戦国時代48 東周顕王(十六) 越の没落 前334年(2)

今回は東周顕王三十五年の続きです。
 
[] 越王無彊が斉を攻めました。
斉王は越に人を送り、斉を討つよりも楚を討った方が利があると遊説します。
越王はそれを聞いて楚を攻撃しました。
ところが越は楚に大敗します。
楚は勝ちに乗じて呉の故地をすべて奪い、東は浙江に至りました。
資治通鑑』にはありませんが、『史記越王句践世家』ではこの時に王無彊も殺されています。
 
以下、『越王句践世家』から詳細を書きます。
越では王之侯(『竹書紀年』では「無余之」、または「莾安」)が死んでから子の王無彊が即位していました(『竹書紀年』では「無余之」の後に「無顓」がいます。『史記索隠』は「無顓」の弟を「無彊」としています)
王無彊は中国(中原)と頻繁に争っており、北は斉、西は楚を攻撃しました。楚は威王の時代です。
越が斉を攻撃したため、斉威王(『越王句践世家』では楚も斉も威王の時代としていますが、『六国年表』では既に斉宣王の時代になっています。楚は威王です)が人を送って越王にこう伝えました「越が楚を討たなかったら、大においては王を称すことができず、小においては伯(覇者)になることもできません。それなのに越が楚を討伐しないのは、晋(韓魏)の協力を得られないからではありませんか。韓と魏には元々楚を攻めるつもりがありません。韓が楚を攻めて、もしもその軍が覆滅し、その将が殺されたら、葉や陽翟(どちらも楚との国境)が不穏になります。魏ももしその軍が覆滅してその将が殺されたら、陳や上蔡(どちらも楚との国境)が不穏になります(だから韓も魏も単独では楚と戦おうとしないのです)。しかし二晋が越に協力して楚に対抗すれば、その軍が覆滅することはなく、その将が殺されることもなく、馬汗の力(汗馬の労。戦の労力)を必要とすることもありません。なぜ晋を重視して協力を得ようとしないのですか?」
越王が言いました「我が国が晋に望むのは、彼等が営塁を築いて楚と直接戦うことではない。楚の城を攻めて邑を囲むというようなことは、なおさら望んでいない。魏には大梁の城下に兵を集結させ、斉には南陽(斉の南境)や莒地南陽の東)で兵を鍛え、常(どちらも斉南部)の境に兵を集結してもらいたいだけだ。そうすれば楚は方城の外に兵を出せず(大梁に魏軍が集結して楚を牽制しているので、楚は越を攻撃できなくなります)、淮水と泗水の間の楚軍も東に進むことができなくなる。また、商、於、析、酈(四邑とも楚の西南)や宋胡(宗胡)の地にあたる夏路(中原に向かう道。夏は中華の意味)の左(西)の楚軍は秦に対する備えも充分にできず、江南、泗上(越との国境)の楚軍は越に対抗する力もなくなる。その結果、斉、秦、韓、魏が楚の地において志を得ることができ、二晋は戦わずに地を分け合い、荒野を耕さなくても田地を得ることになる。しかし今の二晋は河山の間で互いに攻伐しており、斉と秦に利用されている。我が国が頼るべき韓と魏がこのように計を失しているのに、どうして彼等に頼って王を称せるというのだ。」
斉の使者が言いました「越が今まで亡びなかったのは幸いと言うべきです。私にとっては、彼等が智謀を用いているかどうかは重要ではありません。なぜならその智謀は目のようなものだからです。目は細い毛でも見ることができますが、目先の睫毛は見えないものです。今の王は晋の失計(失策)を知りながら、越の過ちを知りません。これは目論(細い毛は見えるのに睫毛は見えない例え)と同じです。王が晋に望んでいるのは馬汗の力ではなく、連合して和すことでもなく、ただ楚の衆(軍)を分散させることだけのようですが、既に楚の衆は分散しています。これ以上、何を晋に望むのですか。」
越王が「どういうことだ」と聞いたので、使者が説明しました「楚の三大夫が九軍を指揮して北上し、曲沃(魏)と於中(秦)を包囲しています。そこから無假の関(または「西假関」)までは三千七百里に及びます(楚が包囲している曲沃と於中から秦魏との前線が長くなっているという意味だと思いますが、無假関の位置がよくわかりません)。また、景翠の軍が北の魯、斉、南陽(韓)に集まっています。これよりも分散することはないでしょう(西部は秦魏と戦っており、中部と東部は魯韓と対峙しています)。王が求めているのは晋楚の戦いで、晋楚が争わなかったら越は兵を起こさないつもりのようですが、これは二つの五があることを知っているのに一つの十があることを知らないようなものです。この機会に楚を攻撃しないので、臣は越が大においては王になれず、小においても伯になれないと判断しました。讎(犨)、龐(または「寵」)、長沙(三つとも楚の邑)は楚の粟(食糧庫)であり、竟沢陵(竟陵沢)は楚の材(木材を産出する地)です。越が秘かに兵を動かして無假の関まで開通すれば、この四邑(犨、龐、長沙、竟陵沢)は郢(楚都)に貢納(食糧や木材の輸送)できなくなります。王を目指す者はたとえ王になれなくても、まだ伯(覇者)になることはできます。しかし伯にすらなれない者は、完全に王道(王になる道)を失っています。大王が楚に攻撃を転じることを願います。」
越王は斉の使者の言葉を聞いて斉討伐を中止し、楚を攻撃しました。
楚威王も兵を起こして迎撃します。
その結果、越軍が大敗して王無彊も殺されました。
楚は呉の故地を全て奪って浙江に至り、翌年には北上して徐州で斉を破りました。
 
