第五十三回 楚荘王が陳を復し、晋景公が鄭を救う(中編)

*今回は『東周列国志』第五十三回中編です。
 
楚国の使臣が楚荘王の命を奉じて陳に向かいました。陳霊公と辰陵の会盟を約束するためです。しかし陳国に到着する前に乱を聞いて引き返しました。
使臣が楚荘王に報告している時、逃走した孔寧と儀行父も楚に入って荘王に謁見しました。二人は君臣の淫乱を隠してこう言いました「夏徴舒が造反し、陳侯・平国を弑殺しました。」
使臣の報告と内容が同じだったため、荘王は群臣を集めて会議を始めます。
 
楚国には屈氏で名を巫という公族大夫がいました。字は子霊といい、屈蕩の子です。屈巫は儀容秀美(容姿が優れていること)で文武全材でしたが、ただ一つの欠点がありました。貪淫好色だったことです。かねてから彭祖(仙人)の房中の術を研究していました。
数年前、屈巫が使者として陳国に行った時、外出した夏姫に遭遇しました。屈巫は秘かにその美貌を窺います。夏姫には美貌があるだけでなく、採煉の術に通じていて、老いを退けて若さを取り戻せると知り、心中で慕うようになりました。
夏徴舒の弑逆事件を聞いた屈巫はこれを機に夏姫を奪うことを考えます。そこで荘王に兵を興して陳を討伐するように強く勧めました。
令尹・孫叔敖も「陳の罪は討つべきです」と進言したため、荘王は出征を決意しました。周定王九年、陳成公・午元年の事です。
 
楚荘王はまず陳国に檄文を送りました。そこにはこう書かれています「楚王が汝等に告げる。少西氏(夏徴舒)がその君を弑殺したため、神人ともに憤っている。しかし汝等の国がこれを討てないので、寡人が汝等のために討伐する。罪は一人だけにある。他の臣民は騒がず静かに命に従え。」
檄文を見た陳の国人は夏徴舒の罪を咎め、楚の手を借りて誅滅したいと思ったため、楚軍に対抗する姿勢をとりませんでした。
 
楚荘王が自ら三軍を率いました。公子・嬰斉、公子・側、屈巫といった大将が従い、雲を巻き風を駆けて陳都に進軍します。道中、無人の境を進むように全く抵抗を受けませんでした。
楚軍は至る所で居民を慰撫し、略奪を禁止しました。
夏徴舒は人々が自分を怨んでいると知り、秘かに株林に逃げました。
この時、陳成公はまだ晋国にいます。
陳の大夫・轅頗が諸臣と相談して言いました「楚王は我々のために罪を討とうとしている。誅殺するのは徴舒だけだ。我々が自ら徴舒を捕えて楚軍に献上し、使者を送って和を求めれば、社稷を保つことができるだろう。これこそ上策だ。」
群臣は納得しました。
轅頗は子の僑如に兵を率いて株林に向かわせることにしました。しかし僑如が出発する前に、楚軍が城下に迫ります。
陳国は久しく政令が途絶えており、しかも陳侯が国にいないため、百姓が自分の判断で門を開いて楚軍を迎え入れました。
楚荘王は軍を整えて入城します。
 
諸将が轅頗等を荘王の前に連れて来ました。
荘王が問いました「徴舒はどこだ?」
轅頗が答えました「株林です。」
荘王が問いました「皆が国君に仕える臣子であるのに、なぜ逆賊を許容し、誅討を加えないのだ?」
轅頗が言いました「討ちたくないのではありません。力が足りないのです。」
荘王は轅頗に先導を命じ、自ら大軍を率いて株林に向かいました。公子・嬰斉の一軍は城中に留まります。
 
夏徴舒は家財をまとめて母の夏姫と一緒に鄭国に奔ろうとしていました。しかしわずかに遅れて楚兵に株林を包囲されます。楚兵が夏徴舒を捕え、荘王が後車に繋ぐように命じました。
荘王は「なぜ夏姫が見当たらないのだ?」と言い、将士に家中を捜索させました。園内でやっと夏姫を見つけます。荷華は既に逃走しており、どこに行ったか分かりません。
夏姫が荘王に再拝して言いました「不幸にも国が乱れて家が亡び、賎妾婦人の命は大王の手にかかっています。もしも矜宥(寛大な処置)を得ることができるなら、婢役の一人に加えていただくことを願います。」
夏姫の美しい顔と優雅な口調に触れた荘王は一目で心を迷わされ、諸将にこう言いました「楚国の後宮には美女が多いが、夏姫のような者は極めて少ない。寡人は夏姫を納れて妃嬪の備えとしたいが、諸卿の考えは如何だ?」
すると屈巫が諫めて言いました「いけません。我が主が陳に兵を用いたのは、罪を討つためです。もしも夏姫を納れたら、色を貪ることになります。罪を討つのは義ですが、色を貪るのは淫です。義によって始めたのに淫によって終わるとは、伯主(覇者)の行いではありません。」
荘王が言いました「子霊の言の通りだ。寡人は納れることができない。しかしこの婦人は天下の尤物(優れた者。美女)だ。もし再び寡人の眼に入ったら、自制できなくなるだろう。」
荘王は軍士に命じて裏の垣根に孔を開けさせ、夏姫を自由に出て行かせることにしました。
この時、将軍の公子・側が荘王の傍にいました。夏姫を荘王があきらめたため、その美貌を貪りたいと思い、跪いて言いました「臣は中年になりながら妻がいません。王が臣の室(妻)として下賜することを乞います。」
屈巫がまた言いました「王は同意してはなりません。」
公子・側が怒って言いました「子霊が私に夏姫を娶らせないのは何故だ!」
屈巫が言いました「この婦人は天地の間における不祥な物です。私が知っているだけでも、子蛮は夭折し、御叔は殺され、陳侯は弑され、夏南(夏徴舒)は戮され、孔・儀が出奔し、陳国が亡びました。これ以上不祥な婦人はいません。天下にはいくらでも美しい婦人がいます。なぜ敢えてこの淫物を選ぶ必要があるのですか。後悔の原因となるでしょう。」
荘王が言いました「子霊の言う通りだ。寡人もこの婦人を恐れる。」
公子・側が言いました「それなら私も娶るのを止めよう。しかし一つだけ聞きたい。汝は主公が娶ってはならず、私も娶ってはならないというが、まさか汝が娶らなければならないというのか?」
屈巫は慌てて「できません、できません(不敢,不敢)!」と言いました。
荘王が言いました「物に主がいなければ、人は必ず争おうとする。連尹・襄老は最近、偶(配偶)を失ったと聞いた。彼に与えて継室とさせよう。」
襄老は兵を率いて後隊に属していたため、荘王が襄老を招き、夏姫を下賜しました。夫婦が恩を謝して退出します。
公子・側はこれで収まりましたが、屈巫は収まりません。荘王を諫めて公子・側の邪魔をしたのは、本来、自分の家に留めるためです。荘王が襄老に下賜してしまったため、秘かに「惜しい事をした(可惜,可惜)!」と言いました。しかし暫くして心中でこう考えました「あの老児(老人)があの婦人の相手をできるはずがない。一年か半載(半年)でまた寡婦になるだろう。その時、別の方法を考えることにしよう。」
 
