戦国時代64 東周赧王(二) 燕の内乱 前314年
今回は東周赧王元年です。
赧王元年
前314年 丁未
[一] 秦が義渠を侵して二十五城を取りました。
[二] 魏が秦に背きました。
秦は魏を攻めて曲沃を奪い、そこに住む魏人を国に帰らせました。
また、秦が韓を岸門で破りました。
韓は太子・倉を質(人質)として秦に送り、和を請いました。
『秦本紀』「㯉里疾(樗里疾)が魏を攻めて焦を降した。韓を岸門で破り、一万を斬首し、その将・犀首を敗走させた。」
『魏世家』「秦が樗里子を派遣し、魏を攻めて曲沃を取り、岸門で犀首(公孫衍)を走らせた。」
『韓世家』「秦が岸門で韓を大破し、太子・倉を質にして秦と和した。」
[三] 『今本竹書紀年』によると、十月、鄭(韓)宣王が梁(魏)に来朝しました。
また、『華陽国志』はこの時に「陳荘を蜀の相にした。巴に郡を置いた。張若を蜀国守に任命した。戎伯(諸部族の長)がまだ強盛だったため、一万家の秦民を蜀に遷して秦の統治力を充実させた」としています(東周慎靚王五年・前316年参照)。
『六国年表』は翌年に「公子・繇通を蜀に封じた」と書いています。
燕の百姓(民衆)が子之の政治に苦しんだため、燕の将軍・市被(市が姓、被が名)と太子・平が子之討伐を謀りました。
それを知った斉の諸将が斉湣王(『史記』では既に斉湣王の時代ですが、『資治通鑑』はこの年に宣王が死に、湣王が即位しています。『史記』は「斉湣王」と書いていますが、『資治通鑑』は「斉王」としており、宣王か湣王かは明確にしていません)に言いました「今、燕に向かえば、必ず燕を破ることができます。」
斉王は人を送って燕の太子にこう告げました「寡人は太子の義を聞いた。私(私情)を廃して公を立て、君臣の義を正し、父子の位を明らかにしようとしている。寡人の国は小さく、先後(補佐)をする力は足りないが、太子の令(号令)を支持しよう。」
これは斉が燕の内争に介入するための口実です。
斉の協力を得た太子は党を組んで衆を集め、市被に子之を攻撃させました。市被が公宮を包囲します。しかし市被は子之に勝てず、逆に百姓(国民)を率いて太子・平を攻撃しました。
将軍・市被は殺されて死体が晒されましたが、両軍は数カ月にわたって戦いを続け、数万の死者が出ます。百姓は恐慌を極め、人心が離れていきました。
『史記・燕召公世家』によると、孟軻(孟子)が斉王に「今、燕を討伐するのは文王・武王の時(商王朝を亡ぼした時)と同じです。機会を失ってはなりません」と勧めたため、斉が出兵しました。『資治通鑑』では少し異なる言葉になっています(下述します)。
中国の解放軍出版社による『中国歴代戦争年表』は、1978年に河北の中山墓で出土した銅器銘文から、「中山国も相邦・司馬●(貝偏に用)に三軍の衆を率いて燕を攻めさせた」と書いています。
燕の士卒には斉と戦う気がなかったため、城門を開いて斉軍を招き入れました。
斉軍は子之を捕えて殺しました。燕王・噲も殺されます。
但し、『今本竹書紀年』は「燕の子之が公子・平を殺したが勝てず、斉師が子之を殺した」としており、『古本』も「子之が公子・平を殺した」「斉人が子之を捕えて殺した」と書いています。これらの記述から、楊寛の『戦国史』も太子・平が殺されたとしています。
『燕召公世家』の注(索隠)は『六国年表』と『竹書紀年』が誤りで、太子・平は死んでいないと解説しています。
もしも『六国年表』や『竹書紀年』の記述が正しく、太子・平が殺されたとしたら、二年後に即位するのは趙が擁立した公子・職である可能性があります。
以下、『資治通鑑』から当時の斉の状況です。
斉王(上述の通り、宣王が湣王かははっきりしません)が孟子に問いました「ある者は寡人に燕を併呑するべきではないといい、ある者は寡人に燕を併呑するように勧めている。今回、万乗の国が万乗の国を討伐し、五旬(五十日)で征服することができた。人力だけではこのようなことはできないであろう。燕を併呑しなければ必ず天殃(天の咎)を受けることになると思うが、併呑するべきだろうか?」
孟子が答えました「燕を併呑することで燕の民が喜ぶのなら併呑するべきです。古にもそうした者がいます。武王がそれです。燕を併呑しても燕の民が喜ばないのなら、併呑するべきではありません。古にもそうした者がいます。文王がそれです。万乗の国が万乗の国を討伐し、民が簞食(竹の器に盛った食事)・壺漿(飲物)をもって王師を迎え入れるのに、他の理由はありません。民は水火(戦争の禍)から免れたいだけです。もしも水がますます深くなり、火がますます熱くなるようなら、燕の民は他国に遷ってしまうでしょう。」
諸侯が燕を救援する方法を考えました。
それを知った斉王が孟子に問いました「諸侯の多くが寡人を討とうとしているが、どうするべきだ?」
孟子が言いました「元々七十里の地しかなかったのに天下に政治を行うことができた例には、湯(商王朝の成湯)がいます。しかし千里の地を擁しながら人を畏れるとは聞いたことがありません(千里もの地を擁していたら、本来、人を畏れる必要はありません。今、諸侯を畏れるのは、それなりの理由があるからです)。『書(尚書・仲虺之誥)』にこうあります『我々の王を待とう。王が来れば生存できる(徯我后,后来其蘇)。』燕が自分の民を虐げたので、王(斉王)は燕を征伐しました。民は水火の中から自分を援けることができると思ったから、簞食・壺漿をもって王師を受け入れました。その父兄を殺し、子弟を捕まえ、宗廟を破壊し、重器(財宝)を持ち出すようなことが、どうして許されるでしょう。天下はもともと斉の強盛を畏れて警戒していました。今回更に倍の地を併呑したのに仁政を行わなかったので、天下の兵(討伐)を招くことになりました。王は速やかに令を発し、旄倪(老幼の民)を釈放して重器の略奪を禁止し、燕の衆(民)と商議して燕君を置いてから去るべきです。そうすれば禍から逃れることもできるでしょう。」
斉王は諫言を聞きませんでした。
暫くして燕人が斉に背きました。
陳賈が孟子に問いました「周公とはどのような人物ですか?」
孟子が言いました「古の聖人です。」
陳賈がまた問いました「周公は管叔に商(殷)の地を監督させました。しかし管叔は商で叛しました。周公は管叔が叛すと知って商を監督させたのですか?」
陳賈が問いました「それでは、聖人でも過ちを犯すことがあるのですか?」
陳賈の言は燕の離反を招いた斉王の過ちを隠すことが目的です。
孟子は陳賈を風刺してこう言いました「周公は弟で管叔は兄です。周公の過ちは理解できます。そもそも、古の君子は過ちを犯しても改めることができました。今の君子は過ちを犯してもそのままにしています。古の君子が犯す過ちは日月の食(日食・月食)と同じで、全ての民が見ることができ、過ちを改めたら全ての民にますます慕われました。今の君子は過ちをそのままにするばかりでなく、言辞によって隠そうとしています。」
次回に続きます。