第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(二)

*今回は『東周列国志』第四十五回その二です。
 
孟明等の三帥が東崤に入って数里行軍しました。上天梯、墮馬崖、絶命巖、落魂澗、鬼愁窟、断雲峪といった名の険路が続きます。道幅が狭いため車は通れません。
前哨の褒蛮子が遥か前を進んでいるため、孟明がこう言いました「蛮子が既に去った。埋伏はないだろう。」
孟明は将兵に命じて轡索(馬の縄)を解かせ、甲冑を脱がせました。軽装になった兵達は馬を牽いたり車を担いで前に進みます。しかし隘路の前進は困難で、転倒する者が続出し、隊列が乱れて分散し始めました。
秦兵は来た時も崤山を越えましたが、帰る時ほど困難ではありませんでした。これには理由があります。進軍の時には鋭気に乗っており、晋兵に妨害される心配もなかったため、速く進むのもゆっくり進むのも意のままで苦難を覚えませんでした。しかし千里の遠征を終えた帰路では、人馬ともに疲労しており、しかも滑国から奪った大量な子女・金帛を運んでいるため荷物が重くなっています。また、既に晋軍とも遭遇しており、強引に通過したものの、前方にも伏兵がいる恐れがあります。心中の焦りや不安がますます苦難を増加させたのも当然のことでした。
 
孟明等が第一の険隘である上天梯を越えて進軍を続けていると、かすかに鼓角の音が鳴り、後隊の兵が「晋兵が後ろから追撃してきます!」と報告しました。
孟明が言いました「我が軍も難行しているのだから、敵の行軍も容易ではないはずだ。前だけを心配しろ。追撃を恐れることはない。各軍に速やかに前進するよう命じればよい。」
孟明は白乙を先に進ませると、「わしが自ら後を断ち、追兵を防ぐ」と言って後ろに回りました。
 
秦軍は前進を続けて墮馬崖を越え、絶命巖に迫りました。すると兵達が声を上げて騒ぎ始めます。ある者が「前方の路が乱木で塞がれており、人馬とも通れません。どうすればいいでしょうか」と報告しました。
孟明は「乱木はどこから来たのだ。前方に埋伏があるのか」と考え、自ら前に進みました。
暫く行くと、岩の旁に一つの碑があり、「文王避雨処」と刻まれていました。碑の横には紅旗が立っており、旗竿の長さは三丈余もあります。旗には「晋」の文字が書かれ、旗の下には多数の木が倒されていました。
孟明が言いました「これは疑兵の計だ。しかしここまで至ったのだから、埋伏があったとしても道を探して前に進むしかない。」
孟明は軍士に命じて旗を倒させてから、柴木を片づけて路を開かせました。
ところが、「晋」の字が書かれた紅旗は埋伏した晋軍の相図でした。岩谷の陰に隠れていた晋兵は紅旗が倒れるのを見て秦兵が至ったと知り、一斉に襲いかかります。柴木を運び始めた秦軍は、前方で戦鼓が雷のように轟くのを聞き、遠くに光り輝く晋の旌旗を目にしました。どれだけの軍馬がいるのか判断できません。
白乙丙は将兵に武器を整えさせて突破を計りました。
この時、山岩の上に一人の将軍が立っていました。姓は狐、名は射姑、字は賈季といいます。狐射姑が大声で言いました「汝の家の先鋒・褒蛮子は既に捕えられてここにいる!速やかに投降し、屠戮から逃れよ!」
先行していた褒蛮子は勇に頼って前進しましたが、陷坑(落とし穴)に落ちてしまいました。晋兵が撓鉤(柄が長く先端が鈎状になった武器)で褒蛮子を取り押さえ、縛って囚車に乗せました。
驚いた白乙丙は人を送って西乞術と主将・孟明に報告し、協力して路を奪おうとしました。
この路は一尺余の幅しかなく、一辺は危峰峻石が連なり、一辺は万丈の深溪に臨んでいます。落魂澗という場所です。たとえ千軍万馬を擁していても、広く展開することはできません。孟明は心中で一計を設け、全軍にこう命じました「ここは交鋒(合戦)の地ではない。大軍を一斉に東崤の広い場所まで退かせ、一戦を決してからその後の事を考えよう。」
白乙丙は将令を受けて軍馬を引き返させました。
道中、金鼓の音が絶え間なく響きます。
やっと墮馬崖まで戻った時、東路には隙間なく旌旗が連なっていました。晋の大将・梁弘と副将・莱駒が五千の人馬を率いて迫ってきます。
秦軍は墮馬崖を越えられないと判断し、また向きを変えました。蟻が熱した盆の上を走り回るように、秦軍は東も西も行き場を失って右往左往します。
孟明が軍士に命じて逃走路を探させました。左右両側から山を登ったり溪谷を越えてさせようとします。
すると左の山上で金鼓が鳴り響き、一隊の軍が山を占拠しました。晋将が叫んで言いました「わしは大将・先且居だ!孟明よ、速やかに投降せよ!」
右側の隔溪でも砲声が鳴り、山谷に響きます。そこに大将・胥嬰の旗号が立ちました。
孟明は万矢で心を射られたような悲痛に襲われ(万箭攢心)、成す術がなくなりました。軍士は混乱して逃走を始め、山や谷を越えようとしましたが、ことごとく晋兵に斬獲されます。
孟明は怒って西乞、白乙の二将と共に墮馬崖に殺到しました。ところが路を塞ぐ柴木には硫黄、燄硝といった引火物が撒かれていたため、韓子輿が火を放つと炎と煙が天を衝いて燃え広がりました。
後ろから梁弘の軍馬も到着し、孟明等三帥は息をつく間もありません。左右前後ともに晋兵が囲んでいます。
孟明が白乙丙にいました「汝の父にはまさに神算がある。今日、この絶地で窮することになった。わしが死ぬのは必至だ。二人は服を換えて逃げてくれ。もし天の幸によって一人でも秦国に帰り、我が主に報告して仇に報いる兵を興すことができたら、九泉の下にいても気を吐くことができる。」
西乞術と白乙丙が涙を流して言いました「我々は、生きるからには共に生き、死ぬ時には共に死にましょう。たとえ逃げることができたとしても、一人で故国に帰るわけにはいきません。」
この時、三帥の部下達は既に四散し、車仗や器械(武器や物資)が路に棄てられていました。孟明等三帥には抵抗する計がなく、岩の下に固まって捕えられるのを待ちます。
晋兵は四方から包囲して秦兵を次々に捕えていきました。殺された秦兵の血が溪流を汚し、死体が山路に並びます。一頭の馬も一つの車輪も残すことなく晋軍に奪われました。
 
