第四十五回 晋襄公が秦を敗り、先元帥が翟で殉じる(三)

*今回は『東周列国志』第四十五回その三です。
 
襄公の母である嬴氏(文公夫人)も葬儀のため曲沃にいました。三帥が捕えられたという情報を知り、わざと襄公に問いました「我が国の兵が勝ち、孟明等が捕えられたと聞きました。これは社稷の福です。もう誅戮したのでしょうか?」
襄公は「まだです」と答えます。
そこで文嬴が言いました「秦と晋は代々婚姻関係にあり、歓びを共にしてきました。しかし孟明等は功を貪るために事を起こし、妄りに干戈を動かして両国の恩を怨に変えました。秦君は深くこの三人を恨んでいるはずです。我が国が三人を殺しても無益です。二国の怨みを解くために、三人を秦に返してその君に誅戮させれば、全てが解決できるのではありませんか?」
襄公が言いました「三帥は秦で重用されています。捕えたのに放ったら、後に晋の憂患となるでしょう。」
文嬴が言いました「『戦に敗れたら死ぬ(兵敗者死)』というのが国の常刑です。楚兵も一敗したため得臣が誅に伏しました。秦国だけは軍法がないのですか?それに、かつて晋恵公が秦に捕えられましたが、秦君は礼によって帰国させました。秦が我が国に対してこのように礼を用いたのに、小さな敗将に対して我々が自ら殺戮を行ったら、我が国の無情を示すことになります。」
襄公は本来従う気がありませんでしたが、恵公が釈放された話を聞いて心を動かされました。早速、有司(官員)に詔を発して三帥を釈放させます。
縄を解かれた孟明等は襄公に恩を謝す余裕もなく、頭を抱えて逃走しました。
 
この時、先軫は家で食事をしていましたが、晋侯が三帥を釈放したと知り、口の中の物を吐き出して(「吐哺」。食べ物を呑み込む余裕もないほど急いでいるという喩えです)襄公に会いに行きました。怒気を満たして襄公に「秦囚はどこですか?」と問います。
襄公が言いました「母夫人が釈放して(秦で)刑に就かせるように求めたので、寡人はそれに従った。」
先軫は襄公の顔に唾を吐くと、怒ってこう言いました「孺子はこれほどまで無知だったのか!武夫が千辛万苦の末にやっと捕虜にしたのに、婦人の片言によって損なわれるとは!虎を山に帰したら、後日悔やんでも手遅れになるだろう!」
襄公はやっと過ちを覚り、顔を拭いて「寡人の過ちだ」と認めました。先軫を許容できる度量をもった襄公は文公の覇業を受け継ぐことになります。
襄公が群臣に向かって「秦囚を追う者はいないか?」と問いました。
陽処父が名乗りを上げると、先軫が言いました「将軍は心を尽くせ。もし追いつくことができたら、第一の功になる。」
陽処父は追風馬を駆けさせ、斬将刀を握り、曲沃の西門を出て孟明を追いました。
 
孟明等の三人は大難を脱しましたが、道中で相談してこう言いました「我々が河黄河を渡れたら再生したことになる(安全だ)。しかし河を渡れなかったら、恐らく晋君は後悔して追手を差し向けるだろう。その時はどうすればいいのだ。」
三人は黄河まで来ましたが、一艘の船も見当たりません。嘆息して言いました「天は我々を滅ぼした!」
するとそこに小艇が現れました。一人の漁翁が乗って西から向かってきす。
翁は歌を歌っています「捕えられた猿が檻を離れ、捕えられた鳥が籠を出る。ある人がわしに出会い、失敗を功績に変える(囚猿離檻兮,囚鳥出籠。有人遇我兮,反敗為功)。」
孟明は歌詞を奇異に思い、「漁翁よ、我々を渡してくれ!」と叫びました。
漁翁が言いました「わしは秦人は渡すが、晋人は渡さない。」
孟明が言いました「我々は秦人だ。速く渡してくれ!」
漁翁が問いました「子(汝)は崤中で失事(失敗)した人ではないか?」
孟明が「そうだ()」と答えると、漁翁が言いました「私は公孫将軍の令を奉じ、舟を準備してここで待っていました。一日二日のことではなく、既に長い時間が経っています。この舟は小さいので、重載に堪えられません。前方に半里ほど進めば大舟があります。将軍は速く前に進んでください。」
言い終わると漁翁は向きを換えて飛ぶように西に去っていきました。
三帥は黄河に沿って西に走りました。果たして、半里も行かない場所に数隻の大船が停泊しています。岸から半箭(一箭は矢が飛ぶ距離。通常は百三十歩前後。半箭はその半分)離れていました。先ほどの漁舟は既に大船の近くにおり、漁翁が三人を招いています。
孟明と西乞、白乙は裸足になって船に向かいました。
しかし船が出る前に、車に乗った将官が東岸に現れました。晋の大将・陽処父です。
陽処父が大声で言いました「秦将よ、止まれ!」
孟明等三人は驚愕しました。
すぐに陽処父が河岸に至って車を止めます。しかし孟明等は既に舟の中にいました。そこで一計を考え出しました。自分が乗ってきた車から左驂(馬車の左の馬)をはずし、襄公の命と偽って孟明にこう伝えます「寡君は将軍に乗る物がないことを心配し、処父にこの良馬を届けさせた。将軍に贈って相敬の意を表したい。将軍よ、納めてくれ!」
陽処父は孟明を岸に呼び戻し、馬を受け取りに来たところを捕えるつもりです。
一方の孟明は網から逃れた魚と同じで、逃げることだけを考えているので、敢えて戻るつもりはありません。船頭に立って遥かに離れた陽処父を眺め見ると、稽首拝謝してこう言いました「貴君の不殺の恩恵を蒙ることができただけで既に充分だ。その上、良馬の賜を受け取ることはできない。帰国してから寡君がもし戮を加えなかったら(死刑にしなかったら)、三年後に自ら上国を訪れ、貴君の賜に拝謝しよう!」
陽処父は再び口を開こうとしましたが、舟師の水手(水夫)が急いで船を漕いでおり、既に中腹まで逃げてしまったため、落胆して引き返しました。
 
陽処父が孟明の言葉を襄公に伝えると、先軫が怒って言いました「彼が言った『三年後に貴君の賜に拝謝する』というのは、(後日)晋を討って仇に報いるという意味だ。敗戦したばかりで志気を喪失している今のうちに、先手を打って攻撃し、彼等の謀を塞ぐべきだ。」
襄公も納得して秦討伐の計を練り始めました。
 
一方、秦穆公は三帥が晋に捕えられたと知り、怒りと憂鬱のため寝食も忘れるほどでした。
しかし数日後、三帥が釈放されたと聞いて喜色を表します。
左右の者が皆、穆公にこう言いました「孟明等は師を失って国を辱めたので、その罪は誅殺に値します。かつて楚も得臣を殺して三軍の戒めとしました。主公もこの法を行うべきです。」
ところが穆公はこう言いました「孤は蹇叔と百里奚の言を聞かず、禍を三帥に及ぼしてしまった。罪は孤にあり、他者にあるのではない。」
穆公は素服(喪服)で郊外まで出迎えに行き、哀哭して慰労しました。三帥は再び軍事を任され、以前よりも礼遇されます。
百里奚が嘆息して言いました「我々父子が再び会うことができたのは、既に望外のことだ。」
百里奚は告老致政(引退して政権を還すこと)しました。
穆公は繇余と公孫枝を左右庶長に任命し、蹇叔と百里奚の代わりとしました。
 
 
 
*『東周列国志』第四十五回その四に続きます。