第五十七回 巫臣が晋に逃げ、程嬰が孤児を匿う(中編)

*今回は『東周列国志』第五十七回中編です。
 
翌朝、屈巫は一通の表章(国君に提出する文書)を書いて従人に渡し、楚王に届けさせました。屈巫は夏姫と共に晋国に奔ります。
晋景公は楚に大敗したことを恥としていたため、屈巫が来たと聞いて喜んで言いました「天がこの人を私に下賜したのだ。」
即日、屈巫は大夫になり、邢の地を采邑として与えられます。屈巫は屈姓を去って巫を氏とし、臣と名乗りました。その後、申公・巫臣とよばれるようになります。
巫臣は晋に安居しました。
 
巫臣の表章を受け取った楚共王はすぐに開いて読みました。そこにはこう書かれています「鄭君が夏姫を臣の室(妻)としました。臣は不肖なので辞退できません。君王の罪を恐れるので暫く晋国に住むことにします。斉への使者については、君王は別の良臣をお送りください。誠に死罪に値します(死罪,死罪)。」
読み終った共王は激怒し、公子・嬰斉と公子・側を招いて読ませました。
公子・側が言いました「楚と晋は世仇(代々の仇)なので、巫臣が晋に行ったことは反叛とみなすべきです。討たないわけにはいきません。」
公子・嬰斉もこう言いました「黒要も母と烝淫した罪があります。併せて討つべきです。」
共王は同意し、公子・嬰斉に兵を率いて巫臣の族を誅滅させ、公子・側に兵を率いて黒要を捕えさせました。黒要は処刑されます。二家の財産は全て二将によって分けられました。
巫臣は家族が誅滅されたと知り、二将に書を送りました。その内容はこうです「汝等は貪讒(貪婪と讒言)によって国君に仕え、多数の不辜(無罪の者)を殺した。余は必ず汝等を路上で疲弊させて死に至らしめよう。」
公子・嬰斉等はこの書を隠して楚王に報告しませんでした。
 
巫臣は晋で計策を立てて呉国と同盟させ、車戦の法を呉人に教えました。巫臣の子・狐庸が呉に留まって行人(外交官)となり、晋と呉を通信させて往来を絶えなくします。この後、呉の勢いは日々強くなり、兵力は日々盛んになり、楚の東方に位置する属国をことごとく占領していきました。呉の主・寿夢は王を僭称します。
楚の辺境は頻繁に呉の攻撃を受けて安寧な年がなくなりました。
後に巫臣が死ぬと狐庸も屈姓を名乗り、呉に留まって仕官しました。呉は狐庸を相国に任命して国政を任せました。
 
冬十月、楚王が公子・嬰斉を大将に任命して鄭と共に衛を討たせました。楚軍は衛の郊外を破壊します。
その後、軍を移して魯を侵し、楊橋の地に駐軍しました。
魯の仲孫蔑は賄賂を使うことを魯成公に請い、国中の良匠と織女、針女を各百人集めて楚軍に献上しました。楚に盟を求めて撤兵させようとします。
しかし晋も使者を送って鄭討伐に魯侯を招いたため、魯成公は再び晋に従いました。
 
周定王二十年、鄭襄公・堅が死に、世子・費が位を継ぎました。これを悼公といいます。
この頃、鄭が許と田界(領界)を争い、許君が楚に訴えました。楚共王は許君に道理があると判断し、使者を送って鄭を譴責します。
怒った鄭悼公は楚との同盟を棄てて晋に従いました。
この年、晋の郤克が矢傷によって健康を壊し、左臂(左腕)が使えなくなったため告老(引退)しました。郤克は暫くして死にます。
欒書が郤克に代わって中軍元帥になりました。
翌年、楚の公子・嬰斉が鄭を攻撃し、欒書が鄭を援けました。
 
 
当時、晋景公は斉と鄭を服従させたため、矜慢(驕慢)の心が生まれていました。屠岸賈を寵用して狩猟や酒にふけり、霊公のような日々を送っています。
趙同と趙括は兄の趙嬰斉と不仲になったため、趙嬰斉の淫事を誣告して斉に出奔させました。景公はこれを制止できませんでした。
ちょうどこの頃、梁山が理由もなく崩れ、黄河が塞がれて三日間流れなくなりました。
景公が太史に卜をさせると、屠岸賈が太史に賄賂を贈って「刑罰が公正ではないため(刑罰不中)」と報告させました。
景公が問いました「寡人は刑罰を過度に用いているわけではない。なぜ公正ではないのだ?」
屠岸賈が上奏しました「刑罰が公正ではないというのは、失入(罪が重すぎること)にも失出(罪が軽すぎること)にも当てはまります。趙盾が霊公を桃園で弑殺したことは史冊にも記載されています。これは赦すべきではない罪です。しかし成公は誅戮を加えず、逆に国政を任せました。この状況は今まで続き、逆臣の子孫が朝廷中を満たしています。これで後人を戒めることができるでしょうか。趙朔、趙原、趙屏等は宗族が多く権勢が盛んなことに頼って叛逆を謀っているとも聞きました。それを阻止するために諫言した楼嬰(趙嬰斉。楼は食邑)は逐われて出奔しました。欒氏と郤氏の二家は趙氏の勢いを懼れているので、我慢するだけで言及しようとしません。梁山が崩れたのは、天意が主公に霊公の冤を明らかにさせ、趙氏の罪を正させようとしているのです。」
景公は邲の戦いから趙同と趙括の専横を憎んでいたため、この言葉に惑わされました。
そこで韓厥の意見を問うと、韓厥はこう言いました「桃園の事が趙盾とどう関係あるのでしょうか。それに趙氏は成季(趙衰)の代から晋において大勲を立ててきました。主公はなぜ細人(小人)の言を聴いて功臣の子孫を疑うのですか。」
景公は納得できず、判断を躊躇しました。
改めて欒書と郤錡に意見を求めると、二人はあらかじめ屠岸賈に入れ知恵されていたため、わざと言葉を濁して趙氏を弁護しませんでした。
その結果、景公は屠岸賈の言葉を信じるようになります。
景公は趙盾の罪を版に書き記し、屠岸賈に「汝がうまく処理せよ。国人を驚かしてはならない」と命じました。
 