先且居等の晋の諸将が東崤の下に集まりました。秦の三帥と褒蛮子が囚車に乗せられ、捕虜にした軍士や奪った車馬および滑国で略奪された多数の子女・玉帛が晋襄公の大営に運ばれます。
襄公は墨縗(喪服)のまま戦利品を受け取りました。軍中で歓呼の声が起きて地を震わせます。
襄公は三帥の姓名を聞いてから「褒蛮子とは何者だ?」と問いました。
梁弘が言いました「この者は牙将ですが、人並みではない勇を持ち、莱駒も一陣を失うほどでした。もしも陷坑に落ちなかったら、捕えるのは難しかったでしょう。」
襄公が恐れて言いました「そのように驍勇があるのなら、残しておいたら異変を招くだろう。」
襄公は莱駒を招いてこう言いました「先日、汝は彼に敗れた。今日、寡人の面前でその首を斬り、恨みを晴らす機会を与えよう。」
命を受けた莱駒は褒蛮子を庭柱に縛ると、大刀を握って斬ろうとしました。すると褒蛮子が怒鳴って言いました「汝は我が手に敗れた将ではないか!わしを犯そうというのか!」
この一声は霹靂のように空に轟き、屋宇(建物)を震動させました。更に褒蛮子が大声を挙げながら両腕を左右に開くと、麻の縄が引きちぎられます。
驚いた莱駒は思わず手が震えて刀を落としてしまいました。褒蛮子がすかさず大刀を奪おうとします。この時、傍で一人の小校が様子を見ていました。小校は狼といいます。狼素早く刀を拾って褒蛮子に一刀をあびせ、続けざまに一刀を揮って頭を斬り落としました。褒蛮子の首が晋侯に献上されます。
襄公は喜んで「莱駒の勇は一小校にも及ばないのか」と言い、莱駒を退けて狼に車右の職を任せました。狼は襄公に謝して退きます。
は襄公に能力を認められたと思っていたため、元帥の先軫には拝謝に行きませんでした。先軫は心中で恨みをもちます。
 
翌日、襄公が諸将と凱旋しました。文公の殯(埋葬する前の霊柩)が曲沃にあるので、襄公は曲沃に戻ります。後日、晋都・絳に帰ってから秦帥・孟明等三人を太廟に献じて刑を行うことにしました。
まず秦を破った功績を殯宮に報告し、その後、窀穸の事(「窀穸」は「墓穴」。埋葬の意味)を行います。襄公は墨縗(喪服)で埋葬に参加して戦功を発表しました。
 
 
 
*『東周列国志』第四十五回その三に続きます。