第五十八回 魏相が医者を迎え、養叔が芸を献じる(二)

*今回は『東周列国志』第五十八回その二です。
 
宋共公が上卿・華元を晋に送って弔問し、併せて新君即位を祝賀しました。
華元は欒書と商議し、晋・楚の講和を成立させようとしました。南北の争いを解消して生民(民衆)を塗炭の苦しみから逃れさせるためです。
欒書は「楚は信用できない」と言いましが、華元が「元(私)は子重(公子・嬰斉)と関係を善くしています。任せてください」と説得したため、欒書は幼子・欒鍼を華元と共に楚に送り、公子・嬰斉に会見させました。
嬰斉は欒鍼が若いのに容貌が立派だったため、華元に誰かと問いました。中軍元帥の子だと知るとその才を試してみたくなり、「上国(貴国)の用兵の法とはどのようなものですか?」と質問します。
欒鍼が答えました「整です。」
嬰斉がまた問いました「それよりも長いのは(重要なのは)何ですか?」
欒鍼が答えました「暇です。」
嬰斉は「人(相手)が乱れたら自分は整え、人が忙しくなったら自分は暇(余裕がある様子)となる。これなら戦って勝てないはずがない。この二字は簡潔だが道理を言い尽くしている」と称賛し、欒鍼を尊重するようになりました。
嬰斉は欒鍼を楚王に紹介し、両国による通和の議を定めました。国境を守って民を安んじ、干戈(武器)を動かした者は鬼神の殛(誅殺)を受けると誓うことになります。こうして盟を結ぶ日が決められ、晋の士燮と楚の公子・罷が共に宋国の西門外で歃血の儀式を行いました。
 
ところが、楚の司馬を勤める公子・側が和平の議に参加していなかったため、激怒して言いました「南北が通じなくなって久しくなるのに、子重が和平の功を独り占めしようとしている。これは阻止しなければならない。」
公子・側は晋の巫臣が呉子・寿夢を招き、晋、魯、斉、宋、衛、鄭各国の大夫が鐘離で会を開いたと知り、楚王にこう言いました「晋と呉が好を通じるのは楚を謀ろうとしているからです。宋と鄭が従ったら楚の宇下(屋根の下。支配下が空になってしまいます。」
共王が言いました「孤は鄭を討とうと思うが、西門の盟はどうする?」
公子・側が言いました「宋と鄭が楚の盟を受けてきたのは一日のことではありません。しかし晋に附いたから楚との盟を顧みなくなったのです。今日の事は利があれば進むだけです。(西門の)盟を気にすることはありません。」
納得した共王は公子・側に鄭を攻撃させました。鄭は再び晋に背いて楚に従います。周簡王十年の事です。
 
晋厲公は激怒して諸大夫を集め、鄭討伐を図りました。当時、欒書が政治を行っていましたが、実際は三郤が専横しています。三郤というのは郤錡、郤犨、郤至を指します。
郤錡は上軍元帥に、郤犨は上軍副将に、郤至は新軍副将になり、郤犨の子・郤毅と郤至の弟・郤乞もそれぞれ大夫として政治に参与していました。
伯宗は正直で敢えて諫言をする人物だったため、しばしば厲公にこう言いました「郤氏は族が大きく勢いが盛んです。賢愚を分けてその権力を抑え、他の功臣の子孫を守るべきです。」
しかし厲公は諫言を聴きませんでした。
三郤は伯宗を深く恨み、逆に伯宗が朝政を誹謗していると讒言しました。
厲公はこれを信じて伯宗を殺してしまいます。伯宗の子・伯州犁は楚に奔りました。
楚は伯州犁を太宰に任命して共に晋に対抗する策を謀るようになりました。
 
晋厲公は元々驕侈な性格で、公宮の内外に多くの嬖倖(寵愛を得た者)がいました。外嬖(寵臣)は胥童、夷羊五、長魚矯、匠麗氏等の少年(若者)で、皆、大夫を拝しています。内嬖の美姫・愛婢は数えきれません。
日々淫楽に耽り、阿諛を好んで直言を嫌い、政事を修めなかったため、群臣の秩序が崩壊しました。
士燮は朝政が日々乱れていくのを見て鄭討伐に反対しましたが、郤至が「鄭を討たなければ諸侯を求めることができません」と言い、欒書も「今日、鄭を失ったら、魯や宋も離心します。温季の言の通りです」と賛成し、楚の降将・苗賁皇も鄭討伐を勧めたため、厲公は出兵に同意しました。荀罃が国を守り、厲公自ら大将・欒書、士燮、郤錡、荀偃、韓厥、郤至、魏錡、欒鍼等を従えて車六百乗を動員します。浩浩蕩蕩(堂々として壮観な様子)とした晋軍が鄭国に殺到しました。
同時に郤犨を魯・衛各国に送って出兵を請いました。
 
