晋が兵を合わせて鄭に臨んだので、鄭の滅亡は言うまでもありません。もし鄭が亡ぶことが秦にとって益になるのなら、老臣には何も言うことがありません。しかし無益なばかりでなく、秦の損となるのです。貴君はなぜ師を煩わせ、財を費やして、他人のために役(兵役)を提供するのですか。」
穆公が「汝は益がなく損があると言うがなぜだ?」と聞きました。燭武が続けます「鄭は晋の東界にあり、秦は晋の西界にあります。東西は遥か千里にわたって隔てられています。秦の東には晋があり、南には周があります。周と晋を飛び越えて鄭を擁することができますか。鄭を亡ぼしたとしても、尺土に至るまで全て晋のものとなります。秦は何を得るのでしょう。秦と晋の両国は隣接しているので並立できません。晋がますます強くなれば、秦はますます弱くなります。人のために土地を奪い、自ら自分の国を弱くするようなことは、智者なら行いません。そもそも晋恵公がかつて河外五城を譲ると約束したのに、国に帰ってすぐに裏切ったのは有名な事です。貴君は代を重ねて晋に施しを与えてきました。しかし晋が貴君に対して分毫(わずか)でも報いたことがありますか。晋侯は復国してから兵を増やして将を設け、日々、兼併に務めて国を強大化しています。今日、東方に土地を拡げようとしていますが、鄭が滅亡したら、後日、西に土地を拡げようとするでしょう。その時、禍は秦に及びます。貴君は虞・虢の事を知らないのでしょうか。晋は虞君に道を借りて虢を滅ぼし、すぐに戈の向きを変えて虞を撃ちました。虞公の不智は晋を援けて自滅を招いたのです。これは教訓としなければなりません。貴君が晋に恩恵をもたらしても、晋を頼りにすることはできせん。しかも晋は秦を利用しており、その企みを測り知ることもできません。貴君は賢智がありながら甘んじて晋の術中に陥っています。だから臣は『益がないばかりか損になる(無益而有損)』と言って痛哭したのです。」
暫く黙って聞いていた穆公は心を動かされ、何度も首を縦に振って言いました「大夫の言う通りだ。」
百里奚が諫めて言いました「燭武は辯士です。両国の友好を裂きたいと思っているのです。聞いてはなりません。」
しかし燭武がこう言いました「貴君がもしも目下の包囲を緩めるなら、楚を棄てて秦に降る盟誓を立てましょう。貴君が東方で事を起こす時、行李(物資)は全て鄭から供給できます。鄭は貴君の外府と同じ立場になります。」
喜んだ穆公は燭武と歃血して誓いを行い、杞子、逢孫、楊孫の三将に二千人の兵を率いて鄭を守るように命じました。穆公自身は晋に別れを告げず、秘かに帰国します。
晋の探騎が早くもそれを文公に報告しました。文公は激怒し、傍にいた狐偃も秦軍追撃を請います。
 
文公は狐偃の請いに同意するのか。続きは次回です。