第四十四回 叔詹が晋侯に抗し、弦高が秦軍を労う(中編)

*今回は『東周列国志』第四十四回中編です。
 
周襄王二十四年、鄭文公・捷が死にました。群臣は弟の公子・蘭を国君に立てます。これを穆公といいます。かつて(穆公の母が)夢で見た蘭の兆が現実になりました。
 
同年冬、晋文公も病に倒れました。
文公が趙衰、先軫、狐射姑、陽処父等の諸臣を招いて顧命(遺詔。遺言)を与えます。世子・驩を補佐して国君に立て、伯業(覇業)を失わないように言い渡しました。また、諸子が国内を混乱させることを恐れたため、公子・雍を秦に、公子・楽を陳に仕えさせることにしました。公子・雍は杜祁が産んだ子で、公子・楽は辰嬴が産んだ子です。幼子・黒臀は周に仕えさせ、王室との関係を親密にしました。
文公は在位八年、六十八歳で死にました。
 
世子・驩が喪を主宰して即位しました。これを襄公といいます。
襄公が文公の柩を曲沃に運んで殯(埋葬前の儀式)を行うことにしました。
晋都・絳城を出た時、柩の中から突然、牛の鳴き声のような大きな声が響きました。柩が泰山のように重くなり、車を動かせません。群臣が驚く中、太卜・郭偃が卜うと、その繇(卜の詞)はこう出ました「鼠が西から来て、我が垣根を越える。我々には巨大な梃棍棒があり、一撃して三傷させる(有鼠西来,越我垣牆。我有巨梃,一撃三傷)。」
郭偃が言いました「数日の内に西方から出兵の報せが届くでしょう。我が軍はそれを撃って大勝します。これは先君の霊が我々に伝えたのです。」
群臣が下拝すると柩の中の声が止み、柩も軽くなりました。一行が曲沃に向かって出発します。
先軫が「西方とは秦のことだ」と言い、秘かに人を送って秦国の様子を探らせました。
 
 
話は鄭の北門に駐軍する秦将・杞子、逢孫、楊孫の三人に移ります。
晋国が公子・蘭を鄭に送り帰して世子に立てたため、三人は怒ってこう言いました「我々が鄭のためにこの地を守って晋兵を拒んでいるのに、彼等は晋国に降服した。これでは、我々が功を立てることはできない。」
三人は本国に密使を送って報告しました。
秦穆公も心中不満でしたが、晋文公がいたため怒りを口に出せませんでした。
 
公子・蘭が即位してから、杞子等に礼を加えませんでした。
杞子が逢孫、楊孫の二人に言いました「我々は国外に駐軍しているが期限がない。もし我が主に勧めて秘かに鄭を襲わせれば、我々は大功を立てて帰国できるだろう。」
三人が策を練っている時、晋文公が死んだという報告が入りました。
三人は額の前で拱手して(「挙手加額」。歓びを表します)「天が我々を助けて成功させようとしているのだ!」と言いました。
早速、腹心を秦に送って穆公にこう伝えます「鄭人は我々に北門の管(鍵)を任せています。もし秘かに兵を送って鄭を襲えば、我々が内応して鄭を滅ぼすことができます。晋は大喪があるので鄭を援けることができません。しかも鄭君も位を継いだばかりなので、守備を整えていません。この機会を失ってはなりません。」
秦穆公は密報を読んでから蹇叔と百里奚を招きました。
二臣が声をそろえて言いました「秦は鄭から千里も離れているので、その地を得ることができず、俘獲(捕虜や戦利品)の利があるだけです。しかも千里の労師は久しい時を必要とするので、人の耳目を塞ぐことはできません。相手が我々の謀を知って備えを設けたら、労はあっても功はありません。途中で必ず変事が起きます。そもそも、兵を出して人を守っていたのに、逆にその国を謀ろうとするのは非信です。人の喪に乗じて攻撃するのは非仁です。成功しても利は小さく、失敗したら害が大きいのは非智です。信・仁・智の三者を失っているのに、実行していいはずがありません。」
穆公が怒って言いました「寡人は三回も晋君を即位させ、二回も晋の乱を平定し、威名は天下に知られている。ただ晋侯が楚を城濮で破ったから、伯業を譲ったのだ。既に晋侯が世を去ったのだから、天下の誰が秦に対抗できるというのだ。鄭は捕えられた鳥が人に頼っているのと同じだ。いずれ飛び去ってしまう。この機に乗じて鄭を滅ぼし、晋に河東の地と交換するように要求すれば、晋は必ず従うだろう。不利なことはない。」
蹇叔が言いました「主公はなぜ人を送って晋を弔問し、併せて鄭も弔問して攻撃の可否を窺わないのですか。杞子といった輩の虚言に惑わされてはなりません。」
穆公が言いました「もし弔問を待ってから出師したら、往復する間に一載(一年)が過ぎてしまう。用兵の道とは、耳を覆う余裕もない疾雷のように迅速でなければならない。汝のような老憊(老人)には理解できないことだ。」
穆公は鄭から来た使者に「二月上旬、師を北門に送る。中から呼応せよ。誤りがあってはならない」と伝えて帰らせました。
 
