第四十七回 弄玉が二人で鳳に跨り、趙盾が霊公を立てる(四)

*今回は『東周列国志』第四十七回その四です。
 
秦に入った先蔑と士会は公子・雍を迎え入れることを秦康公に伝えました。康公は喜んで「我が先君は晋君を二回定めた。寡人の代になっても、また公子・雍を立てることになった。晋君は代々秦から生まれている」と言い、白乙丙に車四百乗を率いて公子・雍を送らせることにしました。
 
晋では、襄公の葬送が終わってから、襄夫人・穆嬴が毎日黎明に太子・夷皋を抱きかかえて朝堂で大哭し、諸大夫に「これは先君の適子(嫡子)です。なぜ棄てるのですか!」と訴えていました。
朝会が終わると襄夫人は車を趙氏の家に向かわせ、趙盾の前で頓首して「先君は臨終の際にこの子を卿に託し、心を尽くして輔佐するように言い残しました。先君は世を棄てましたが、その言はまだ耳に残っています。もし他の者を立てたら、この子はどこに置くつもりですか?我が子を立てないのなら、我々母子は死ぬしかありません」と言って号哭を続けました。
これを聞いた国人は皆、穆嬴に同情し、趙盾を責めるようになります。諸大夫も公子・雍の擁立を失策だったと言い始めました。
憂いた趙盾が郤缺に相談して言いました「士伯が長君を迎えるために秦に行ったが、再び太子を立てることができるだろうか?」
郤缺が言いました「今日、幼子を棄てて長君を立てても、後日、幼子が成長したら必ず変事を招きます。すぐ秦に人を送って士伯を止めさせるべきでしょう。」
趙盾が言いました「先に国君を定めてから使者を送れば、使者に名分ができる。」
こうして即時、群臣が集められ、夷皋が即位することになりました。これを霊公といい、この時わずか七歳でした。
 
百官の朝賀が終わった時、辺諜が報告に来ました「秦が大兵(大軍)を派遣して公子・雍を河下黄河沿岸)まで送ってきました。」
諸大夫が言いました「我々は秦に対して信を失ってしまった。どう謝罪するべきだろう。」
趙盾が言いました「もしも我々が公子・雍を立てるのなら、秦は我々にとって賓客だ。しかし既に受け入れないと決めたのだから、秦は敵国だ。人を送って謝罪しても逆に譴責を受けるだけだ。兵を出して拒んだ方がいい。」
趙盾は上軍元帥・箕鄭父に霊公を補佐して都を守備するように命じ、趙盾自ら中軍を指揮することにしました。先克が副将として狐射姑の職に代わります。上軍は荀林父一人が指揮し、下軍も先蔑が秦に行ったため、先都が一人で指揮します。三軍が準備を整え、秦軍を迎撃するため廑陰に駐軍しました。
 
この時、秦軍は既に黄河を渡って東進し、令狐に営寨を築いていました。前方に晋軍が接近していると知りましたが、公子・雍を迎えに来たと思って全く警戒しませんでした。
先蔑が先に晋の陣に入って趙盾に会いました。そこで初めて太子が即位したことを知ります。先蔑は目を見開いて趙盾を凝視し、「公子を迎え入れる計画は誰が立てたのだ!今また太子を立てて我々を拒むのか!」と言うと、袖を揮って退出し、荀林父に会ってこう言いました「子(汝)の言を聞かなかったために、今日の事態を招いてしまった。」
荀林父が言いました「子は晋の臣だ。晋を棄ててどこに行くつもりだ。」
先蔑が言いました「私は命を受けて雍を迎えるために秦に行った。だから雍こそが我が主であり、秦は我が主の輔(援助。援け)だ。自ら前言を裏切って故郷の富貴を図ることはできない。」
先蔑は秦の営寨に奔りました。
趙盾が言いました「士伯は晋に留まらなかった。明日には秦師が必ず迫って来る。今夜のうちに秦寨を襲うべきだ。不意を撃てば志を得ることができるだろう。」
晋軍は馬に餌を食べさせ、軍士に休憩を与えて食事を充分とらせてから、枚(兵や馬が声を出さないために口にくわえる木の板)をくわえて疾駆させました。
三更(夜十一時から一時)、晋軍が一斉に喚声を上げ、鼓角を鳴らし、秦寨の門に殺到しました。
秦兵達は夢の中から突然起こされ、馬に甲をつける余裕も人が戈を持つ余裕もないまま、混乱して四方に逃走しました。晋兵は刳首の地まで追撃します。
白乙丙は死戦の末、なんとか脱出しましたが、公子・雍は乱軍の中で殺されました。
先蔑は嘆息して「趙孟はわしを裏切ったが、わしには秦を裏切ることはできない」と言い、秦に奔りました。
士会も嘆いて「私は士伯と事を共にした。士伯が秦に向かったのだから、私が一人で帰るわけにはいかない」と言って秦軍と共に退却しました。
秦康公は二人を大夫に任命します。
 
荀林父が趙盾に言いました「以前、賈季が狄に奔った時、相国(趙盾)は同僚の義を思って妻孥を送りました。士伯と隨季(士会)は某(私)と僚誼(同僚の誼)があるので、相国に倣いたいと思います。」
趙盾が言いました「荀伯が義を重んじる心は私の意にも合っている。」
こうして晋の衛士が二人の家眷と家財を秦に送り届けることになりました。
 
この一戦で晋の各軍の将がそれぞれ俘獲(捕虜と戦利品)を得ました。しかし先克の部下で驍将の蒯得は功績を焦って周りを顧みず、秦軍に敗れて戎車五乗を失いました。
先克が軍法に基づいて処刑しようとしましたが、諸将が哀請したため、先克は趙盾に進言して田禄を没収させました。蒯得は先克を恨むようになります。
 
箕鄭父は士穀、梁益耳と以前から交流がありました。趙盾が中軍元帥に昇格してから、士穀と梁益耳が兵権を失ったため、箕鄭父も趙盾に不満を持っていました。
趙盾が出兵した時、箕鄭父は都の守備を命じられました。そこで士穀、梁益耳と相談してこう言いました「趙盾は廃置(国君の廃立)を自由にしており、眼中に人がいない。今、秦が重兵を使って公子・雍を送って来た。両軍の対峙は長引くだろう。我々はここで乱を起こそうではないか。趙盾に抵抗して夷皋を廃し、公子・雍を迎え入れれば、大権は全て我々の手に入る。」
三人は謀反を決意しました。その成敗はどうなるか。続きは次回です。