第六十回 智武子が敵を侵し、逼陽城で三将が力を争う(三)

*今回は『東周列国志』第六十回その三です。
 
晋軍が虎牢まで来ると鄭人が盟を請いに来たため、荀罃は同意しました。
ところが晋軍が引き上げると楚共王が自ら鄭を討伐したため、鄭は再び楚と和を結びました。楚軍も引き上げます。
 
悼公が激怒して諸大夫に問いました「鄭人が反覆しており、兵が至ったら従い、兵を引いたらまた叛している。鄭の堅附(確実な服従を得たいと思うが、何か策はないか?」
荀罃が計を献じて言いました「晋が鄭を収めることができないのは、楚人に鄭を争う力があるからです。鄭を服従させたいのなら、まず楚を疲弊させるべきです。楚を疲弊させるには、『安逸によって相手の疲労を待つ(以逸待労)』という策を用いるべきです。」
悼公が詳しく聞くと、荀罃が言いました「兵は頻繁に動かすべきではありません。頻繁に動かしたら疲労してしまうからです。諸侯には頻繁に勤(労役)を要求してはなりません。頻繁に勤を要求したら怨を招くからです。内は疲労して外では怨を招いているのに、そのような状態で楚を防ごうとしても、勝算を見出すことはできません。そこで、四軍の衆を三つに分け、各国にも兵を分派させて共に行動するように命じてください。いつも一軍だけを用いて順番に出撃します。楚が進んだら我々は退き、楚が退いたら我々が再び進み、我々が一軍だけを使って楚の全軍を牽制すれば、敵は決戦を求めても戦えず、休息を求めても休めず、我が軍は暴骨(骨を曝すこと。戦争)の凶を招くことなく、敵は道塗(往復。頻繁な出征)の苦を味わうことになります。我々はすぐに兵を進めることができますが、敵がすぐこちらに来ることはできません。こうすれば楚を疲労させて鄭を固めることができます。」
悼公は「この計は素晴らしい(此計甚善)」と言って賛成し、荀罃に曲梁で兵を編成させました。四軍を三分して出陣の順番を決めます。
 
荀罃が壇に登って令を出しました。壇上には杏黄色の大旆が立ち、「中軍元帥智」と書かれています。
荀罃は本来、荀氏ですが、荀罃と荀偃の叔姪(叔父と甥)が同時に大将になったため、軍中に同じ姓が存在して区別がつかなくなりました。そこで荀罃は父の荀首が智を食邑にしていたことから智氏を名乗り、荀偃は父の荀庚がかつて(晋が三行を編成した時)中行将軍を勤めたことから中行氏を名乗りました。荀罃が智罃と号し、荀偃が中行偃と号してからは、軍中の耳目が混乱しなくなりました。これは荀罃が決めたことです。
 
壇の下に三軍が分かれて並びました。
第一軍は上軍元帥・荀偃と副将・韓起が率い、魯、曹、邾三国の兵が従い、中軍の副将・范が後援になります。
第二軍は下軍元帥・欒黶と副将・士魴が率い、斉、滕、薛三国の兵が従い、中軍の上大夫・魏頡が後援になります。
第三軍は新軍元帥・趙武と副将・魏相が率い、宋、衛、三国の兵が従い、中軍の下大夫・荀会が後援になります。
荀罃が軍令を伝え、第一次は上軍、第二次は下軍、第三次は新軍が出征することになりました。中軍の将兵はそれぞれの後援として分配され、第一次から第三次まで出陣したら第一次に戻ります。盟約を得て帰ったら功を立てたこととし、楚兵との交戦は禁止しました。
 
晋の公子・楊干は悼公の同母弟で、まだ十九歳でした。中軍の戎御(兵車の御者)の職に任命されたばかりで血気が盛んでしたが、戦陣に臨んだことがありません。今回、兵を整えて鄭を討つと聞き、拳を磨いて手を擦り(「磨拳擦掌」。戦闘の前に気持ちを奮い立たせる様子)、自分で一隊を担当してすぐにでも戦いに参加したいと思っていました。智罃から声がかからなかったものの、心中の鋭気を抑えることはできません。そこで自ら先鋒になることを請い、死力を尽くしたいと訴えました。
しかし智罃はこう言いました「今日軍を分けた計は速く進んで速く退くだけなので、戦勝を功績とするものではありません。分配は既に定まりました。小将軍は勇猛ですが、用いる場所がありません。」
楊干はそれでも頑なに出陣を請います。
そこで荀罃はこう言いました「小将軍が頑なに請うのなら、とりあえず荀大夫の部下として新軍を援けてください。」
楊干が言いました「新軍は第三次の出征に参加します。それまで待てません。第一軍の部下に入れてください。」
智罃は同意しませんでした。
ところが楊干は晋侯の実の弟という立場を盾にし、本部(自分)の車卒を率いて自ら一隊を形成しました。中軍副将・范の後ろに入ります。
司馬・魏絳が将令を奉じて行伍(隊伍。軍列)を整えている時、楊干が秩序を無視して隊列に参加しているのを見つけました。魏絳はすぐに鼓を敲いて将兵に宣言しました「楊干が故意に将令に背き、行伍の秩序を乱した。軍法を論じるなら斬首に値する。しかし晋侯の親弟(実の弟)という立場に念じ、僕御(御者)を代わりに戮(処刑)して軍政を粛正する。」
魏絳は軍校に命じて楊干の御者を捕えさせ、処刑して首を壇下に掲げました。軍中が粛然とします。
 