この後、越は分散し、諸公族が国君の位を争って王や君を名乗るようになりました。
江南の海岸沿いに分散した越の人々は楚に臣服します。
 
『越王句践世家』によると王無疆の七世後に閩君搖という者がおり、楚漢を援けて秦を倒したため、漢高帝(高祖劉邦が搖を再び越王に封じました。こうして越王句践の家系が継続されます。漢代の東越や閩等の君も越の子孫といわれています。
 
尚、『今本竹書紀年』は翌年に「楚が斉の徐州を包囲し、更に越を討伐して無疆を殺した」としています(翌年再述)
また、楊寛の『戦国史』は東周赧王九年(前306年)に楚が越を滅ぼしたとしています。以下、『戦国史』からです。
「前307年、秦国では武王の死後、国君の位を争う内乱が起きたため、一時的に国外の兼併を進めることができなくなった。その間に趙国は中山征服を謀り、楚国も越国攻撃を謀った。前306(楚懐王二十三年)、楚が越の内乱に乗じて越国を滅ぼし、江東に郡を置いた。」
 
解放軍出版社の『中国歴代戦争年表』にもこう書かれています。
「黄以州『做季雑著』、楊寛『戦国史』、中山大学楚簡整理小組『江陵昭固墓若干問題的探討』、呂栄芳『望山一号墓与越王剣的関係』、陳振裕『楚滅越的年代問題』等の書文は全て、楚が越を滅ぼした年を楚懐王二十三年(前306年)前後としている。
1978年、河北平山の戦国中山墓で中山王(「嚳」の「告」が「昔」)十四年製の鉄足銅鼎が出土したが、その銘文から前313年には越がまだ滅ぼされていなかったことが分かった。また『古本竹書紀年』も魏襄王七年(前312年)に越王が「公師隅耒を派遣して舟三百、葥五百万を献上した」と書いている。これらから『史記』『資治通鑑』が誤りだとわかる。」
「『史記楚世家』『史記秦始皇本紀』『戦国策秦策五』『越絶書呉地伝』『記地伝』『呉越春秋勾践伐呉外伝』『韓非子喩老』等によると、この年(東周顕王三十五年・前334)、楚軍は越の浙江以北の土地を占領して越王無彊を殺したが、完全に越国を滅ぼしたわけではなかった。秦王政二十五年(前222年)、秦が全国を統一した時、越も完全に滅ぼされた。このことは蒙文通『越史叢書越人遷徙考』にも見える。」
 
越は句践以外の時代に関する詳細があまり伝わっていません。春秋時代末から戦国時代初めにかけて表舞台に現れ、一時は中原に進出して覇も称えましたが、句践死後は急速に衰退し、主要国の地位から外れてしまいました。
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代49 東周顕王(十七) 蘇秦登場 前333年(1)