第五十四回 荀林父が師を亡し、孟侏儒が主を悟らせる(中編)

*今回は『東周列国志』第五十四回中編です。
 
魏錡は荀林父が中軍の将であることに嫉妬しており、名声を破りたいと思っていました。荀林父の前では和を請うといいましたが、楚の軍中に至ると自ら決戦を求めて引き返します。
楚将・潘党は魏錡が楚営に来たと知り、晋営に行って罵られた蔡鳩居の仇に報いることができると考えました。そこで急いで中軍に入ります。しかし魏錡が既に中軍の営から去っていたため、潘党は馬を駆けて後を追いました。
魏錡は大沢まで来た時、楚の追手が迫っていると知り、相手をしようとしました。しかし沢の中で六頭の麋を見つけ、楚将が麋を献上したことを思い出したため、矢を放って一頭の麋を倒しました。魏錡は麋を御者に持たせて潘党に献上し、こう伝えます「前回、楽将軍が鮮(美味)を賜ったので、謹んでお返しします。」
潘党が笑って言いました「彼は我々がやったことを真似るつもりか。もし追撃したら我が楚人に礼がないことになってしまう。」
潘党も御者に命じて車を還らせました。
 
魏錡は晋の陣営に帰ると偽ってこう言いました「楚王は講和に同意せず、必ず武器を交えて勝敗を決するつもりです。」
荀林父が問いました「趙旃はどこだ?」
魏錡が言いました「私が先に行き、彼は後ろにいました。我々は会っていません。」
荀林父が言いました「楚が講和に同意しなかったのなら、趙将軍が害を受けることになる。」
荀罃が(兵車)二十乗、歩卒千五百人を率いて趙旃を迎えに行くことになりました。
 
趙旃は夜になって楚の軍営に到着しました。軍門の外に蓆を布き、車中から酒を取り、座って飲み始めます。趙旃に従ってきた二十余人に楚語を真似させ、四方を巡視させました。二十余人は楚の軍号(合言葉)を探って営内に侵入します。しかしある楚兵が疑って詰問したため、疑われた者が刀を抜いて楚の兵士を傷つけました。営内は大騒ぎとなり、火を灯して賊探しが始まります。その結果、十余人が捕まり、残った者は逃走しました。
逃げた兵が戻った時、趙旃はまだ座っていました。兵達は趙旃を抱えて車に乗せ、御人を探します。ところが御者も既に楚軍に捕えられていました。
空が少し明るくなった頃、趙旃は自分で轡を取り、馬に鞭打ちました。しかし馬は飢えていて駆けることができません。
 
楚荘王は営内に賊が侵入して逃走したと聞き、自ら戎輅(兵車)を御して追撃しました。楚兵も楚王に従って急追します。
趙旃は追いつかれることを恐れて車を棄て、万松林に逃げ入りました。しかし楚将・屈蕩に見つかります。屈蕩も車を下りて追撃しました。
趙旃は甲裳を脱いで小さな松樹の上に掛け、身を軽くして逃走します。
屈蕩は趙旃の甲裳と車馬を奪って荘王に献上しました。
 
荘王が引き上げようとした時、単車が風のように駆けてきました。潘党です。
潘党は北の車塵(車が走った時に起きる砂塵)を指さして楚王に「晋師が大挙してきました!」と報告しました。
車塵は荀林父が趙旃を迎えるために送った車のものです。潘党は遠くからそれを見て大軍が来たと思い、小事を大げさに報告してしまいました。驚いた荘王は顔色を失います。
突然、南方で鼓角の音が天に響き、一人の大臣が一隊の車馬を率いて到着しました。令尹・孫叔敖です。
荘王は少し冷静になって孫叔敖に問いました「相国はなぜ晋軍が来ると知って寡人を救いに来たのだ?」
孫叔敖が答えました「臣は知りません。しかし君王が軽率に進み、誤って晋軍に入ることを恐れたので、先に駕(王の車)を助けに来ました。後ろには三軍もそろっています。」
荘王が改めて北を眺め、車塵が高くないことに気づいて「大軍ではない」と言いました。
孫叔敖が言いました「『兵法』には『人に迫ることはあっても、人に迫られてはならない(寧可我迫人,莫使人迫我)』という言葉があります。諸将が既に集まったので、我が王は令を伝え、前だけを見て殺到するべきです。敵の中軍を倒せば残りの二軍も残ってはいられません。」
荘王は軍令を発しました。公子・嬰斉と副将の蔡鳩居に左軍を率いて晋の上軍を攻めさせ、公子・側と副将の工尹・斉に右軍を率いて晋の下軍を攻めさせ、自ら中軍の両広の衆を率いて荀林父の大営に直進します。
荘王が桴を持って戦鼓を打ち、衆軍が一斉に戦鼓を敲くと、鼓声が雷のように轟きました。車が馳け、馬が疾走し、歩卒が車馬に続いて飛ぶように前進します。
晋軍には応戦の準備が全くありません。鼓声を聞いた荀林父はやっと状況を探るために人を出します。
しかし楚軍は既に山野を満たして晋の営外を埋め尽くしていました。不意を突かれた荀林父は慌てるだけで計策がなく、ただ軍令を発して力戦するように命じました。
楚兵は誰もが武を誇り、威を振るっています。まるで海嘯津波や山崩のように、天が落ちて地が崩れるほどの勢いで晋軍を襲いました。晋兵は長い夢から突然現実に戻され、深酔いから突然醒めた時のように、東西南北がどの方角かもわからないような状態です。準備がない者が準備がある者にぶつかっても敵うはずがありません。瞬時に魚や鳥が逃げ散るように壊滅し、楚兵に砍殺されていきました。
 