楊干は元々尊貴な身分を驕って勝手な振る舞いをしており、軍法も無視していました。今回、御人が殺されたため、魂が体から抜けたかのように驚きます。しかし十の恐れの中に三分の羞恥と三分の苦悩を抱きました。すぐに車を駆けて軍営を出ると晋悼公の前に走ります。
楊干は地を拝して号泣し、「魏絳に侮辱されたため諸将に会わせる顔がない」と訴えました。
悼公は弟を愛していたため、詳細を調べることなく激怒し、「魏絳が寡人の弟を辱めた。これは寡人を辱めたのと同じだ!魏絳を殺さなければならない!赦すわけにはいかない!」と言いました。
中軍尉副・羊舌職を召して魏絳を捕えるように命じます。
しかし羊舌職は入宮すると悼公にこう言いました「絳は志節の士なので、事があれば難を避けず、罪があれば刑を避けません。軍の事が全て終わったら自ら謝罪に来るでしょう。臣が行く必要はありません。」
果たして、暫くすると魏絳が来ました。右手に剣、左手に書信を持って刑を受けるために入朝します。午門まで来た時、悼公が自分を捕えようとしていると聞き、書信を僕人に渡して上奏させました。魏絳自身は剣に伏して死のうとします。そこに二人の官員が息を乱して駆けつけました。下軍副将・士魴と主候大夫・張老です。魏絳が自刎しようとしているのを見て、急いで剣を奪って言いました「某等(私達)は司馬が入朝したと聞いて楊公子の事だと思い、共に主公に説明するために急いで駆けつけました。司馬はなぜこのように生を軽んじるのですか。」
魏絳は晋侯が羊舌大夫を招いて自分を捕えようとしていることを話しました。
二人が言いました「これは国家の公事であり、司馬は法を奉じて無私でいます。なぜ自ら身を損なうのですか。僕人に上書させる必要はありません。某等が代わりに啓奏(国君に報告すること)しましょう。」
三人は共に宮門に至り、士魴と張老が先に入って悼公に謁見を請いました。魏絳の書が悼公に献上されます。
悼公が開いて読むとこう書かれていました「主公は臣を不肖とみなさず、中軍司馬の乏(無能。任務の意味。謙遜した言い方)を受けさせました。『三軍の命は元帥に繋がっており、元帥の権威は命令にかかっている(三軍之命,繫於元帥。元帥之権,在乎命令)』といいます。令があるのに遵守せず、命があるのに用いなかったから、河曲で功を立てることができず、邲城で敗北を招いたのです。臣は命を用いない者を戮し、司馬の職責を尽くしました。しかし臣は介弟(介弟は弟に敬意をこめた言い方)を侵犯してしまったことを知っており、その罪は万死に値します。主公の傍で剣に伏し、君侯の親親の誼(親族と親しむ情)を明らかにさせてください。」
読み終えた悼公が急いで士魴と張老に問いました「魏絳はどこだ?」
士魴等が答えました「魏絳は罪を恐れて自殺しようとしたので、臣等が尽力して止めました。今は宮門で罪(刑)を待っています。」
悼公は即座に立ち上がり、履物も履かず裸足のまま宮門を出ると、魏絳の手を取って言いました「寡人の言は兄弟の情によるものだ。子(汝)の行いは軍旅の事だ。寡人は自分の弟を教え戒めることができず、軍刑を犯させてしまった。過ちは寡人にある。卿の罪ではない。卿は速やかに職に戻れ。」
傍にいた羊舌職が大きな声で言いました「国君は既に魏絳を赦して無罪とした。絳は速やかに戻れ!」
魏絳は叩頭して命を助けられた恩に感謝しました。
羊舌職と土魴、張老も共に稽首し、祝賀して言いました「国君にはこのように法を奉じる臣がいます。伯業(覇業)が成就しないことを心配する必要はありません。」
四人は悼公に礼をして共に朝廷を出ました。
公宮に戻った悼公は楊干を叱って言いました「汝は礼法を知らず、危うく寡人に過ちを犯させ、我が愛将を殺すところだった!」
悼公は内侍に命じて楊干を公族大夫・韓無忌がいる場所に連れて行かせ、三カ月間、礼を学んでから再会を許すことにしました。楊干は恥を忍んで鬱鬱とした面持ちで去りました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十回その四に続きます。