韓厥は屠岸賈の陰謀を知り、夜のうちに下宮に行って趙朔に逃走を勧めました。しかし趙朔はこう言いました「私の父は先君の誅に抵抗したため悪名を受けることになりました。今、岸賈は君命を奉じているので、私が殺されるのは明らかです。どこに逃げればいいというのでしょう。しかし私の妻は身籠っており、既に臨月になりました。もしも女児が生まれたら何も言うことがありませんが、天が幸を降して男児が生まれたら、趙氏の祀を延ばすことができます。もしこの一点の骨血を将軍になんとか守っていただけるようなら、朔(私)は死んでも生きているのと同じです。」
韓厥が泣いて言いました「厥(私)は宣孟(趙盾)に認められたので今日があります。その恩は父子の恩と同じです。今は情けないことに賊の首を斬る力がありませんが、あなたから命じられた事は力を尽くして全うします。しかし賊臣は怨憤を溜めて既に久しく、一時に難を発したら玉石とも滅ぼされてしまいます。そうなったら厥に力があっても使うことができません。今はまだ難を発していないので、秘かに公主(趙朔の妻)を公宮に送って大難を避けるべきではありませんか。後日、公(あなた)の子が成長したら、仇に報いる日も来るかもしれません。」
趙朔は「謹んで教えに従います」と言いました。
二人は涙を流して別れます。
 
その後、趙朔が妻の荘姫に言いました「女児が生まれたら文と名付け、男児が生まれたら武と名付けよ。文人は無用だが、武なら仇に報いることができる。」
また、単独で門客の程嬰とも話をしました。
荘姫は後門から出て温車に乗りました。程嬰が宮中に護送します。荘姫は母・成夫人(晋成公の夫人)を頼りました。夫妻の別離の苦しみは言うまでもありません。
 
天が明るくなると、屠岸賈が自ら甲士を率いて下宮を包囲しました。景公が書いた罪版を大門に掲げて「君命を奉じて逆賊を討つ」と宣言します。
趙朔、趙同、趙括、趙旃とそれぞれの家族が老幼男女を問わず全て殺されました。趙旃の子・趙勝は邯鄲にいたため、一人だけ難を逃れます。後に変事を知って宋に出奔しました。
趙氏の死体が堂戸に並べられました。血が堂の階段を流れます。死者の数を数えたところ、荘姫が見当たりません。
屠岸賈が言いました「公主を心配する必要はないが、妊娠してもうすぐ生まれると聞いた。万一、男児が生まれたら、逆種を残して後患を招くことになる。」
ある人が報告しました「夜半に温車が入宮しました。」
屠岸賈は「荘姫に違いない」と言うと、すぐ晋侯に報告しました「逆臣一門は既に誅絶しましたが、公主だけが宮中に入りました。主公の裁きを請います。」
景公が言いました「わしの姑(父の姉妹)は母夫人に愛されている。罪を問うことはできない。」
屠岸賈が言いました「公主は懐妊しており、間もなく出産します。万一、男児が生まれたら逆種を残すことになり、後日成長してから必ず仇に報いようとするでしょう。これでは桃園の事が繰り返されてしまいます。主公はよく考えるべきです。」
景公が言いました「男児が生まれたら除くことにしよう。」
この日から屠岸賈は昼も夜も人を送って荘姫の出産の消息を窺わせました。
 
数日後、荘姫が男児を生みました。成夫人は宮中に命じて女児が生まれたと発表させます。
しかし屠岸賈はこれを信じず、自分の家の乳媼(乳母)を宮内に入れて確認させようとしました。荘姫は慌てて成夫人に相談し、生まれたばかりの女児は既に死んだと伝えました。
この頃、景公は淫楽に耽っており、国事を全て屠岸賈に任せていました。屠岸賈が朝廷でも宮内でも自由にふるまっています。
屠岸賈は女児が生まれたということも既に死んだということも信じず、自ら女僕を率いて宮中を捜索しました。
荘姫は孤児を褲(ズボン)の中に隠し、天に向かってこう言いました「天が趙宗を滅ぼすつもりなら、この子は泣きなさい。しかしもし趙氏に一脈の延があるのなら、この子は声を出さずにいなさい。」
女僕が荘姫を連れ出して宮中を捜索しましたが、何も発見できませんでした。その間、褲中の赤子は泣き声を上げずにじっとしています。
屠岸賈はあきらめて宮中から出ましたが、疑いを解きませんでした。するとある人がこう言いました「孤児は既に宮門から外に出されました。」
そこで屠岸賈は孤児に賞金を懸けて門にこう掲示しました「最初に孤児に関する真実の情報を告げた者には千金を与える。実情を知りながら報告しなかった者は、反賊を匿った者と同罪とし、一家を斬首に処す。」
同時に宮門を出入りする者を厳しく取り締まるように命じました。
 
 
 
*『東周列国志』第五十七回後編に続きます。