鄭成公は晋軍の勢いが盛んだと聞き、城を出て降伏しようとしました。
しかし大夫・姚鉤耳がこう言いました「鄭の地は褊小で、両大国の間にあります。一つの強者を選んで仕えるべきであり、朝は楚に従い暮(夜)は晋に附くという方法は相応しくありません。これでは毎年、兵を受けることになります。」
鄭成公が「それではどうするべきだ?」と問うと、姚鉤耳が言いました「楚に救いを求めるべきです。楚が来たら我々は楚と共に挟撃します。晋兵を大破すれば数年の平安を保つことができます。」
成公は姚鉤耳を楚に派遣して援軍を求めました。
 
楚共王は西門の盟に気兼ねして鄭に兵を送ることを躊躇しました。兵を出せば晋と戦うことになります。そこで令尹・嬰斉に意見を求めると、嬰斉はこう言いました「私は誠に信がないため、晋師を招いてしまいました。更に鄭を守って晋と争ったら、勤民(民に辛苦をもたらして)によって目的を達成させなければならず、しかも勝てるとは限りません。ここは兵を動かさずに待機するべきです。」
ところが公子・側が反対して言いました「鄭人は楚に背くことができないため急を告げてきました。以前は斉を援けず、今回も鄭を援けなかったら、楚に帰順する者の望みを絶つことになります。臣は不才ですが、一旅の兵を起こし、駕(王の車)を守って前進することを願います。再び『掬指の功(邲の戦いの戦功)』を上奏する必要があります(必ず晋を破らなければなりません)。」
喜んだ共王は司馬の公子・側を中軍元帥に任命し、令尹の公子・嬰斉に左軍を、右尹の公子・壬夫に右軍を率いさせることにしました。共王自ら両広の衆を率い、鄭を救うために北に向かいます。
楚軍は一日に百里を行軍し、風のような速さで進みました。
 
早くも晋軍の哨馬が楚の動きを報告しました。
士燮が個人的に欒書に言いました「国君はまだ幼いので国事を知りません。私が楚を畏れて避けようとしているふりをして君心を戒めます。国君が戒懼(懼れて警戒すること)を知れば、わずかでも安全を得ることができるでしょう。」
しかし欒書は「書(私)は恐れて逃げるような悪名を負うつもりはない」と応えました。
士燮は退出すると嘆いて言いました「今回の戦いで敗れれば幸いだ。万一戦勝したら、外が安寧になったことで必ず内憂が生まれる(外寧必有内憂)。私はそうなることを心配している。」
 
この時、楚軍は既に鄢陵を通過していました。晋軍は前進ができず、彭祖岡に駐留します。
両軍がそれぞれ営寨を構えました。
翌日は六月甲午大尽の日で、晦日(月の最期の日)といいます。
晦日には戦を行わないというのが通例だったため、晋軍は警戒をしませんでした。
ところが、五鼓漏尽の時(五更を報せる水時計の水が尽きた時。早朝の意味。五更は午前三時から五時)、空がまだ完全に明るくなっていないうちに、突然、寨外で喚声が響き渡りました。
晋営を守る軍士が慌ただしく報告しました「楚軍が本営に迫っており、陣を構えました!」
欒書が驚いて言いました「敵は既に我が軍を圧して陣を構えた。我が軍は列をなすことができない。兵を交えたら恐らく不利になるだろう。とりあえず営塁を堅守し、慌てずに計を練ってから敵を破ろう。」
諸将の議論が紛糾しました。ある者は精鋭を選んで敵陣を突くことを主張し、ある者は兵を後ろにさげるように勧めます。
この時、士燮の子・士はまだ十六歳でしたが、衆議が決しないと聞いて中軍に飛び入り、欒書にこう進言しました「元帥は戦地(陣を構える場所)がないことを憂いているのですか?これは容易に解決できます。」
欒書が問いました「子(汝)にはどのような計があるのだ?」
が言いました「まず営門を堅く守るように命じ、秘かに寨内で軍士が全ての灶土を平らにします。井戸は木の板で覆います。そうすれば半箇時辰(一時間)もかからずに、陣を構えるのに充分な土地ができます。軍中(寨内)に列を成してから営塁を開いて戦道とすれば、楚は我々に対して打つ手がありません。」
欒書が問いました「井灶は軍中の急務(大切なもの)だ。灶を平らにして井戸を塞いだら、何を食べればいいのだ?」
が言いました「あらかじめ各軍に乾糧と浄水を準備させておけば、一二日は支えることができます。陣が完成してから老弱の者を分けて営の後に井灶を作らせればいいでしょう。」
士燮は戦に反対していたため、自分の子が計を進めたのを見て激怒し、罵って言いました「兵の勝敗は天命にかかっている。汝のような童子が何の知識があってこの場で唇を振るわせ、舌を打っているのだ(揺唇鼓舌)!」
士燮が戈を持って士を追いましたが、諸将が士燮を抱きかかえて止めたため、士はなんとか逃げ延びました。
欒書は笑って「あの童子の智は范孟(士燮。范は食邑)より勝っている」と言うと、士の計に従い、各営寨に命じて乾糧を多めに作らせてから、灶を平らにして井戸を塞ぎました。こうして営内に陣が布かれ、後日の戦いの準備が整えられます。
 
 
 
*『東周列国志』第五十八回その三に続きます。