戦国時代57 東周顕王(二十五) 孟嘗君 前322~321年

今回で東周顕王の時代が終わります。
 
顕王四十七年
322年 己亥
 
[] 『史記秦本紀』によると、韓と魏の太子が秦に来朝しました。
 
[] 秦の張儀が齧桑から帰国し、秦の相を免じられました。
張儀は魏の相になります。
 
張儀は魏が率先して秦に仕えるように勧めましたが、魏王は同意しませんでした。
そこで秦王が魏を攻撃し、曲沃と平周を取りました。
秦は秘かに人を送って張儀を厚く遇しました。
 
[] 『史記趙世家』『韓世家』によると、趙武霊王と韓宣恵王が區鼠(『史記正義』によると河北の地)で会しました。
 
[] この年、『史記魏世家』に不思議な記述があります。「魏有女子化為丈夫」です。
史記六国年表』にも「女化為丈夫」と書かれています。
「魏で女が男(丈夫)に変わった」という意味です。
元代の『文献通考物異考』はこの事件の注釈としてこう書いています。
「京房『易伝』曰;女子化為丈夫,茲謂陰昌,賎為人王」「女化男,婦政行也」。
これは「女が男に変わるのは陰の気が盛んになっているためで、賎しい人が王になったり、婦人が政治を行う前兆」という意味です。
実際に「女が男に変わる」ということが起きたとは思えないので、魏国の全盛期が過ぎて暗愚な国君が魏を統治する時代が来ることを示しているのかもしれません。
あるいは、嬴姓の秦を「陰」に喩え、約百年後に秦が天下を統一することを暗示しているのかもしれません。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に薛子嬰が魏に来朝したとしています。
薛子は斉の田嬰のことで(東周顕王四十六年・前323年参照)、『史記』『資治通鑑』では翌年に薛に封じられます。
 
 
 
翌年は東周顕王四十八年です。
 
顕王四十八年
321年 庚子
 
[] 東周顕王が死に、子の定が立ちました。これを慎靚王といいます。
 
[] 燕易王が在位十二年で死に、子の噲が立ちました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙武霊王が韓女を娶って夫人にしました。
 
[] 斉王(『資治通鑑』では宣王。『史記田敬仲完世家』では湣王)が田嬰を薛に封じました(『古本竹書紀年』は二年前の事としています)。田嬰は号を靖郭君といいます。
靖郭君が斉王に言いました「五官(五大夫。諸大臣)の計(意見)は毎日聞いて繰り返し検討しなければなりません。」
斉王はこれに従いましたが、暫くして面倒だと思い始め、靖郭君に任せました。こうして靖郭君が斉の政権を掌握するようになりました。
 
靖郭君が薛に城を築こうとしました(または薛城を修築しようとしました。原文「城薛」)。しかし客が靖郭君に言いました「あなたは海の大魚を見たことがありませんか?大魚は網を使っても捕まえることができず、鉤を使っても引き上げることができません。しかし一度陸に登って水を失ったら、螻蟻(けらや蟻)でも制することができます。あなたにとって今の斉は海の水です。あなたが長く斉を擁すことができるのなら、薛は必要ありません。しかしもし斉を失ったら、薛の城壁を天に届くほど高くしても助けにはなりません。」
靖郭君は納得して築城を中止しました。
 
靖郭君には四十余の子がいました。賎妾の子に田文という者がおり、事物に通じて豊富な智略を持っていました。
田文は靖郭君に財産を散じて士を養うように勧めました。
靖郭君は田文の才能を認め、家を主持させて賓客の対応を任せます。すると賓客は争って田文を称賛し、靖郭君の後嗣に立てるように勧めました。
後に靖郭君が死ぬと、田文が跡を継いで薛公になりました。孟嘗君と号します。
史記孟嘗君列伝(巻七十五)』は靖郭君と孟嘗君諡号としていますが、恐らく誤りです。『史記』の注(索隠)は「号して孟嘗君という。諡というのは誤りである。孟は字で嘗は邑名。嘗邑は薛の傍にある」と書いています。
 