荀罃は車に乗って趙旃を迎えに行きましたが、趙旃に会う前に楚将・熊負羈に遭遇しました。双方が戦い始めてから楚の大軍が到着します。兵力の差が明らかなため、歩卒が逃げ散りました。荀罃が乗っていた馬車の左驂が矢に中って倒れ、荀罃は熊負羈に捕えられます。
 
晋将・逢伯は二人の子・逢寧と逢蓋を連れて小車で逃走していました。途中で趙旃に遭遇します。趙旃は逃げる途中で両足を怪我していました。
前から車が来るのを見て、趙旃が大声で叫びました「車中にいるのは誰だ!車に乗る帯をくれ!」
逢伯は趙旃の声だと知りましたが、二人の子にこう言いました「速やかに駆け去れ。振り返ってはならない。」
二人の子は父の意図が理解できず、後ろを向きました。
すると趙旃が叫びました「逢君、私を載せてくれ!」
二人の子が父に言いました「趙叟(叟は年長の男)が後ろで叫んでいます。」
逢伯が怒って言いました「汝が趙叟を見た以上は、席を譲って乗せなければならない!」
逢伯は二人の子を叱咤して車から下し、轡を趙旃に渡して車に乗せました。逢寧と逢蓋は車を失い、乱軍の中で戦死します。
 
荀林父と韓厥は後営で車に乗り、敗残兵を集めて山の右の道から黄河に沿って逃走しました。放棄した車馬や器仗は数えきれません。
先穀が後ろから追いつきました。額に矢が中ったため鮮血を流しており、戦袍で頭を包んでいます。
荀林父が指さして「敢えて戦いを主張した者はどうなった」と言いました。
 
荀林父一行が河口まで来ると、趙括も合流しました。兄の趙嬰斉が秘かに船を準備して先に黄河を渡った事を訴え、「我々に知らせないとは、道理がありません」と言いましたが、荀林父は「死生の際だ。報告する余裕などないだろう」と応えました。
趙括は趙嬰斉を怨み、この後、溝が深まります。
 
荀林父が言いました「我が兵が再戦することはできない。目前の計は急いで河を渡ることだ。」
荀林父は先穀に命じて河の下流で船隻を集めさせました。しかし船はばらばらに停泊しているため、すぐに集めることができません。忙しく動き回っている時、沿岸に無数の人馬が到着しました。荀林父が見ると下軍正副の将・趙朔と欒書です。楚将・公子側に襲われて、敗残兵を率いて逃げてきたところでした。
両軍が河岸で合流しましたが、河を渡るには船が足りません。南を見ると再び車塵が上がっています。
荀林父は楚兵が勝ちに乗じて窮迫することを恐れ、戦鼓を敲いて「先に河を渡った者には賞を与える!」と宣言しました。
両軍の兵は舟を奪い合って殺し合いを始めます。
船上はすぐに人でいっぱいになり、後から来る者も絶えないため、転覆する船もありました。貴重な船三十余艘が破損します。
先穀が舟の中で軍士に叫んでこう命じました「舷(船の両側のへり)に手をかけたり槳をひっぱる者は、刀でその手を乱砍せよ。」
全ての船がそれに倣ったため、切り落とされた手や指が舟中に積もりました。いくらすくい上げてもきりがありません。手や指の山は全て黄河に捨てられます。
岸の上では哭声が響いて山谷にこだまし、天昏地慘(悲惨・凄惨な雰囲気が漂うこと)して日(太陽)にも光がなくなりました。
 
後ろでまた砂塵が起きました。荀首、趙同、魏錡、逢伯、鮑癸といった敗将が次々に逃げてきます。
荀首が舟に乗った時、子の荀罃の姿がなかったため、人を岸に送って探させました。すると一人の小軍(兵卒)が楚に捕えられる荀罃を見ていたため、荀首に詳しく報告しました。
荀首は「我が子を失ったのに空で帰るわけにはいかない」と言って再び岸に上がり、車を整えて出発しようとしました。
荀林父がそれを止めて言いました「罃は既に楚に捕えられた。行っても無益だ。」
荀首が言いました「他の者の子を得れば、我が子と換えることもできるかもしれない。」
魏錡は以前から荀罃と仲が良かったため、同行を願いました。荀首は喜んで同意します。
荀首が荀氏の家兵を集めると、まだ数百人もいました。荀首は民を慈しみ士を愛してきたため、軍心を得ていました。岸にいた下軍の兵達も進んで荀首に従い、既に舟に乗った者達も、「下軍の荀大夫が楚軍に入って小将軍を探しに行く」と聞き、皆、岸に登って死力を尽くすことを誓いました。
この時の鋭気は全軍が戦前に陣営を構えた時よりも強旺なものになりました。
 
荀首は晋国で指折りの射手だったので、多数の良箭(良矢)を持って楚軍に突入しました。
ちょうど楚の老将である連尹・襄老に遭遇します。襄老は晋軍が棄てた車や武器を回収しているところでしたが、突然現れた晋兵に不意を突かれ、防戦の構えをする間もなく、荀首に一矢を射られました。矢は頰を貫き、襄老は車上に倒れます。
それを見た楚の公子・穀臣が車を駆けさせて援けに来ました。すると魏錡が迎え撃ち、荀首も傍で見定めて再び一矢を射ます。矢は右腕に命中しました。穀臣が痛みを我慢して矢を抜いた時、魏錡が隙を突いて穀臣を生け捕りにしました。穀臣は襄老の死体と一緒に車に載せられます。
荀首が言いました「この二つがあれば我が子を贖うことができるだろう。楚師の強盛は甚だしい。当たるべきではない(これ以上戦うべきではない)。」
晋軍は馬を駆けさせて退却しました。
楚軍がそれを知って追撃しようとした時には既に遠くに去っていました。
 
 
 
*『東周列国志』第五十四回後編に続きます。