第五十四回 荀林父が師を亡し、孟侏儒が主を悟らせる(後編)

*今回は『東周列国志』第五十四回後編です。
 
楚の公子・嬰斉は晋の上軍を攻撃しました。士会は有事を予想しており、最も早くから状況を探って陣を構えていたため、戦いながら退却することができました。
嬰斉が敖山の下まで追撃すると、突然、砲声が轟き、一軍が殺到してきました。先頭の大将が車中で「鞏朔ここにあり!待っていたぞ!」と叫びます。
驚く嬰斉に鞏朔が襲いかかって約二十余合戦いましたが、鞏朔は勝負に執着せず、士会を守ってゆっくり撤退しました。
嬰斉はあきらめず再び追撃を始めました。すると前方でまた砲声が轟き、韓穿の兵が殺到します。偏将・蔡鳩居が車を出して迎え撃とうとした時、山の窪んだ所から新たな砲声が響きました。雲のように旗旆(旗)がなびき、大将・郤克が兵を率いて迫ってきます。
嬰斉は埋伏が多いのを見て晋の計に陥ることを恐れ、金(鉦)を鳴らして退却しました。
士会が将士を確認すると、一人も失っていませんでした。
士会は敖山の険阻な地形を利用して七つの小寨を構えました。七星のように連携した晋の営寨に楚軍は近づくことができません。後に楚兵が全て引き上げてから士会も旗をしまって引き上げました。
 
荀首が河口まで兵を還した時も荀林父の大軍がまだ渡河を終えていなかっため、驚皇(驚き慌てること)しました。しかし既に渡河を終えた趙嬰斉が空になった船を北岸から南岸に送って援けたため、荀首も渡河できました。
その頃には天が既に暗くなっていました。
 
楚軍は邲城に入りました。伍参が速く晋軍を追うように進言しましたが、荘王はこう言いました「楚は城濮で利を失ってから社稷に恥辱を残してしまったが、この一戦で以前の恥を雪ぐことができた。晋と楚は、最後は講和するべきだ。多くを殺す必要はない。」
荘王は営を構えるように命じました。
 
晋軍は夜に乗じて河を渡りました。混乱は一晩中続き、空が明るくなる頃にやっと収束しました。
 
鄭襄公は楚軍が勝ったと知って自ら邲城に赴き、楚軍を労いました。楚王を迎えて衡雍に至ります。荘王は衡雍の王宮に住み、大きな筵席(宴席)を設けて戦勝を慶賀しました。
潘党が晋の死体を集めて「京観」を築き、武功を万世に伝えるように進言しましたが、荘王はこう言いました「晋には討伐するべき罪があったわけではなく、寡人は幸(幸運)によって勝てただけだ。武功を称える必要はない。」
荘王は軍士に命じて晋兵の遺骨を埋めさせ、文を書いて河神の祭祀を行ってから凱旋しました。
論功行賞では伍参の謀を嘉して大夫に任命します。その子孫には伍挙、伍奢、伍尚、伍員がいます。
令尹・孫叔敖が嘆いて言いました「晋に勝つという大功が嬖人から出るとは、私は愧死(ひどく恥じ入ること)するしかない。」
この後、孫叔敖は欝々として病になりました。
 
晋では荀林父が敗兵を率いて景公に謁見しました。景公は荀林父を斬ろうとしましたが、群臣が力を尽くして荀林父を守り、こう言いました「林父は先朝の大臣です。喪師の罪があるとはいえ、全て先穀が軍令に背いたことが原因です。主公は先穀を斬って将來の戒めにするだけで充分です。昔、楚は得臣を殺して文公を喜ばせました。秦は孟明を留めて襄公を懼れさせました。主公が林父の罪を赦し、今後、彼に尽力させることを願います。」
景公は諫言に従い、先穀を処刑して荀林父を原職に戻しました。また六卿に将兵を訓練させ、後日の報復の準備をしました。
これは周定王十年の事です。
 
 
定王十二年春三月、楚の令尹・孫叔敖の病が篤くなりました。
孫叔敖が子の孫安に遺言を伝えました「わしには一通の遺表がある。死後、わしのために楚王に渡しなさい。楚王が汝に官爵を封じようとしても、汝は受けてはならない。汝は平凡な庸才であり、経済の具(世を治める人材)ではない。濫廁冠裳(自分の能力を超えて官職を得ること)となってはならない。もし汝に大邑を封じようとしたら、汝は固辞せよ。固辞しても許されなかったら、寝邱(地名)封地として請え。その地は瘠薄(痩せていること)なので誰も欲しがらない。だからこそ、後世の禄を延ばすこともできるはずだ。」
孫叔敖は言い終わると死んでしまいました。
 
孫安が遺表を荘王に献上しました。そこにはこう書かれています「臣は罪廃の余でありながら、君王のおかげで相位に抜擢されました。しかし数年にわたって大功を立てることができず、重任を裏切ることになりました。今、君王の霊によって牖下(窓の下。家の中)で死ぬことができたのは、臣の幸というものです。臣には一人の子がいますが、不肖なので冠裳を汚させるには足りません(官員の服を着させるには足りません)。しかし臣の従子・憑には充分な才能があるので、一職を任せることができます。晋は代々伯(覇者)を称しています。前回はたまたま敗戦しましたが、軽視してはなりません。民が戦闘に苦しんで久しくなります。兵を休めて民を安んじることが上策です。『人は死ぬ時に善意の言葉を残す(人之将死,其言也善)』といいます。王はよくお考え下さい。」
読み終った荘王は嘆息して「孫叔は死んでも国を忘れなかった。寡人には福がないから、天が我が良臣を奪ってしまった」と言い、車を準備させて殮(棺)を見に行きました。荘王が棺を撫でて痛哭し、従っていた者達も皆涙を流します。
翌日、公子・嬰斉を令尹に任命しました。
憑は召されて箴尹になります。これが氏の始まりです。
荘王が孫安を工正に任命しようとしましたが、孫安は遺命を守って固辞し、野に退いて田を耕しました。
 
