第五十三回 楚荘王が陳を復し、晋景公が鄭を救う(後編)

*今回は『東周列国志』第五十三回後編です。
 
孔寧が帰国して一月も経たないある日、白日に夏徴舒を見ました。夏徴舒は孔寧の命を要求します。孔寧は狂疾を得て自ら池に飛び込み死んでしまいました。
孔寧の死後、儀行父が夢で陳霊公、孔寧と夏徴舒の三人を見ました。三人が儀行父を帝廷(天帝の裁きの場)に連れて行き、裁きを行います。儀行父は夢の中で驚愕し、やがて暴疾(突然の病)を得て死にました。
淫人に対する報いのようです。
 
公子・嬰斉は楚国に帰って荘王に謁見してからも陳公・嬰斉を自称していました。
荘王が言いました「寡人は既に陳国を復した。卿のためには別に償いを考えよう。」
そこで嬰斉は申呂の田(地)を求めました。荘王が同意しようとしましたが、屈巫が反対して言いました「申呂で得る北方の賦は国家が晋寇を防ぐための頼りにしています。賞として人に与えるべきではありません。」
荘王は中止しました。
ちょうどこの時、申叔時が告老したため、荘王は屈巫を申公に封じました。屈巫は辞退することなく受け入れます。
嬰斉は屈巫を怨みました。
周定王十年、楚荘王十七年のことです。
 
 
陳は南の楚に帰順しましたが、鄭はまだ晋に従っています。そこで楚荘王が諸大夫と計議しました。
令尹・孫叔敖が言いました「我々が鄭を討伐したら、晋の援軍が必ず来ます。大軍を動員する必要があります。」
荘王は「寡人の意思もその通りだ」と言い、三軍と両広の衆を総動員しました。
浩浩蕩蕩(正々堂々)とした楚の大軍が滎陽に殺到します。
 
前部を連尹・襄老が率いることになりました。出発の際、健将・唐狡が襄老にこう言いました「鄭は小国なので大軍(前部の全軍)を煩わせるには足りません。狡(私)に部下百人を率いて一日先行させてください。三軍のために路を開きます。」
襄老は唐狡の壮志を嘉して同意しました。
唐狡は至る所で力戦し、抵抗する者を次々に敗っていきます。兵も留まることなく進み、毎日夕方になると営地を掃除して大軍が到着するのを待ちました。
荘王が諸将を率いて鄭の郊外まで直進しましたが、一兵の抵抗もなく、一日の停滞もありません。
荘王が神速を不思議に思って襄老に言いました「卿が老いてますます壮健であるとは思いもよらなかった。このように勇敢に前進するとは!」
襄老が応えました「臣の力によるものではありません。副将の唐狡が力戦したおかげです。」
そこで荘王は唐狡を招き、厚く賞しようとしました。
しかし唐狡はこう言いました「臣は既に君王から厚い賞賜をいただいています。今日、わずかばかりの報いをしただけなので、改めて賞を受けるわけにはいきません。」
荘王が訝しそうに問いました「寡人は今まで卿を知らなかった。どこで寡人の賞賜を受けたのだ?」
唐狡が答えました「絶纓の会で美人の袂を引いたのは臣です。君王から不殺の恩を蒙ったので、命を棄てて報いたのです。」
荘王が嘆息して言いました「ああ、あの時に寡人が燭を明るくして罪を治めていたら、どうしてこの人材の死力(命をかけて尽力すること)を得ることができただろう。」
荘王は軍正に命じて唐狡の首功を記録させ、鄭を平定してから重用することにしました。
しかし唐狡は知人にこう言いました「私は国君に対して死罪を犯した。国君がそれを隠して誅さなかったから、今回こうして報いたのだ。既にあの時の罪状を明言した。罪人の身でありながら後日の賞を求めるわけにはいかない。」
唐狡は夜のうちに遁走しました。その後の行方はわかりません。
それを聞いた荘王は嘆いて「真の烈士だ」と言いました。
 
楚の大軍が鄭郊外の関を破り、城下に達しました。
荘王は四面に長大な包囲網を築き、猛攻を加えるように命じます。十七日にわたって昼夜休まず城を攻めました。
鄭襄公は晋の援軍に頼っていたため、すぐに講和を謀るつもりはありませんでした。しかし軍士の死傷者が増え、城の東北角が数十丈も倒壊します。
楚兵が東北の城壁を登ろうとした時、城内から地を震わせる哭声が響き渡りました。それを聞いた荘王は心中忍びなくなって軍を十里撤退させました。
公子・嬰斉が荘王に問いました「城が崩れたのでまさに勢いに乗る時です。なぜ退師(撤退)するのですか?」
荘王が言いました「鄭は我が威を知ったが、まだ我が徳を知らない。だから一時退いて徳を示したのだ。相手が従うか逆らうかを見定めてから進退を決めればいい。」
 
