第四十六回 楚商臣が父を弑し、秦穆公が屍を封ず(中編)

*今回は『東周列国志』第四十六回中編です。
 
当時、許と蔡の二国は晋文公が死んだため、再び楚の盟を受けていました。
晋襄公は陽処父を大将に任命して許を討伐させ、蔡にも侵攻させました。
これに対し、楚成王は鬥勃と成大心に蔡の救援を命じました。
楚軍が泜水に至った時、対岸に晋軍がいたため、泜水沿岸に営寨を築きました。晋軍も泜水の北に陣営を構え、両軍は川一つを隔てて対峙します。双方の柝(時間を報せる拍子木のようなもの)の音が聞こえるほどの距離でした。
 
晋軍は楚軍に阻まれて前進できず、二か月近くが経過しました。
年末が近づいて晋軍の糧食も乏しくなったため、陽処父は撤退を考えます。しかし撤退に乗じて楚に追撃される恐れがあります。また楚から逃げたとして人々に笑われるかもしれません。
そこで使者を送って泜水を渡らせ、楚陣に入らせました。使者は鬥勃にこう伝えます「『来る者は恐れず、恐れる者は来ない(「来者不懼,懼者不来」。戦うつもりがないのなら始めから来なければいい、という意味です)』という諺がある。将軍に我が軍と戦う気があるのなら、我々は一舍(三十里)の地を退き、将軍に川を渡って陣を構える機会を与えよう。勝敗を決するためだ。もし将軍が川を渡りたくないようなら、将軍が一舍の地を退け。我が軍が南岸に渡ってから決戦の日を決めよう。進むこともなく退くこともないのでは、師(軍)疲労させて財を費やすだけなので、何の益もない。今、処父は車を御して陣の外で将軍の命を待っている。速やかに決断せよ。」
鬥勃は怒って「晋はわしが渡河できないと思っているのか!」と言うと、渡河して決戦を求めようとしました。
しかし成大心が急いでこう言いました「晋人には信がありません。一舍を退くというのは我々を誘い出すのが目的です。渡河の途中で攻撃されたら我が軍は進退に窮すことになります。ここは一時兵を退き、晋に川を渡らせるべきです。我々が主となり、晋が客になるのですから、間違いはありません。」
鬥勃は納得して「孫伯(大心)の言う通りだ」と言い、軍中に令を出して三十里撤退してから営寨を構えさせました。その後、陽処父に使者を送って川を渡るように促します。
ところが陽処父は楚の言葉を曲げてこう発表しました「楚将・鬥勃は晋を恐れて水(川)を渡らず、既に遁走した。」
この情報は瞬く間に晋の陣内に拡がります。
そこで陽処父が言いました「楚師は既に遁走した。我々が渡河する必要はない。歳も暮れて天も寒くなった。ひとまず帰って休息し、再挙の時を待とう。」
晋軍は撤退を開始しました。
鬥勃は一舎退いてから二日経っても晋軍に動きがないため、人を送って探らせました。そこでやっと晋軍が既に遠く去ったと知り、楚軍も引き上げました。
 
 
楚成王の長子は名を商臣といいます。以前、成王は商臣を太子に立てようとして、鬥勃に意見を聞いたことがありました。鬥勃はこう言いました「楚国の後嗣は年少者なら利がありますが、年長者では利がありません。歴世(歴代)の後嗣がそうでした。また、商臣の相は蜂目豺声で、その性は残忍です。今、彼を愛して後嗣に立てたとしても、後日、彼を嫌って廃すことになったら、必ず乱を招きます。」
成王は諫言を聞かず、商臣を太子に立てて潘崇を傅(教育官)に任命しました。
この事を知った商臣は鬥勃を憎むようになりました。
 
今回、鬥勃が蔡救援のために出兵したのに戦わずに帰って来ました。商臣が成王に言いました「子上(鬥勃)は陽処父から賄賂を得たため、戦いを避けて晋に名を成さしめたのです。」
これを信じた成王は鬥勃の謁見を許さず、使者を送って剣を下賜しました。鬥勃は弁解する機会もなく、剣で喉を切って死にます。
それを知った成大心は自ら成王の前で叩頭し、泣いて撤兵の理由を説明してからこう言いました「賄賂を受けたということはありません。もし撤退が罪になるのなら、臣も同罪です。」
成王が言いました「卿が自分の咎とする必要はない。孤も後悔している。」
この時から成王は太子・商臣を警戒するようになりました。
 
