第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(三)

*今回は『東周列国志』第六十一回その三です。
 
翌年は周霊王十一年です。
呉子寿夢が重い病にかかったため、四子を招きました。諸樊、餘祭、夷昧、季札が床の前に集まります。
寿夢が言いました「汝等兄弟四人の中で、札に最も賢才がある。もし札が即位したら呉国を隆盛させるだろう。わしは今まで札を世子に立てたいと思ってきたが、札は固く辞退して同意しなかった。わしが死んだ後は、諸樊は餘祭に位を伝え、餘祭は夷昧に、夷昧は季札に伝えよ。位は弟に伝えて(寿夢の)孫には伝えるな。必ず季札を国君にしなければならない。これが社稷の幸となる。わしの命を違えたら不孝とみなされ、上天の祐(助け)を得られなくなる。」
寿夢は言い終わると死んでしまいました。
諸樊が季札に国を譲って「これは父の意志だ」と言いました。
しかし季札はこう言いました「父が生きている間、弟(私)は世子の位を辞退しました。父が死んでから君位を受けることができると思いますか。兄がもしまた譲ろうとしたら、弟は他国に逃げます。」
諸樊はやむなくあきらめ、国君を弟に伝える約束を宣言してから父命によって即位しました。
晋悼公が寿夢の弔問と諸樊の即位を祝賀する使者を送りました。
 
 
その翌年は周霊王十二年です。
晋将智罃、士魴、魏相が相次いで死にました。
悼公は綿山で軍を正し、士を中軍の将に任命しようとしました。しかし士が「伯游(荀偃の字)が長(年長)です」と言って辞退したため、中行荀偃に智罃の任を継がせて士を副にしました。
また、韓起を上軍の将にしようとしましたが、韓起が「臣は趙武の賢に及びません」と言ったため、趙武に荀偃の任を継がせて韓起を副にしました。
欒黶は下軍の将のままで、魏絳が副になります。
新軍の帥がいなくなったため(元は趙武と魏絳です)、悼公が言いました「虚位空位を置いて人を待つことはあっても、能力がない人を妄りに位に就けるわけにはいかない(寧可虛位以待人,不可以人而濫位)。」
新軍は将佐とも任命せず、新軍の軍吏に官属卒乗(兵と車)を率いて下軍に附属させました。
諸大夫は「国君は名器(名分と事物)に対してこのように慎重だ」と言ってそれぞれの職に励み、怠ることがなくなりました。
こうして晋国が大いに治まり、文公襄公の業を復興させました。
後に新軍を廃して三軍に編入し、侯国の礼(軍制)を守ることにしました。
 
 
この年秋九月、楚共王審が死んで世子昭が即位しました。これを康王といいます。
 
楚の喪に乗じて呉王諸樊が大将の公子党に楚を攻撃させました。
しかし楚将養繇基が迎撃して公子党を射殺したため、呉軍は敗退します。
諸樊は晋に敗戦の報告をしました。
 
悼公が向(地名)に諸侯を集めて楚討伐を謀ろうとしましたが、晋の大夫羊舌肹が反対して言いました「呉は楚の喪を攻撃し、自ら敗戦を招いたのです。同情する必要はありません。これに対して秦は晋の鄰国で、代々婚姻関係にあったのに、最近、楚に附いて鄭を援け、櫟で我が師を破りました。まずこれに報いるべきです。もし秦を討伐して功があれば、楚の勢力はますます孤立します。」
納得した悼公は荀偃に三軍の兵を率いさせ、魯、宋、斉、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾十二国の大夫と共に秦を討伐させました。
晋悼公は国境で待機します。
 
秦景公は晋軍が攻めて来たと知り、人を送って数囊(数袋)の毒薬を涇水の上流に沈めさせました。
魯の大夫叔孫豹が莒軍と一緒に率先して川を渡りましたが、水を飲んだ軍士が毒に中り、多くの死者を出したため、各軍は川を渡ろうとしなくなりました。
鄭の大夫である公子蟜が衛の大夫北宮括に言いました「既に人に従っているのに(晋に従って出兵したのに)傍観して動かないつもりですか?」
公子蟜が鄭軍を率いて涇水を渡り始めると、北宮括も後に続きました。それを見た諸侯も進軍して棫林に陣営を構えます。
間諜が報告しました「秦軍は遠くない場所にいます。」
荀偃が各軍に命令を出しました「雞(鶏)が鳴いた時に出発する。わしの馬首が向いている方向を見て進め!」
下軍元帥欒黶は以前から中行偃の指揮に不服だったため、この命令を聞くと怒って言いました「軍旅の事は集まって皆で謀るべきだ。たとえ偃(中行偃)が独断で命令を出すとしても、進退を明らかに示さなければならない。三軍の衆に馬首を視させるという命令があるか。私も下軍の帥だ。私の馬首は東を欲している。」
欒黶は自分の兵を率いて東に帰ってしまいました。
副将魏絳も「私の職責は帥に従うことだ。中行伯を待っているわけにはいかない」と言って欒黶に従います。
この報告を受けた中行偃は「命令を出したのに明確でなかったのは確かに私の過失だ。既に命令が実行できなくなったのだ。成功を望むこともできない」と言って諸侯の兵をそれぞれの国に還らせ、晋軍も引き上げました。
ところが、下軍戎右を勤めていた欒鍼だけは撤兵に同意せず、范の子范鞅にこう言いました「今日の役は秦に報復することが目的でした。功も立てずに還ったらますます恥となります。私は兄弟二人とも軍中にいます。二人とも一緒に帰るわけにはいきません。子(あなた)は私と共に秦師に赴くことができますか?」
范鞅は「子(あなた)が国恥を想うのなら、鞅(私)が従わないわけにはいきません」と答えました。
二人はそれぞれ自分の兵を率いて秦の陣営に駆けていきます。
 