鄭襄公は楚軍が退いたと聞いて晋の援軍が到着したと判断しました。そこで百姓を駆り立てて城壁を修築します。男女が城壁に登って巡守しました。
荘王は鄭に投降の意思がないと知って再び兵を進めました。
鄭は三カ月間堅守しましたが、ついに力尽きました。楚将・楽伯が軍を率いて真っ先に皇門から城壁を登り、城門を切り開きます。
荘王が略奪を禁止したため、三軍が粛然として鄭城に入りました。逵路(大通り)に至った時、鄭襄公が肉袒牽羊(上半身を裸にして羊を牽くこと。投降の姿)して楚軍を迎え入れ、謝罪してこう言いました「孤が不徳のため、大国に服事できず、君王に怒りを抱かせて敝邑に師を動員させることになってしまいました。孤は罪を知りました。存亡死生は君王の命しだいです。しかしもしも先人の好を恵顧し、今すぐ剪滅することなく、宗祀を延ばし、附庸(属国)と同等にしていただけるのなら、それは君王の恵(恩恵)というものです。」
公子・嬰斉が荘王に言いました「鄭は力が窮して降りましたが、赦したらまた叛します。滅ぼすべきです。」
しかし荘王はこう言いました「もし申公がいたら、また『蹊田奪牛』の故事で風刺するであろう。」
楚軍は三十里退きました。
鄭襄公が自ら楚軍に赴き、謝罪して盟を請います。襄公の弟にあたる公子・去疾が人質として楚陣に留められました。
 
荘王は軍を率いて北に向かい、に駐軍しました。その時、間諜が報告しました「晋国が荀林父を大将に、先穀を副将に任命し、車六百乗を出して鄭救援に来ました。晋軍は既に黄河を渡りました。」
荘王が諸将に問いました「晋師が間もなく到着するが、還るべきか、戦うべきか?」
令尹・孫叔敖が言いました「鄭と講和する前なら晋と戦うべきです。しかし既に鄭を得たのに、更に晋の仇(怨)を招いても何の役にも立ちません。全師を帰らせるべきです。そうすれば万に一つも失うものはありません。」
嬖人(寵臣)・伍参が言いました「令尹の言は誤りです。鄭が我が国の力が晋に及ばないと判断したら、晋に従ってしまいます。晋が来たのに我々が避けたら、本当に我々の力が及ばないことになります。それに、鄭が楚に従ったことを知ったら晋は必ず鄭に兵を臨ませます。晋は鄭を援けるために兵を出しました。我々が鄭を援けに行っても間違いではありません。」
孫叔敖が言いました「昨年は陳に入り、今年は鄭に入りました。楚兵は既に疲弊しています。もし戦って勝てなかったら、参(伍参)を殺してその肉を食ったとしても罪を贖うことはできません。」
伍参が言いました「もしも戦って勝ったら、令尹が無謀ということになります。もし勝てなかったら、参(私)の肉は晋軍に食べられることになるので、楚人の口に及ぶことはありません。」
荘王は全ての諸将にも意見を聞き、それぞれに筆を持たせ、掌に「戦」か「退」の字を書かせました。諸将が書き終わると、荘王が諸将に手を開かせて確認します。その結果、中軍元帥・虞邱および連尹・襄老、裨将・蔡鳩居と彭名の四人だけが掌に「退」と書いており、その他の公子・嬰斉、公子・側、公子・穀臣、屈蕩、潘党、楽伯、養繇基、許伯、熊負羈、許偃等二十余人は全て「戦」と書いてありました。
荘王はこう言いました「虞邱は老臣の見解であり、令尹と合っている。『退』という意見が正しい。」
荘王は軍を南に向けるように命じ、翌日、黄河で馬に水を飲ませて帰還することにしました。
 
夜、伍参が荘王に謁見を求めてこう言いました「君王はなぜ晋を恐れ、鄭を棄てて晋に送るのですか?」
荘王が言いました「寡人が鄭を棄てたことはない。」
伍参が言いました「楚兵は鄭の城下に九十日間も留まりましたが、鄭と講和しただけです。今、晋が来たからといって楚が去ったら、晋に鄭救援の功績を立てさせて、鄭を収めさせることになります。今後、楚が再び鄭を有すことはないでしょう。これを鄭を棄てたと言わず何というのですか?」
荘王が言いました「令尹は晋と戦っても勝てるとは限らないと言った。だから去るのだ。」
伍参が言いました「臣が詳しく検証しました。荀林父は中軍の将になったばかりなので威信が衆に伝わっていません。その佐を勤める先穀は先軫の孫で先且居の子なので、世勲(代々の功績)に頼っています。しかも剛愎(傲慢頑固)で不仁なので、命に従う将ではありません。欒氏や趙氏の輩も累世(歴代)の名将なので、それぞれが各自の意思で動いており、号令が統一できません。晋師は多勢ですが、容易に破ることができます。そもそも、王は一国の主であるのに、晋の諸臣を避けたら天下の笑い者になるでしょう。このようなことでどうして鄭を有することができますか。」
荘王が驚いて言いました「寡人には軍をうまく使う能力がないとはいえ、晋の諸臣の下になるつもりはない。寡人は子汝)に従って戦うことにしよう!」
その夜、荘王は人を送って令尹・孫叔敖に北進を命じました。楚軍は全車の方向を北に変えて進み、管城に至って晋軍を待ちます。
 
果たして勝負はどうなるか、続きは次回です。