第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(二)

*今回は『東周列国志』第六十回その二です。
 
話は呉に移ります。
巫臣の子・巫狐庸は晋侯の命を受けて呉に入り、呉王・寿夢に楚討伐の兵を請いました。同意した寿夢は世子・諸樊を将に任命して江口に駐軍させます。
この情報は諜人によってすぐ楚国に伝えられました。
楚の令尹・嬰斉が上奏しました「呉師は今まで楚に至ったことがありません。もし一度でも入境したら、今後もまた攻めて来ることになります。先にこちらから討つべきです。」
共王は同意しました。
嬰斉は舟師を整え、精卒二万人を選び、大江(長江)から下って鳩茲を破りました。そのまま流れに乗って東下しようとします。
驍将・鄧廖が言いました「長江は水が溜まっており、進むのは容易ですが退くのは困難です。小将に一軍を率いて先行させてください。利を得たら進むことにすれば、利を失ったとしても大敗には至りません。元帥が郝山磯に兵を駐留させて臨機応変に変化を観察すれば万全となります。」
嬰斉はこの策に同意し、組甲(甲冑を着た兵。車兵)三百人と練袍(戦袍)を着た者(歩兵)三千人を選びました。全て気が強くて力が大きい、一人で十人に匹敵する勇士です。
砲声が一度響くと大小百艘の舟が船頭を東に向けて進発しました。
 
呉軍では哨船が鳩茲失陥を知って世子・諸樊に報告しました。
諸樊が言いました「鳩茲が既に陥落した。楚兵は必ず勝ちに乗じて東下するだろう。あらかじめ備えを設けるべきだ。」
諸樊は公子・夷昧に舟師数十艘を率いさせ、東西の梁山で楚軍を誘い出すように命じました。また、公子・餘祭に命じて採石港に伏兵を置かせました。
 
郝山磯を越えた鄧廖の兵は梁山を眺めて呉の兵船を見つけました。勇を奮って前進し、呉軍を攻撃します。
夷昧は少し戦っただけで敗れたふりをして東に走りました。鄧廖が追撃して採石磯(採石港)まで来た時、諸樊の大軍に遭遇します。鄧廖は諸樊と交戦しました。しかし十余合にも達さない時に採石港で砲声が轟き、餘祭の伏兵が後ろから挟撃しました。前後から雨のように矢が降り注ぎます。鄧廖は顔に三本の矢が中りましたが、それを抜いて力戦を続けました。
夷昧が乗った艨艟大艦も到着しました。艦上には選び抜かれた精鋭の勇士がそろっており、大槍を持って楚軍の船を乱打します。楚の多くの船が破壊されて沈没しました。
鄧廖は力が尽きて捕えられましたが、屈することなく死にました。
なんとか逃走した者は組甲八十人と練甲を着た者三百人しかいません。
罪を恐れた嬰斉は敗戦を覆して功を立てようとしましたが、呉の世子・諸樊が勝ちに乗じて楚軍を急襲したため、嬰斉は大敗して帰国しました。
鳩茲は再び呉の支配下にはいります。
嬰斉は羞恥と憤怒のため病にかかり、郢都に入る前に死んでしまいました。
 
楚共王は右尹・壬夫を令尹に任命しました。
壬夫は生まれつき貪婪で卑しい人物だったため、属国に賄賂を要求しました。
陳成公はその圧力に耐えられなくなり、轅僑如を晋に送って帰順の意を伝えました。
晋悼公は諸侯を雞沢に集め、更に戚でも諸侯と会します。呉子・寿夢も会に参加して友好を結びました。こうして中国(中原)の勢いが大いに振るうようになります。
楚共王は陳国を失ったことを怒り、罪を壬夫に帰せて殺しました。
共王は弟の公子貞、字は子囊という者を代りに令尹に任命します。
その後、師徒(車兵と歩兵)を閲兵して車五百乗を動員し、陳を討伐しました。
当時、陳成公・午は既に死に、世子・弱が位を継いでいました。これを哀公といいます。
陳哀公は楚の兵威を恐れて再び楚に帰順しました。
 