後に成王は少子・職を寵愛するようになりました。商臣を廃して職を太子に立てたいと思いましたが、商臣が乱を起こすことを恐れたため、過失を探して誅殺の機会を伺います。
しかし宮人達が成王の考えを知って噂し始めました。情報は外にも漏れ始めます。
宮人の話を聞いた商臣は半信半疑で太傅・潘崇に相談しました。
潘崇は「私に一計があり、噂の真相を確認できます」と言いました。
商臣がどのような計か問うと、潘崇が説明しました「王の妹・羋氏は江国に嫁ぎましたが、最近、楚に帰寧(里帰り)して久しく宮中に住んでいるので、この事も知っているはずです。江羋は性急で短気なので、太子が享(宴)を設けてわざと無礼な態度をとれば、怒って発する言葉の中で必ず何かを漏らすでしょう。」
商臣はこれに従い、江羋を宴に招待しました。
羋氏が東宮(太子宮)に来ると、商臣が出迎えて恭しく拝礼しました。しかし三献(酒を三回献じること)が終わった頃からしだいに態度が無礼になり、中饋(食事)も庖人(料理人)から羋氏に直接渡されるだけで、商臣は立ち上がって動こうともしません。しかもわざと侍児(侍女)に酒を飲ませたり、こっそり話しかけます。羋氏が商臣に二回話しかけても商臣は相手にしませんでした。
ついに怒った羋氏は案(机)を叩いて立ち上がり、商臣を罵ってこう言いました「役夫(下人。罵る言葉)の不肖はこれほどひどかったのですか!王が汝を殺して職を立てようとしていますが、当然のことです!」
商臣が偽りの謝罪をしましたが、羋氏は相手にせず、罵り続けながら車に乗って去りました。
 
その夜、商臣が急いで潘崇に禍から逃れる策を問いました。
潘崇が商臣に聞きました「子(あなた)は北面して職に仕えることができますか?」
商臣が言いました「年長者でありながら年少の者に仕えることはできない。」
潘崇が聞きました「首事人(主人。国君)に屈することができないのなら、なぜ他国に移らないのですか?」
商臣が言いました「頼りにする国がない。他国に行っても辱めを受けるだけだ。」
潘崇が言いました「この二者を棄てたら、他の策はありません。」
しかし商臣は頑なに策を求めます。すると潘崇がこう言いました「もう一つの策はこれら以上に優れていますが、あなたは聞くに忍びないでしょう。」
商臣が言いました「死生の境に忍びないことなどない。」
そこで潘崇が商臣の耳元で言いました「大事を行って禍を福に転じるしかありません。」
商臣は「それなら可能だ」と言い、宮甲(宮兵)を配置しました。
 
夜半、商臣が「宮中に変事が起きた」と称して王宮を包囲しました。潘崇も剣を持ち、力士数人と共に入宮します。直接、成王の前まで行くと、成王の左右にいた者達は皆驚いて四散しました。
成王が問いました「卿は何をしに来たのだ?」
潘崇が言いました「王の在位は四十七年に及びます。功を成した者は退くものです。今、国人は新王を得たいと思っているので、位を太子にお譲りください。」
成王が驚いて問いました「孤が讓位をするのは分かったが、活きることはできるか?」
潘崇が言いました「一君が死んで一君が立つものです。国に二君は必要ありません。なぜ老齢の王にそれが分からないのですか。」
成王が言いました「孤は庖人に熊掌の料理を命じたところだ。それを食べてからなら、死んでも恨みはない。」
潘崇が厳しい口調で言いました「熊掌はなかなか火が通りません。王は時間をかせいで外の援けを待つつもりでしょう。王は臣が手を動かすのを待つのではなく、自ら手を動かしてください。」
言い終わると潘崇は帯を解いて成王の前に投げました。
成王は天を仰いで「好鬥勃!好鬥勃!忠言を聞かなかったために自ら禍を招いてしまった!何も言うことはない!」と叫ぶと、帯を首に巻きました。潘崇が左右の臣に命じて帯を引かせ、成王の息を止めました。
 
異変を知った江羋も「兄を殺したのは私です」と言って自縊しました。
周襄王二十六年冬十月丁未日(十八日)のことです。
成王は弟でありながら兄を殺し、その子・商臣は子でありながら父を殺しました。天の理によって報いを受けたといえます。
 
父を殺した商臣は暴疾(突然死)として訃告を諸侯に送り、自ら即位しました。これを穆王といいます。
潘崇は太師に昇進し、環列の尹(皇宮禁衛官。または文武百官)を掌握します。また、太子の室(商臣が太子だった頃の財物や僕妾)が全て潘崇に与えられました。
令尹・鬥般等は成王が殺された事を知っていましたが、敢えて何も言いませんでした。
 
商公・鬥宜申は成王の変事を知り、喪に参加するという口実で郢都に入りました。大夫・仲帰と穆王暗殺を計画します。しかし穆王が事前にそれを知り、司馬・鬥越椒に宜申と仲帰を逮捕させて処刑しました。
かつて巫者・范矞似が「楚成王と子玉(成得臣)、子西(鬥宜申)の三人は皆良い終わりを得ることができない」と予言しましたが、ここにおいて全て的中しました。
 
 
 
*『東周列国志』第四十六回後編に続きます。