第四十四回 叔詹が晋侯に抗し、弦高が秦軍を労う(後編)

*今回は『東周列国志』第四十四回後編です。
 
鄭国に弦高という商人がいました。かつて周の王子・頽が牛を愛してから、鄭・衛の商人は周に牛を売って重利を得てきました。弦高はその業を継いで牛を売っています。
弦高は商賈(商人)とはいえ、忠君愛国の心と排患解紛(憂患を除いて紛糾を解決すること)の略(計略)を持っていました。しかし推薦する者がいないため、身を屈して市井で生活をしています。
今回、数百頭の肥牛を売るために周に向かった弦高は、黎陽津の近くで知人に会いました。知人の名は蹇他といい、最近、秦国から東に来たばかりです。蹇他に会った弦高が「最近、秦国で何かあったか?」と問うと、蹇他はこう言いました「秦は三帥を派遣して鄭を襲うつもりだ。十二月丙戌日(十六日)に出兵したから、間もなくここに来るだろう。」
弦高が驚いて言いました「私の父母の邦(国)に突然難が訪れた。聞かなければそれまでだったが、既に聞いてしまったのに援けようとせず、万一宗社が滅亡してしまったら、故郷に帰る面目がない。」
そこで弦高は一計を考えると、蹇他に別れを告げてから部下を鄭国に帰らせました。部下は昼夜兼行して秦軍に備えるように伝えます。同時に犒軍(軍を慰労すること)の礼を整え、肥牛二十頭を選んで残りの牛を客舍に預けました。
弦高は小車に乗り、二十頭の肥牛を連れて秦軍を迎えに行きます。
滑国に入った弦高は延津という場所で秦の前哨と遭遇しました。弦高が秦軍の道を塞ぎ、大きな声で言いました「私は鄭国の使臣です。一見を願います!」
前哨が中軍に入って報告すると、孟明は驚いてこう考えました「鄭国はなぜ我が兵が来ると知って遥か遠くまで使臣を送ってきたのだ?彼が何をしに来たのか試してみよう。」
孟明が弦高の車前に行きました。
弦高は鄭君の命と偽ってこう言いました「寡君は三将軍が敝邑に入ると聞き、不腆の賦(粗末な礼物)を下臣・髙に預けて(三将軍の)従者を慰労させました。敝邑は大国の間にあり、外侮(外国の侵略)が絶えることがないので、久しく遠戍(国境の守備)を設けています。一旦(一朝)の不戒(怠惰)によって不測を招き、上国の罪を得る恐れがあるので、日夜警戒して安らかに寝る余裕もありません(遠く離れた国境の警備を厳しくしているので、秦の動きは全て把握しています)。執事(秦の執政官。孟明)に理解していただきたく存じます。」
孟明が問いました「鄭君が犒師をするのに、なぜ国書がないのだ?」
弦高が言いました「執事は冬十二月丙戌日(十六日)に出兵しました。寡君は(秦の)従者が疾駆して力を尽くしていると聞き、詞命(国書)を書いている間に迎犒(慰労)の機会を失うことを恐れ、口頭で下臣に指示を与えました。国書がないことは匍匐して罪を請います。他意はありません。」
孟明が弦高の耳元でこう言いました「寡君が視(私)を発したのは滑のためだ。鄭に及ぶつもりはない。」
孟明は全軍に「延津に駐軍せよ!」と命じます。
弦高は謝辞を述べて帰りました。
 
西乞と白乙が孟明に問いました「延津に駐軍するのはなぜですか?」
孟明が言いました「我が師は遥か千里も行軍してきたが、鄭人の不意を撃てばこそ志を得ることができた。しかし今、鄭人は既に我々が出発した日も知っている。備えを整えて久しいはずだ。攻撃しても城が堅固で攻略が難しい。包囲しても兵が少なく後続もない。しかし滑国には備えがない。滑を襲って破り、鹵獲(戦利品)を得れば、帰国して我が君に報告できるし、出師も無名ではなくなる。」
 
その夜三更(十一時から一時)、三帥の兵が三路から滑城を襲って破りました。滑君は翟に奔ります。
秦兵は略奪を行って子女・玉帛をことごとく奪いました。
後に秦兵は撤退しますが、滑国は完全に破壊されており、滑君にも復国する力がなかったため、その地は衛国に吸収されることになりました。
 
 
鄭穆公は商人・弦高の密報を得ても完全には信用できませんでした。
二月上旬、穆公が客館に人を送って秦の杞子、逢孫、楊孫の様子を探りました。すると三人は既に車乗(車と馬)をまとめ、武器や物資の準備を進めていました。将兵武装して士気を高めています。秦軍が到着したら門を開いて招き入れる予定です。
使者が帰って報告すると、鄭伯は驚いて老大夫・燭武を招きました。燭武は杞子、逢孫、楊孫に会いに行き、それぞれに束帛を贈ってこう言いました「吾子(あなた)が久しく敝邑に滞在しており、敝邑が供給を続けているので、原圃(遊園)の麋鹿も尽きてしまいました。今、吾子が戒厳の態勢をとっていると聞きましたが、どこかに行くつもりでしょうか?孟明等の諸将は周と滑の間にいます。それに従ったら如何でしょうか?」
杞子は驚いてこう考えました「我々の謀は既に漏れたようだ。師が至っても功は立てられず、逆に罪を得ることになるだろう。鄭に居続けられないだけでなく、秦にも帰られなくなってしまった。」
杞子は曖昧な言葉で燭武の礼物を辞し、即日、近臣数十人を連れて斉国に逃走しました。逢孫と楊孫も罪から逃れるために宋国に奔ります。
主がいなくなった秦の戍卒(守備兵)は北門に集まって乱を起こそうとしました。しかし鄭穆公が佚之狐を派遣して大量な食糧を贈り、解散して帰郷するように導きました。
 
鄭穆公は弦高の功を認めて軍尉に任命しました。鄭国が安靖を取り戻します。
 
 
晋襄公は曲沃で喪に服していました。そこに間諜の報告が入ります「秦国の孟明将軍が兵を率いて東に向かいました。どこに行くのかは分かりません。」
驚いた襄公はすぐに人を送って群臣を集めました。
先軫は事前に秦の動きを知っていたため、襄公に謁見して計を述べました。
先軫の計とはどのようなものか、続きは次回です。