 
荘王は孟侏儒という優人を気に入っていました。優孟とよばれます。身長は五尺に足らず、いつも滑稽な言動で笑いを誘い、王の左右に侍って楽しませていました。
ある日、優孟が郊外に出た時、孫安を見つけました。孫安は柴薪を刈って自分で背負い、家に帰るところでした。
優孟が孫安を招いて問いました「公子はなぜ自ら労苦して薪を背負っているのですか?」
孫安が言いました「父は数年にわたって相を勤めましたが、一銭も私門に入れませんでした。父の死後、家には余財がないので、私が薪を背負わないわけにはいきません。」
優孟が嘆いて言いました「公子は努力してください。暫くしたら王が子(あなた)を召すことになります。」
優孟は孫叔敖の衣冠や剣履(靴)を一揃い作ると、生前の言動を習いました。三日で習得して瓜二つになります。
その頃ちょうど荘王が宮中で宴を開き、群優に戲劇を披露させました。
優孟はまず他の優に楚王の姿をさせます。楚王役は叔敖を想う姿を演じました。そこに叔敖に扮した優孟が登場します。
叔敖を一目見た楚王役が驚いて言いました「孫叔は変わりがないか?寡人が強く卿を想っていたから、また寡人を助けに来てくれたのか。」
優孟が言いました「臣は本物の叔敖ではありません。似ているだけです。」
楚王役が言いました「寡人は叔敖に会えないと思っていた。叔敖に似ている者に会っただけでも寡人の思いを少しでも慰めることができる。卿は辞退するな。相位に就け。」
優孟が言いました「王が臣を用いるというのなら、それは臣の大きな願いです。しかし家に老妻がおり、深く世情に通じているので、まず帰って老妻と商議し、その後で詔を奉じることをお許しください。」
優孟は一度舞台を降りてから、再び登場してこう言いました「臣が老妻と議論した結果、老妻は臣に相位に就くべきではないと言いました。」
楚王役がその理由を問うと、優孟が言いました「老妻は村歌を使って臣を諫めました。臣が歌うことをお許しください。」
優孟が歌を歌いました。その内容はこうです「貪吏にはなるべきではないが、なるべきでもある。廉吏にはなるべきだが、ならないべきでもある。貪吏になるべきではない理由は、汚れていて卑しいからだ。なるべきだという理由は、子孫が堅固な車に乗って肥馬に鞭打つことができるからだ。廉吏になるべきだという理由は、高尚で廉潔だからだ。なるべきではないという理由は、子孫の衣服が薄く食料も足りないからだ。あなたは楚の令尹・孫叔敖を知らないか。生前はわずかな私財を作ることもなく、一朝にして身が没したら家が衰落し、子孫は食を乞い、蓬蒿(藁草の家)に住んでいる。あなたは孫叔敖に学ぶべきではない。君王はかつての功労を覚えていないものだ(貪吏不可為而可為,廉吏可為而不可為。貪吏不可為者,汚且卑,而可為者,子孫乗堅而策肥。廉吏可為者,高且潔,而不可為者,子孫衣単而食缺。君不見楚之令尹孫叔敖,生前私殖無分毫,一朝身没家凌替,子孫丐食棲蓬蒿。勧君勿学孫叔敖,君王不念前功労)。」
荘王は舞台上の優孟が叔敖にそっくりだったため、早くから寂寞とした感情を抱いていました。そこに優孟の歌を聞いたため、思わず涙を流してこう言いました「孫叔の功を寡人が忘れるはずがない!」
荘王は優孟に命じて孫安を招かせます。
 
孫安は敝衣草屨(破れた服と草鞋)というみすぼらしい姿で荘王に謁見しました。
荘王が言いました「子(汝)はここまで窮困していたのか。」
優孟が横から言いました「窮困していなければ先の令尹の賢を見ることはできません。」
荘王が言いました「孫安は職に就くことを願わない。よって万家の邑を封じよう。」
孫安は固辞しました。
荘王が言いました「寡人の主意は既に決まった。卿は退けてはならない。」
孫安が言いました「君王がもしも先臣の尺寸の労を想い、臣に衣食を下賜するというのでしたら、寝邱に封じてください。臣の願いはそれで満足できます。」
荘王が問いました「寝邱は瘠悪の地だ。卿に何の利があるのだ?」
孫安が言いました「先臣の遺命です。この地でなければ受けることはできません。」
荘王は同意しました。
寝邱は良い土地ではないため、他の者と争いになることがなく、孫氏が代々継承できました。これは孫叔敖の先見の明によるものです。
 
 
晋の臣・荀林父は孫叔敖が死んだと聞き、暫く楚兵が動員されることはないと判断しました。
そこで鄭討伐の許しを請い、鄭の郊外で多数の戦利品を奪って兵を還しました。
諸将が鄭を包囲するように勧めましたが、荀林父はこう言いました「包囲してもすぐには勝てない。万一、楚の援軍が突然現れたら、新たな敵を作ることになる。今回は鄭人を懼れさせてどうするかを自分で考えさせることができれば充分だ。」
 
晋軍の進攻を恐れた鄭襄公は楚に使者を派遣し、弟の公子・張を人質として送りました。以前、人質になった公子・去疾は交代して鄭に帰り、襄公と共に国事を行います。
しかし楚荘王は「鄭に信があるのなら、質は重要ではない」と言って公子・張も送り返しました。
荘王は群臣を集めて計議します。
 
その結果はどうなるのか、続きは次回です。