穆公は孟明視を召して大将に任命し、西乞術と白乙丙を副将にしました。精兵三千余人、車三百乗を選んで東門の外に集結させます。
孟明は百里奚の子で、白乙は蹇叔の子です。
出師の日、蹇叔と百里奚が号哭しながら秦軍を送り出し、こう言いました「悲しいことだ(哀哉,痛哉)!わしは汝等が出て行く姿を見ることはできるが、帰って来る姿を見ることはできない!」
これを聞いた穆公は激怒しました。近臣を送って二臣を譴責します「汝等はなぜ我が師に対して号哭し、我が軍心を損なわせようとするのだ!」
蹇叔と百里奚が並んで言いました「臣は国君の師に対して号哭するのではありません。我が子のために号哭するのです。」
白乙は父が哀哭するのを見て出征を辞退しようとしました。しかし蹇叔が言いました「我々父子は秦の重禄を食べてきた。汝が死ぬのは本分だ。」
蹇叔は秘かに固く封をした書簡を与えてこう言いました「わしが簡の中に書いたことに従えばよい。」
白乙は命を受けて出発しましたが、心中は動揺しており、悲哀も感じていました。
しかし孟明は自分の才勇を信じていたため成功を疑わず、百里奚の反対を気にすることもありませんでした。
 
秦の大軍が出発すると、蹇叔は病と称して入朝しなくなり、致政(政権を還すこと)を請いました。
しかし穆公が出仕を強制したため、蹇叔は病が重くなったと称して銍村に還ることを請いました。
百里奚が蹇叔の家を訪ねて病状を伺い、こう言いました「奚は見幾(事象の変化を予見すること)の道を知らないわけではありません。暫くここに留まるのは、生還した我が子に一目会いたいと思うからです。我が兄(蹇叔)が去る前に、私に言い残すことはありませんか。」
蹇叔が言いました「今回、秦兵は必ず負ける。賢弟は秘かに子桑(公孫枝)と話しをして、舟楫を河下黄河沿岸)に準備させるべきだ。もし禍から逃れることができたら、舟で迎えて西に還らせればいい。この事を忘れてはならない(切記,切記)。」
百里奚が言いました「賢兄の言を今すぐ実行します。」
穆公は蹇叔が銍村に帰る決意をしたと知り、黄金二十斤、彩緞百束を下賜しました。穆公と群臣が郊関の外まで見送ります。
この時、百里奚が公孫枝の手を握って蹇叔の言葉を伝え、こう言いました「私の兄は他の人に頼らず、子桑を頼ることにしました。将軍の忠勇は国家の憂いを解決できるからです。将軍はこの事を漏らさず、秘密裏に実行してください。」
公孫枝は「謹んで命に従います」と言って船隻の準備をしました。
 
孟明は白乙が父から密簡を渡されたのを見て、鄭を破る奇計が書かれていると思いました。
夜、宿営の準備が終わると、密簡を見るために白乙丙を訪ねます。簡にはこう書かれていました「今回の出征で考慮すべきは鄭ではなく晋だ。崤山の地は険しいので、汝は慎重に行動せよ。わしはその地に行って汝の骸骨を回収することになるだろう(此行鄭不足慮,可慮者晋也。崤山地険,爾宜謹慎。我当收爾骸骨於此)。」
孟明は目を覆って「縁起でもない(咄咄。晦気,晦気)!」と言いながら走って出て行きました。
白乙も簡の内容が大げさだと思い、真剣に受け止めませんでした。
 
三帥は冬十二月丙戌日(十六日)に秦を出て、翌年春正月に周の北門を通りました。
孟明は「天子がいる場所だ。戎事(軍事)の途中なので謁見するわけにはいかないが、不敬であってはならない」と言って近臣に伝令を発し、全軍の将兵に冑を脱いで車から降りるように命じました。
前哨の牙将・褒蛮子は並ぶ者がないほどの驍勇を自負しており、都門を通りすぎるとすぐに車に飛び乗りました。鳥のように身軽で素早かったため、車は止まることなく行軍を続けます。
それを見た孟明が嘆息して言いました「皆が褒蛮子だったら事を成せないはずがない。」
すると諸将士が次々に「我々が褒蛮子に及ばないというのですか!」と声を挙げ、腕を揮って「車に飛び乗ることができない者は殿後しんがりに退け!」と叫びながら、先を争って車に飛び乗りました。行軍においては臆病者が殿を守り、軍が敗れたら勇敢な者が殿を守るとされていました。行軍時に殿後に退くというのは屈辱を意味します。こうして一軍三百乗の将士が車に飛び乗り、速度を上げて王城の門前を疾走していきました。
 
この時、周襄王が王子虎と王孫満に秦軍の様子を伺わせていました。
秦軍が通りすぎてから二人が襄王に報告します。まず王子虎が嘆息して言いました「秦師はあのように驍健なので、誰も敵わないでしょう。今回、鄭に幸はありません。」
まだ幼い王孫満は笑みを浮かべるだけで何も言いません。襄王が問いました「童子はどう思う?」
王孫満が言いました「礼においては、天子の門を通る時には必ず甲冑を巻いて兵器をしまい、小走りで去るものと決まっています。しかし秦師は冑を脱いだだけでした。これは無礼です。また、車に飛び乗って通りすぎました。これは軽(軽率)の極みです。軽なら謀が乏しくなり、礼がなければ容易に乱れます。今回、秦は必ず敗衄(敗戦。挫折)の辱を受けるでしょう。人を害すことはできず、自分を害すことになります。」
 
 
 
*『東周列国志』第四十四回後編に続きます。