第五十五回 華元が子反を脅かし、老人が杜回に対抗する(中編)

*今回は『東周列国志』第五十五回中編です。
 
楚軍が長期戦の準備をしているという情報は宋城内にも届きました。
華元が宋文公に言いました「楚王には去るつもりがなく、晋の援軍も来ないので、どうしようもありません。臣が楚営に入って子反(公子・側)に直接会い、講和を強制することを許可してください。あるいは幸いにも事が成功するかもしれません。」
宋文公が言いました「社稷の存亡はこの一行にかかっている。くれぐれも注意せよ。」
 
華元は楚軍に探りを入れて公子・側が土堙の敵楼(城楼)に住んでいると知りました。また、公子・側の近臣の姓名や職務の内容、守衛の状況等も詳しく調べます。
準備が整うと、夜遅くなるのを待って謁者(王の近侍)に化け、秘かに縄を使って城壁を下り、土堙の傍まで直進しました。
撃柝(拍子木を打って時間を報せること)の巡軍が来ると、華元が問いました「主帥は上にいるか?」
巡軍は「いる」と答えます。
華元が更に「もう寝たか?」と問いました。
巡軍が言いました「連日の辛苦のため、今夜は大王が酒一罇を下賜した。それを飲んで既に枕に就いたはずだ。」
華元は走って土堙を登りました。土堙を守る軍士が華元を制止します。華元が言いました「私は謁者の庸僚だ。大王に緊要の機密があり、主帥に伝えることになった。しかし先ほど酒を下賜したので、既に酔って寝ているのではないかと思い、私を派遣して直接言を伝えさせたのだ。すぐ戻って大王に報告しなければならない。」
軍士は信じて華元を土堙に登らせました。
 
堙内には灯燭がまだ点いていましたが、公子・側は服を着替えずに寝ていました。華元が床に乗って軽く手で推します。目を醒ました公子・側が体を動かそうとしましたが、両方の袖の上に華元が座っているため動けません。驚いて「汝は誰だ?」と問うと、華元が低い声で言いました「元帥、驚かないでください。私は宋国の右師・華元です。主公の命を奉じ、夜になるのを待って和を求めに来ました。もし元帥が同意するなら宋国は代々盟約に従います。しかしもし同意しないようなら、元(私)と元帥の命は共に今夜で尽きることになります。」
言い終わると左手で臥席を押さえ、右手で袖の中に隠していた雪白の匕首を取り出し、灯光の下でゆっくり数回振って見せました。
公子・側は慌てて「一緒に商量しよう。粗鹵(粗魯。乱暴)である必要はない」と言いました。
華元が匕首をしまってから言いました「死に値する罪を犯したことをお赦しください。情勢が緊迫しているので、従容としてはいられません。」
公子・側が問いました「子(あなた)の国内の光景(状況)はどうだ?」
華元が答えました「人々は飢え、骨を拾って薪木にしており、既に充分狼狽しています。」
公子・側が驚いて言いました「宋はそれほどまで困敝していたのか。軍事とは『虚の者は実に見せ、実の者は虚に見せる(虛者実之,実者虛之)』というが、子はなぜ実情を話したのだ?」
華元が言いました「『君子は人の危難を哀れみ、小人は人の危難を自分の利とする(君子矜人之危,小人利人之危)』といいます。元帥は君子であり、小人ではありません。だから実情を隠さなかったのです。」
公子・側が問いました「それではなぜ投降しないのだ?」
華元が言いました「国には困の形(困窮の実態)がありますが、人には不困の志があります。君民とも命をかけて城と共に砕けるつもりです。どうして城下の盟を結べるでしょう。しかしもしも矜厄の仁(危難を憐れむ仁心)を蒙って三十里退いていただけたら、寡君は国を挙げて従います。二志(異心)がないことを誓いましょう。」
公子・側が言いました「こちらも本当の事を話そう。我が軍の食糧は七日分しかない。もし七日を越えても城が落ちなかったら、班師(撤退)するつもりだ。室を築いて田を耕すという令は、恐れさせるために出しただけだ。明日、楚王に報告して軍を一舍(三十里)退かせよう。汝の君臣も信を失ってはならない。」
華元が言いました「元(私)は喜んでこの身を質(人質)とさせていただきます。元帥と共に誓詞を立てて互いに後悔しないことを約束しましょう。」
二人は誓いを立ててから兄弟の契りを結びました。
その後、公子・側が一本の令箭(軍中で命令を発する時に出す小旗。柄の先端が鏃になっています)を華元に与えて「速く帰れ」と言いました。華元は令箭を持っているので楚の陣中を平然と歩くことができます。
宋の城下まで戻って暗号を伝えると、城壁の上から兜子(籠の一種)が下され、華元を引き上げました。城に入った華元は夜の内に宋公に報告します。君臣は喜びの中で翌日の撤兵の消息を待ちました。
 
翌日、空が明るくなってから、公子・側が荘王に華元の言葉を伝えて言いました「臣の一命は匕首によって失われるところでしたが、幸い華元に仁心があったため、国情を全て臣に告げて退師を哀懇しました。臣は既に同意しました。王の降旨(命令を出すこと)を請います。」
荘王が言いました「宋がそれほど困憊しているのなら、寡人は宋を取って帰るべきだ。」
公子・側が頓首して言いました「我が軍には七日の食糧しかないということを、臣も彼に告げました。」
荘王が激怒して言いました「子(汝)はなぜ実情を敵に漏らしたのだ!」
公子・側が言いました「区区(小さい様子)とした弱宋にも人を欺かない臣がいるのに、堂堂とした大楚にはいないというのですか。だから臣は敢えて隠さなかったのです。」
荘王は顏色を明るくして「司馬の言う通りだ」と言い、すぐに撤退の命令を出しました。三十里外に軍が移動します。
申犀は軍令が既に出されたと知って荘王に逆らうことができず、ただ胸を叩いて大哭しました。荘王は人を送って申犀を慰め、「子(汝)が悲しむことはない。いずれ汝の孝を成就させてやろう」と伝えました。
 