今度は晋悼公が激怒し、陳を巡って楚と争おうとしました。
その時、無終(国名)の国君・嘉父が大夫・孟楽を晋に派遣し、虎豹の皮百枚を献上してこう上奏しました「山戎の諸国は斉桓公の討征に服してから、平靖を保ってきました。しかし最近、燕と秦が微弱になったため、山戎は中国に伯(覇者)がいない隙を窺い、再び侵掠をほしいままにするようになりました。寡君は晋君が精明で桓文の業(斉桓公と晋文公の覇業)を継承できると聞いたので、晋の威徳を宣揚しました。諸戎は盟を受けることを願っています。寡君は微臣(私)を送ってこれらの事を報告させました。定奪(受け入れの可否)を決してください。」
悼公が諸将を集めて商議すると、皆こう言いました「戎狄には親(親密な感情)がありません。討伐するべきです。かつて斉桓公が伯(覇者)となった時は、先に山戎を定めてから荊楚を討伐しました。豺狼の性とは、兵威でなければ制御できません。」
しかし司馬・魏絳だけは反対してこう言いました「いけません。今は諸侯が集まったばかりであり、大業はまだ定まっていません。もし兵を起こして戎を討伐したら、楚兵が必ず虚に乗じて事を起こします。その結果、諸侯は晋に背いて楚を朝すことになるでしょう。夷狄は禽獣ですが、諸侯は兄弟です。禽獣を得て兄弟を失うのは良策ではありません。」
悼公が問いました「戎と和すべきか?」
魏絳が答えました「戎と和すことには五つの利があります。戎と晋は隣接しており、その地は広大です。彼等は(土地が広いので)(土地)を重要視せず、貨(財貨。物資)を貴い物とみなしています。我々が貨によって土と換えれば、我が国の領地を拡げることができます。これが一つ目の利です。戎による侵掠が止めば辺境の民が安心して田を耕せます。これが二つ目の利です。徳によって遠方を懐柔すれば、兵車を労す必要がありません。これが三つ目の利です。戎狄が晋に仕えれば四隣が震動し、諸侯が畏れて晋に服します。これが四つ目の利です。我が国に北顧の憂がなくなれば、南方に専心することができます。これが五つ目の利です。この五利があるのに、主公は(戎との友好に)同意しないつもりですか。」
悼公は大いに喜び、魏絳を和戎の使者に任命しました。魏絳が孟楽と共に先に無終国に入り、国王・嘉父と修好について協議します。
準備ができると嘉父が山戎諸国に号令を出し、無終国に集めて歃血の儀式を行いました。盟を定めて「晋侯が伯を継ぎ、中華の盟主になったので、諸戎は晋の約束(指示)を奉じ、北方の守りとなり、不侵不叛によってそれぞれ国土の安寧を保つことを願う。もし盟に逆らったら、天地の佑(助け)がなくなる」と誓いました。
諸戎は盟を受けて喜び、土宜(各地の特産品)を魏絳に献上しましたが、魏絳は全て辞退しました。
諸戎は互いに「上国の使臣はこのように廉潔だ」と言って称賛し、魏絳を一層尊敬しました。
魏絳が盟約の内容を悼公に報告すると、悼公は満足して喜びました。
 
 
楚の令尹となった公子・貞は陳国を得てから兵を移して鄭を攻めました。
虎牢は重兵で守られているため、楚軍は汜水の路を通らず、許国から潁水に沿って進攻しました。
鄭僖公・髠頑が恐れて六卿を集めました。六卿というのは、まず公子・騑(字は子駟)、公子・発(字は子国)、公子・嘉(字は子孔)がおり、この三人は穆公の子なので、僖公の叔祖輩(父の叔父の世代)にあたります。四人目は公孫輒(字は子耳)といい、公子・去疾の子です。五人目は公孫蠆(字は子蟜)といい、公子・偃の子です。六人目は公孫舍(字は子展)といい、公子・喜の子です。この三人は穆公の孫にあたり、父の爵位を継いで卿になりました。僖公の叔輩(叔父の世代)になります。
六卿は僖公より上の世代の重臣で、鄭の政治を行っていました。
しかし僖公は心高気傲(心が天のように高く驕慢であること)だったため、六卿に礼を加えませんでした。君臣の間には溝ができています。特に上卿の公子・騑はしばしば僖公と対立していました。
会議が始まると、僖公は守りを堅めて晋の援軍を待つべきだと主張しました。
しかし公子・騑が反対して言いました「『遠い水は近い火を消すことができない(遠水豈能救近火)』という諺があります。楚に従うべきです。」
僖公が言いました「楚に従ったら今度は晋師が来る。どうやって対抗するのだ?」
公子・騑が言いました「晋と楚のどちらが我が国をより想っているのでしょうか(どちらも同じです)。我が国は二国のうちどちらかを選えばいいのでしょうか。強者に仕えればいいのです。今後は犧牲・玉帛をもって境外で待機し、楚が来たら楚と盟を結び、晋が来たら晋と盟を結ぶようにすれば、両雄が互いに争って必ず大きな挫折が生じるはずです。強弱が明らかになってから、強者を選んで民を守ればいいでしょう。」
僖公はこの計に反対してこう言いました「駟(汝)の言に従ったら、鄭は朝も夕も盟を待たなければならず、安寧の年がなくなってしまう。」
僖公は援軍を求める使者を晋に送ろうとします。しかし諸大夫は公子・騑に逆らうことを恐れたため、誰も使者になろうとしませんでした。
憤慨した僖公は自ら晋に向かうことにしました。
しかしその夜、僖公が駅舎に泊まると、公子・騑が門客を隠して刺殺させました。僖公は暴疾(突然死)と発表されます。
僖公の弟・嘉が立てられました。これを簡公といいます。
簡公は楚に使者を送ってこう伝えました「晋に従おうとしたのは全て髠頑(僖公)の意志です。髠頑は既に死んだので、盟を聞いて兵を解くことを願います。」
楚の公子・貞は鄭との盟を受け入れて兵を還しました。
 
晋悼公は鄭が再び楚に従ったと聞き、諸大夫に問いました「陳と鄭が共に叛した。どちらを先に討伐するべきだ?」
荀罃が言いました「陳は国が小さく地が偏っているので、成敗の数(帰趨。影響)に対しては無益です。鄭は中国(中原)の中枢にあり、かねてから伯(覇業)を図っているので、まずは鄭を服させるべきです(原文「自来図伯先必服鄭」。当時の鄭は覇業を図る力がないので、あるいは「晋が覇業を図るなら当然、先に鄭を服させるべき」という意味)。十の陳を失ったとしても、一つの鄭を失ってはなりません。」
韓厥が言いました「子羽(荀罃の字)は識見明決(見識が豊かで道理に通じ、決断力もあること)なので、鄭を平定できるのは彼しかいません。臣は老いて力も智も衰えたので、中軍の斧鉞を彼に譲りたいと思います。」
悼公は拒否しましたが、韓厥が頑なに請願したため、ついに同意しました。
韓厥は告老致政し、荀罃が代わりに中軍元帥として大軍を率いることになります。
 
 
 
*『東周列国志』第六十回その三に続きます。