第四十六回 楚商臣が父を弑し、秦穆公が屍を封ず(後編)

*今回は『東周列国志』第四十六回後編です。
 
鬥越椒は令尹の位を狙っていたため、穆王にこう言いました「子揚(鬥般。子文の子)はいつもこう言っています『我々父子は代々楚の政治を行い、先王の大恩を受けてきた。先王の志を達成できないことを慙愧している。』これは公子・職を国君に擁立したいという意味です。子上(子上は成王に自殺を命じられた鬥勃です。ここは謀反を謀った鬥宜申、字は子西の誤りではないかと思います)が来たのも、実際は子揚が招いたからです。今、子上(子西)が誅に伏したため、子揚は不安を抱いています。他の陰謀があるかもしれません。警戒が必要です。」
鬥般を疑った穆王は、鬥般に公子・職を殺すように命じました。しかし鬥般は拒否します。
穆王は怒って「汝は先王の志を達成させたいのか!」と言うと、自ら銅鎚を振り上げて鬥般を撃殺しました。
公子・職は晋に奔ろうとしましたが、鬥越椒が後を追って郊外で殺しました。
穆王は成大心を令尹に任命しましたが、暫くして成大心も死んだため、鬥越椒が令尹になりました。蔿賈が司馬になります。
後に穆王は子文(鬥谷於菟)が楚を治めた功績を思い、鬥克黄を箴尹に任命しました。克黄は字を子儀といい、鬥般の子で子文の孫にあたります。
 
晋襄公が楚成王の死を聞いて趙盾に問いました「天が楚を嫌ったのだろうか?」
趙盾が言いました「楚君(成王)は横暴でしたが、礼義によって化誨(教化。教え導くこと)することができました。しかし商臣は自分の父を愛することもできません。他者に対してならなおさらでしょう。諸侯の禍はまだ終わっていないはずです。」
穆王は数年の間で四回出征し、江、六、蓼を滅ぼし、陳や鄭を攻撃しました。中原は多事となり、趙盾の言が的中することになりますが、これは後の話です。
 
 
周襄王二十七年春二月、秦の孟明が穆公に謁見し、晋を討伐して崤山の敗戦に報いることを願いました。穆公はその志を褒めて出征に同意します。
孟明は西乞、白乙と共に車四百乗を率いて晋に向かいました。
しかし晋襄公は秦の報復を警戒していたため、常に人を送って遠くを探っていました。秦軍の動きを知った襄公は笑って「秦から拝賜(賞賜に謝すこと)の者が来た」と言い、先且居を大将に、趙衰を副将に、狐鞫居を車右に任命して国境で迎撃させました。
大軍が出発する時、狼も自分の兵を率いて尽力することを願い、先且居がこれに同意しました。
 
この時、孟明等はまだ秦の国境を出ていませんでした。
先且居は「秦を待って戦うより、こちらから秦を攻めるべきだ」と言って西に向かいました。晋軍は彭衙で秦軍に遭遇します。
両軍が陣を構えると、狼が先且居に言いました「昔、先元帥はを無勇として用いませんでした。今回はに試させてください。功績を求めるためではありません。以前の恥を雪ぐためです。」
言い終わると狼は友の鮮伯等百余人と共に秦陣に突撃しました。立ち向かう秦兵を次々に倒していきます。しかし鮮伯は白乙に殺されました。
先且居は車に乗って秦陣が混乱したのを確認し、大軍に前進を命じました。孟明等は晋軍の勢いに対抗できず、大敗して兵を還します。
先且居が狼を助け出しましたが、狼は体中に傷を負い、一斗余の血を吐いて翌日息絶えました。
 
晋軍が凱旋しました。
先且居が襄公に戦勝の報告をして言いました「今日の勝利は狼の力によるものです。臣の功ではありません。」
襄公は上大夫の礼で狼を西郭に埋葬し、群臣にも送葬に参加するように命じました。襄公はこのようにして人才を激励することができました。
 
 
敗戦して国に還った孟明は死罪に値すると思っていましたが、穆公は自分を咎めるだけで孟明を譴責することはなく、人を送って郊外で慰労し、今までと同じように国政を任せました。
孟明は恥じ入って発奮し、国政を正すことに努めます。また、家財を全て投じて戦死者の家族を慰め、毎日軍士を訓練して忠義に励ませ、翌年の晋討伐を準備しました。
 
冬、晋襄公が再び先且居に命じて秦を攻撃させました。先且居は宋の大夫・公子成、陳の大夫・轅選、鄭の大夫・公子帰生と共に秦を攻め、江と彭衙の二邑を奪ってから、「拝賜の役の報復だ」と言って引き上げました。
かつて郭偃の卜繇に「一撃して三回傷つける(一撃三傷)」とありましたが、この戦いで秦軍は三敗したことになります。
 
孟明は晋軍の攻撃に抵抗しませでした。秦人は孟明を臆病者とみなしましたが、穆公だけは孟明を信じて群臣にこう言いました「孟明は必ず晋に報いることができる。ただその時が来ていないだけだ。」
 