秦景公は大将嬴詹と公子無地を従え、車四百乗を率いて棫林から五十里の場所に営を構えていました。そこで人を送って晋軍の様子を探ります。
すると突然、東方で砂塵が舞い、一隊の車馬が駆けてきました。景公は急いで公子無地に迎撃させます。
欒鍼が勇を奮って前に進み、范鞅がそれを援け、立て続けに甲将十余人を刺殺しました。秦軍は混乱して逃走しようとしましたが、晋軍に後続部隊がないと知り、再び戦鼓を鳴らして兵を集め、晋軍を包囲しました。
范鞅が言いました「秦兵は勢いがあるので敵いません!」
しかし欒鍼は無視します。
嬴詹の大軍が到着してからも欒鍼は戦い続けて自ら数人を殺しましたが、七本の矢が中って力尽きました。
范鞅は甲冑を脱ぎ捨てて単車に乗り換え、疾馳して何とか脱出します。
 
欒黶は范鞅が一人で帰ってきたため、「弟はどこだ?」と問いました。
范鞅は「既に秦軍の中で没しました」と答えます。
欒黶は激怒して戈をつかみ、范鞅を刺そうとしました。范鞅は争いを避けて中軍に走ります。欒黶が更に後を追ったため、范鞅は逃げて隠れました。
范鞅の父が欒黶を迎えて問いました「賢婿はなぜそのように怒っているのだ?」
欒黶の妻欒祁は范の娘だったため、范欒黶を婿とよんでいます。
怒りが収まらない欒黶は我慢ができず、大声でこう言いました「汝の子が私の弟を誘って秦師に入ったため、私の弟は戦死した。しかし汝の子は生きて還ってきた。汝の子がわしの弟を殺したのと同じだ!汝が鞅を追放すれば赦してやるが、それが嫌ならわしが必ず鞅を殺し、弟の命を償わせよう!」
が言いました「老夫(私)は知らなかった。すぐに彼を追放しよう。」
これを聞いていた范鞅は幕の後ろから逃げて秦国に奔りました。
 
秦景公が范鞅になぜ逃げて来たのか問い、范鞅が詳しく事情を説明しました。景公は喜んで客卿の礼で遇します。
ある日、景公が范鞅に問いました「晋君とはどのような人物だ?」
范鞅が答えました「賢君です。人を知り、善く任せることができます。」
景公が問いました「晋の大夫で誰が最も賢人だ?」
范鞅が答えました「趙武には文徳があり、魏絳は勇があっても乱を招かず、羊舌肹は『春秋史書』に習熟しており、張老は信が篤く智があり、祁午は事に臨んでも鎮定(冷静沈着)です。臣の父も大局を知ることができます。彼等は全て一時の選(一時代の選び抜かれた者)です。その他の公卿も皆、令典(法令典章)を習い、その官を守ることができます。鞅(私)が軽々しく評価できることではありません。」
景公が問いました「それでは、晋の大夫の中で最初に亡ぶのは誰だ?」
范鞅が答えました「欒氏が先に亡ぶでしょう。」
景公が問いました「それは汰侈(驕慢奢侈)だからではないか?」
范鞅が言いました「欒黶は汰侈ですが、その身には(禍が)及びません。その子の盈が(禍から)逃れられないはずです。」
景公が理由を問うと、范鞅が言いました「欒武子(欒書)は民を慈しんで士を愛していたため、人心が帰していました。だから弑君の悪があっても国中がそれを非とせず、その徳を尊崇したのです。召公西周時代の賢臣)を想う者はその愛を甘棠にまで及ぼしたといいます西周時代、召公は人々から愛されていました。召公はよく甘棠の木の下にいたため、召公の死後、人々は甘棠の木を大切にして『甘棠』という詩を作りました)。子に対してならなおさらでしょう。しかし黶が死んだら、盈の善はまだ人に及んでおらず、武(武子)の徳は既に遠いものになっているので、盈の時になって黶に対する怨みが報いられることになります。」
景公が感嘆して言いました「卿は存亡の道理を理解している。」
景公は范鞅を通して范と連絡を取り、庶長武に晋を聘問させて旧好を修めました。併せて范鞅の復位を晋に要求します。
晋悼公が同意したため、范鞅は晋に帰りました。
悼公は范鞅と欒盈を共に公族大夫にし、欒黶には報復しないように諭しました。
この後、秦と晋が通和し、春秋の世が終わるまで兵を交えることがなくなります。
 
同年、欒黶が死んで子の欒盈が下軍副将になりました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十一回その四に続きます。