孟嘗君は各国の遊士や罪を犯して逃亡している者を集め、彼等に住む場所を与えて厚遇しました。更に彼等の家族親戚も救済したため、常に数千人の食客を養っていました。食客は皆、孟嘗君が自分を重んじて親しく接していると信じ、心から服します。
孟嘗君の名は天下にも知られ、人々から尊重されるようになりました。
 
但し『資治通鑑』の編者司馬光は批判的な意見を書いています。
孟嘗君は士を養ったが、智者も愚者も関係なく、善悪を分けることも無く、国君の禄を浪費し、私党を組み、実を伴わない名声を大きくし、上は国君を欺き、下は国民の財を奪った。これは奸人の雄である。」
 
戦国時代は各国で食客を集める気風が生まれました。
斉の孟嘗君を始め、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君が多数の食客を厚遇したことで有名です。
この四人を「戦国四公子戦国四君子)」といいます。
 
孟嘗君が楚を聘問したことがありました(いつの事かは不明です)。楚王が孟嘗君に象牀象牙の寝床)を贈ります。
孟嘗君は登徒直(登徒が氏)に命じて象牀を斉に運ばせようとしました。しかし登徒直は命令に従わず、孟嘗君の門人公孫戌にこう言いました「象牀は千金の価値があるので、毫髪ほどの傷をつけただけでも、妻子を売ってすら償うことができなくなります。足下(あなた)の力で僕(私)が象牀を運ばなくてもすむようにできるのなら、先人の宝剣を差し上げましょう。」
公孫戌は同意し、孟嘗君に会ってこう言いました「小国がこぞって相の印をあなたに送るのは、あなたが貧窮を振興し、存亡した家系を存続させ、あなたの義を喜び、あなたの廉を慕っているからです。しかし今、初めて楚に来たのに、早速象牀を受け取ったら、今後訪問する国はどうやってあなたに対応すればいいのですか。」
孟嘗君は「わかった(善)」と言って象牀を辞退することにしました。
退出する公孫戌が小走りで孟嘗君の前から去りました。貴人の前で小走りになるのは当時の礼です。しかし中閨(宮中の小門)に至る前に孟嘗君が呼び戻してこう問いました「子(汝)はなぜ足が高く、志が揚がっているのだ(気持ちが高揚しているのだ)?」
公孫戌は宝剣の事を正直に話しました。
この出来事があったため、孟嘗君は門版にこう書きました「文孟嘗君の名声を上げて文の過ちを止めることができる者は、秘密裏に外の者から宝物を得たとしても、速やかに訪れて諫言せよ。」
 
資治通鑑』の編者司馬光孟嘗君を「奸人の雄」と評しましたが、「孟嘗君は諫言を用いることができた」とも評価しています。
 
[] 韓宣恵王が公仲と公叔に政治を行わせようとし、繆留(繆が氏)に意見を聴きました。しかし繆留はこう言いました「いけません。晋は六卿を用いたので国が分裂しました。斉簡公は陳成子と闞止に政治をさせたので殺されました。魏は犀首と張儀を用いて西河の外を失いました。今、主公は二人を用いようとしていますが、力が大きい者は国内に党を作り、力が小さい者は外国の権勢を借りるようになります。群臣が国内で党を作ったら国主に対して驕慢になり、国外と交わったら地を削ることになります。その結果、主公の国を危うくします。」
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に斉威王が死んだとしています。斉威王が死んだ年は『史記』『資治通鑑』ともに異なります(東周顕王三十六年333年参照)
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に「燕が趙を攻めて濁鹿を包囲する。しかし趙武霊王と代人が濁鹿を救い、燕軍を勺梁で破る」と書いています。
『今本』は東周顕王十七年(前352年)の事としており、「趙武霊王」は「趙武王」に、「勺梁」は「勺」になっています。
 
 
 
次回から東周慎靚王の時代です。