楚軍が陣営を構え終ってから、華元が楚陣に来て宋公の言葉を伝え、盟約を受けることを請いました。
公子・側が華元と共に入城し、宋文公と歃血して誓いを立てます。
宋公は華元に命じて申舟の棺を楚営に送らせました。華元はそのまま留まって人質になります。
荘王は兵を率いて楚に帰り、申舟を厚葬しました。朝廷を挙げて送葬に参加します。埋葬が終わると申犀に大夫を継がせました。
 
楚に入った華元は公子・側を通して公子・嬰斉とも仲良くなりました。
ある日、宴の席で会話が時事に及び、公子・嬰斉が嘆いて言いました「今は晋と楚が争って日々干戈(戦争)が絶えない。天下はいつになったら太平を得ることができるのだろう。」
華元が言いました「晋と楚は雌雄を争っていますが、共に上下を決することはできません。もし誰かが二国の講和を成立させ、二国がそれぞれ自分の属国を管理し、兵を休めて修好すれば、生民(民)も塗炭から逃れることができます。これこそ世道(社会)の大幸というものです。」
嬰斉が問いました「子(あなた)がその任務を全うすることはできますか?」
華元が言いました「元(私)は晋将・欒書とも親しくしており、以前、晋を聘問した時にもこの事に言及しました。しかし聨合に同意する人がいませんでした。」
翌日、嬰斉が華元の言葉を公子・側に伝えました。
しかし公子・側は「二国はまだ厭兵厭戦していない。この事を軽々しく議論する時ではない」と言いました。
 
華元は楚に六年間留まりました。周定王十八年、宋文公・鮑が死んで子の共公・固が即位したため、華元は葬儀に参加するために帰国を願い、やっと宋国に戻りました。これは後の話です。
 
 
晋景公は楚が宋を包囲して年を越えても引き上げないと聞き、伯宗に言いました「宋城の守りが困窮している。寡人は宋に対して信を失うわけにはいかない。援けに行くべきだ。」
晋が兵を発しようとした時、突然、「潞国の密書が届きました」という報告がありました。
 
潞国とは赤狄の別種で、隗姓・子爵の国です。黎国の隣に位置していましたが、周平王の時代、潞君が黎侯を駆逐してその地を併合しました。ここから赤狄がますます強くなりました。
晋景公の時代の潞子(潞国の主)は名を嬰児といい、晋景公の妹・伯姫を娶って夫人にしました。
しかし嬰児は弱小だったため、国相の酆舒が専横していました。
かつては晋の狐射姑が潞国に出奔しており、狐射姑は晋国の勲臣で博識多才だったため、酆舒も三分の恐れを抱いて勝手なことができませんでしたが、狐射姑が死んでからは憚るものが完全になくなりました。
酆舒は潞子と晋の友好関係を絶たせるために伯姫を誣告し、潞君に強制して伯姫を縊殺させました。
 
ある日、酆舒が潞子と共に郊外で狩りをし、酔ってから打弾(弾弓)で遊びました。君臣は飛ぶ鳥を的にして賭けを始めます。しかし酆舒が放った弾が潞子に中ってしまいました。潞子は目を怪我します。すると酆舒は弓を投げ捨てて笑い出し、「弾を外してしまったから、臣が罰として酒一巵を飲まなければならない」と言いました。
潞子は酆舒の暴虐に耐えられなくなりましたが、制御する力もありません。そこで密書を晋に送って酆舒の罪を討伐するように請いました。
謀臣・伯宗が言いました「酆舒を誅して潞の地を兼併すれば、それを元に周辺の国に及び、狄土を全て得ることができます。その結果、西南の疆(国境)がますます拡がり、晋の兵賦(兵力と物資)もますます充実します。この機を失ってはなりません。」
景公も潞子・嬰児が妻を守らなかったことを怒っていたため、荀林父を大将に、魏顆を副将に任命し、兵車三百乗を出して潞を討たせました。
 
酆舒は兵を率いて曲梁で対抗しましたが、敗れて衛に奔りました。
しかし衛穆公・速は晋と和睦したばかりだったため、酆舒を捕えて晋軍に献上します。
荀林父は酆舒を縛って絳都に送り、処刑しました。
 
晋軍は長駆して潞城に入りました。潞子・嬰児が荀林父の馬前まで来て迎え入れます。しかし荀林父は伯姫を誣告して殺した罪を譴責し、嬰児を捕えて帰還しました。
また、荀林父は人を使って「黎人がその君を想って久しくなります」と報告させました。これを理由に黎侯の後裔を捜し出して五百家を与え、城を築いて住ませます。名目上は黎の復興ですが、実際は潞を滅ぼすための措置でした。
嬰児は亡国に心を痛めて自刎しました。それを悲しんだ潞人は祠を建てて祀りました。今(明清時代)も黎城の南十五里に潞祠山があります。
 
 
 
*『東周列国志』第五十五回後編に続きます。