荘王は株林に一泊してから再び陳の都城に入りました。公子・嬰斉が出迎えます。
荘王は夏徴舒を栗門で車裂の刑に処すように命じました。斉襄公が高渠彌を処刑した時と同じ刑です。
 
夏徴舒の乱を平定した荘王は陳国の版図を調べ、陳を滅ぼして楚の県に編入しました。公子・嬰斉を陳公に任命して陳県を守らせます。陳の大夫・轅頗等は全て楚都・郢に連れて行かれることになりました。
南方の属国は楚王が陳を滅ぼして帰還したと聞き、次々に朝賀に来ます。国内各地の県公も祝賀に来ました。しかし大夫・申叔時だけは使者として斉に行っており、まだ帰っていませんでした。
この時、斉では恵公が死んで世子・無野が即位しています。これを頃公といいます。斉と楚はかねてから友好関係を保っていたため、荘王は申叔時を恵公の弔問と新君即位の祝賀のために派遣していました。申叔時が楚を出たのは陳を討伐する前のことです。
荘王が楚に帰って三日後に申叔方もやっと帰国しました。しかし復命した申叔時は慶賀の言葉を口にせず退出しました。
荘王が申叔時を譴責するために内侍を派遣してこう伝えました「夏徴舒は無道であり、その君を弑殺した。よって寡人はその罪を討って戮した(処刑した)。陳の版図は国に納められ、義声は天下に聞こえている。これに対して諸侯・県公で祝賀しない者はいないのに、汝だけは一言もない。寡人が陳を討った挙は誤りだというのか?」
申叔時は内侍について楚王に会いに行き、直接答えることを願い出ました。荘王がそれを許したため、申叔時が言いました「王は『田を踏んで牛を奪う(蹊田奪牛)』という話を知っていますか?」
荘王は「聞いたことがない」と答えます。
申叔時が言いました「ある人が牛を牽いて他人の田地の畔道を歩きました。すると、牛が禾稼(稲)を踏んでしまいました。田の主は怒ってその牛を奪いました。もしこの獄(訴訟)が王の前であったら、どう裁きますか?」
荘王が言いました「牛を牽いて田を踏んだとしても、損傷は大きくない。牛を奪うとはやり過ぎだ。寡人がこの獄を裁くのなら、牛を牽いていた者を譴責したとしても、牛は返すだろう。子はこれを正しいと思うか?」
申叔時が言いました「王は獄を裁く時は明(英明)なのに、なぜ陳を裁く時は昧(愚昧)となるのですか?徴舒の罪は国君を弑殺したことであり、亡国に至る罪ではありません。王はその罪を討てば充分でしょう。更にその国を奪ったら、牛を奪った者と同じです。これで何を祝賀しろというのでしょうか。」
荘王が足踏みして言いました「素晴らしい言葉だ(善哉此言)!寡人は今までこのような話を聞いたことがなかった!」
申叔時が言いました「王が臣の言を善とするのなら、なぜ牛を返した故事にならわないのですか?」
荘王はすぐに陳の大夫・轅頗を招き、「陳君はどこだ?」と問いました。
轅頗は「晋国に向かいましたが、今どこにいるかは分かりません」と答えると、思わず涙を流します。
荘王が憐れんで言いました「わしは汝の国を再び封じよう。汝は陳君を迎えて擁立せよ。代々楚に仕え、南北の間で態度を変えて(原文「依違南北」。時には楚に従い、時には晋に従うこと)寡人の徳に裏切るようなことがあってはならない。」
荘王は孔寧と儀行父も招いて言いました「汝等を国に帰らせる。共に陳君を補佐せよ!」
轅頗は孔・儀の二人が禍の根源だと知っていましたが、敢えて楚王の面前では説明せず、二人の罪をあいまいにしたまま共に拝謝して去りました。
 
三人が楚の国境を出た時、ちょうど晋から戻った陳侯・午に遭遇しました。陳侯は国が滅んだと知り、楚王に会いに行こうとしています。
そこで轅頗が楚王の美意を陳侯に語りました。君臣そろって陳に帰ります。
守将の公子・嬰斉は楚王の命を受けていたため、版図を陳に返還して本国に帰りました。
 
 
 
*『東周列国志』第五十三回後編に続きます。