翌年夏五月、孟明が兵馬を補強し、訓練も終了させて精鋭を鍛えあげました。
そこで穆公に自ら指揮をとるように請い、こう言いました「今回、恥を雪ぐことができなかったら、生きて還らないことを誓います。」
穆公が言いました「寡人は三回も晋に敗れる姿を見てきた。もしまた功がなかったら、寡人も国に還る面目がない。」
穆公は車五百乗を選び、吉日を選んで出征しました。従軍した将兵の家に厚い礼物を贈ったため、三軍は勇躍して命を惜しまなくなります。
秦軍は蒲津関を出て黄河を渡りました。そこで孟明が全ての舟を焼くように命じます
不思議に思った穆公が「元帥が舟を焼いたのは何故だ?」と聞くと、孟明視はこう言いました「『兵は気によって勝つ(兵以気勝)』といいます。我が軍は度重なる敗戦で気が衰えています。幸いにも勝てたら、(舟がなくても)渡河できないことを心配する必要はありません(しかし負けたら舟がないため全滅することになります)。私が舟を焼いたのは、三軍に決死の覚悟を示し、進むことはあっても退くことはないと教えるためです。こうすれば気を作ることができます。」
穆公は「善」と言って納得しました。
 
孟明が自ら先鋒になって長駆し、晋の王官城を破って占領しました。晋の諜報が絳州に至ります。
晋襄公が群臣を集めて出兵の相談をしました。しかし趙衰がこう言いました「秦の怒りは激しく、今回は国を傾けて兵を動員しています。我が国で死ぬ覚悟です。しかも秦君が自ら指揮しているので、当たるべきではありません。戦を避けて少しでも秦の志を満足させれば、両国の争いを止めることができます。」
先且居もこう言いました「困窮した獣でもまだ戦うことができます。大国ならなおさらでしょう。秦君は敗戦を恥とし、三帥は皆、勇を好んでいます。勝たなければ戦いを止めることはないので、戦禍が繰り返されて際限がありません。子餘(趙衰)の言う通りです。」
襄公は二人の意見に納得し、四境を堅守するように命じて秦軍との戦いを禁止しました。
 
秦の繇余が穆公に言いました「晋は我々を恐れています。主公は兵威に乗じて崤山で死士の骨を集め、昔年の恥を覆うべきです。」
穆公はこれに従い、兵を率いて茅津で黄河を渡ってから東崤に駐軍しました(秦軍は黄河を西から東に渡った後に舟を焼きました。その後、王官を経由して南下し、今回、黄河を北から南に渡りました)
晋軍からは一兵も一騎も迎え討つ者がいません。
穆公は軍士を墮馬崖、絶命巖、落魂澗等に送って屍骨を回収させました。草で襯(服)を作って死者に着せ、山谷の平らな場所に埋葬します。その後、牛馬を殺して祭享(祭祀)を行いました。穆公が素服(喪服)を着て酒を地に撒き、声を上げて大哭します。孟明や諸将も地に伏して起きあがらず、哀哭して三軍の心を動かしました。涙を流さない者はいません。
 
江と彭衙の二邑の百姓は穆公が晋を破ったと聞いて騒ぎを起こし、晋の守将を追い出しました。二邑が再び秦に帰順します。
秦穆公は凱旋してから孟明を亜卿に任命し、二相と共に国政を行わせることにしました。西乞と白乙にも封賞が加えられました。また、軍功を記念して蒲津関を大慶関に改名しました。
 
 
西戎主・赤班は秦が度々晋に敗れたため、諸戎を集めて秦に背こうとしていました。
そこで、晋から戻った穆公は兵を移して戎を討伐することにしました。
しかし繇余が「まず檄を戎に飛ばして朝貢を命じ、それを拒否したら討伐するべきです」と進言しました。
赤班は孟明が晋を破ったという情報を得たばかりで憂慮していました。そこに檄文が届いたため、西方二十余国を率いて秦に土地を納め、朝見を請いました。この後、穆公は西戎の伯主(覇主)と尊称されるようになります。
「千軍は得やすく、一将は求め難い(千軍易得,一将難求)」という言葉があります。穆公は孟明の賢才を信じて用い続けたため、ついに伯業(覇業)を成すことができました。
 
 
秦の威名は京師にも達しました。
周襄王が尹武公に言いました「秦は晋に匹敵し、その先代はどちらも王室に対して功がある。かつて重耳が中夏の盟主となったので、朕は冊命して侯伯に任命した。今、秦伯・任好の強盛は晋に劣らない。朕は晋と同じように秦にも冊命したいと思う。卿の考えは如何だ?」
尹武公が言いました「秦は西戎の伯となりましたが、晋のような勤王を行ってはいません。秦と晋は対立しており、晋侯・驩は父の業を継いでいます。もし秦に冊命したら、晋の歓心を失うことになるでしょう。秦を祝賀するために使者を送って賞賜を与えるだけならば、秦は(周を)感謝し、晋も恨みを持ちません。」
襄王はこれに従いました。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。