戦国時代65 東周赧王(三) 張儀の詐術 前313年
今回は東周赧王二年です。
赧王二年
前313年 戊申
[一] 秦の右更・疾(樗里疾。秦恵王の弟)が趙を攻めて藺(または「藺陽」)を占領し、趙将・荘豹を捕えました。
『資治通鑑』胡三省注によると、荘姓には宋の荘公の子孫と、楚の荘王の子孫がいるようです。戦国時代には楚の荘蹻、斉の荘暴、楚の荘辛、蒙の荘周および今回の荘豹といった人物が登場しますが、荘蹻が楚荘王の子孫であること以外は、出自がはっきりしません。
『魏世家』には「秦が魏に公子・政を太子に立てるように要求し、魏が秦と臨晋で会した」とあります。
張儀が楚懐王に言いました「敝邑(秦)の王が最も好きな人物は大王(楚王)しかいません。儀(私)が最もなりたいのは大王に仕える門闌の厮(門を守る小官)です。逆に、敝邑の王が最も憎むのは斉王しかおらず、儀が最も憎むのも斉王の他にいません。ところが、大王が斉王と和しているので、敝邑の王は大王に仕えることができず、儀も大王の門闌の厮になることができません。大王が儀のために関を閉じて(斉との国境を封鎖し)斉との盟約を絶ち、使者を儀に従わせて西に送るようなら、かつて秦が楚から奪った商於の地六百里を献上し、秦女に命じて大王の箕帚の妾(家事をする妾婢)とさせましょう。秦と楚が互いに婦人を娶り、長く兄弟の国となることを約束します。こうすれば斉が弱くなります。大王は北の斉を弱くし、西の秦に徳(恩)を与え、しかも商於の富を自分の物にできます。この一計によって三利がもたらされます。」
『今本竹書紀年』はこの年に「魏が張儀を相にする」と書いていますが、恐らく楚の誤りです。
楚王は日々酒宴を開いて「商於の地を回復できた」と公言しました。ところが、群臣が楚王を祝賀する中、陳軫だけが哀痛の情を示しました。
陳軫が言いました「恐らく商於の地を得ることはできず、斉と秦が同盟することになるでしょう。斉と秦が同盟したら必ず患が訪れます。」
楚王がその理由を問うと陳軫が言いました「秦が楚を重視するのは斉がいるからです。まだ領土を得ていないのに、先に関を閉ざして斉との盟約を絶ったら、楚は孤立し、秦に軽視されることになります。どうして秦が孤立した国を大切にして商於の地六百里を譲る必要があるのでしょうか。逆に先に領土を得てから斉との関係を絶つという方法は、秦が同意しません。斉との関係を絶ってから領土を求めても、秦に帰った張儀は必ず王を裏切ります。その結果、王は張儀を怨むことになり、張儀を怨めば西の秦が楚の憂患となります。北の斉と交わりを絶ち、西の秦も憂患となったら、両国の兵が協力して楚に至ることになるでしょう(両国は秦・斉を指すと思いますが、『史記・索隠』は韓・魏としています。東西の斉・秦が楚を攻めたら韓・魏も南下するという意味です)。王のために計るとしたら、陰で斉と結んだまま表面上は斉との交わりを絶つべきです。張儀に人を従わせ、土地を受け取ってから斉との関係を絶っても遅くはありません。」
しかし楚王はこう言いました「陳子は口を閉じろ。もう何も言うな。寡人が地を得るのを見ておれ。」
楚は斉に通じる国境を閉ざして同盟を破棄したうえで、張儀が秦に帰る時、一人の将軍を遂行させました。
秦に帰った張儀はわざと車から落ちたふりをして、怪我を理由に三か月間も入朝しませんでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、宋姓は西周武王が微子を宋に封じ、その子孫が国名を氏にしたことから生まれました。斉に行くために宋国の符節を借りたのは、斉との国境が遮断されているため宋国の道を借りる必要があったためです。
楚の態度に激怒した斉王は腰を低くして秦に仕えることにしました。こうして斉と秦が同盟します。
楚の将軍は怒って「臣が命を受けたのは六百里です。六里とは聞いていません」と言うと、帰国して楚王に報告しました。
楚王は激怒して秦を攻撃しようとします。
陳軫が諫めて言いました「軫(私)が口を開いても問題ありませんか?秦を攻めるよりも、秦に一つの名都(大邑)を譲り、協力して斉を攻めるべきです。秦に対しては土地を失うことになりますが、斉の地を奪って補い、我が領土を保つことができます。既に王は斉との関係を絶ちました。更に秦の詐術を責めたら、斉と秦の関係を強化させ、天下の兵を招くことになります。これでは我が国に大傷を負わせます。」
しかし楚王は諫言を聞かず、屈匄(または「屈丐」)に秦を攻撃させました。
両国は翌年に衝突します。
[五] 『今本竹書紀年』によると、斉の地が突然膨張し、長さ一丈余、高さ一尺も大きくなりました。
[六] 『古本竹書紀年』によると、斉宣王八年(『古本竹書紀年輯校訂補』では本年)に宣王が王后(正妻)を殺しました。
次回に続きます。