第六十一回 晋悼公が蕭魚で会し、孫林父が献公を逐う(四)

*今回は『東周列国志』第六十一回その四です。
 
話は衛に移ります。
衛献公は名を衎といい、周簡王十年に父定公に代わって即位しました。
献公は父の喪に服している間も哀しみを見せなかったため、嫡母の定姜が献公は位を失うことになる予想し、しばしば戒めました。しかし献公は諫言を聴かず、即位してからもますます放縱になりました。献公が親しくしたのは讒諂面諛の人(讒言や阿諛追従を得意とする者)ばかりで、好んだのは鼓楽田猟の事(音楽や狩猟。娯楽)ばかりでした。
 
定公が存命だった頃、同母弟の公子黒肩が寵愛を受けて専政していました。
黒肩には公孫剽という子がおり、父の爵位を次いで大夫になりました。公孫剽は権略豊富な優れた人物です。
上卿孫林父と亜卿寧殖は献公の無道を見て公孫剽と交わるようになりました。
孫林父は秘かに晋国とも結んで外援とし、国内の器幣宝貨を全て戚(孫氏の食邑)に遷し出しました。妻子も戚に住ませます。
献公は孫林父の叛心を疑いましたが、その形跡が明らかではなく、また孫氏が強家だったため、我慢して行動を控えました。
 
ある日、献公が孫林父と寧殖の二卿を午食(昼食)に招きました。
二卿は朝服を着て宮門の前で献公の命を待ちます。しかし朝から午(正午)になっても献公の招きはなく、宮中からも誰も出てきません。二卿は疑い始めました。
日が傾いてきた頃、二卿は空腹が我慢できなくなり、ついに宮門を叩いて謁見を請いました。すると閽(宮門)を守る内侍がこう言いました「主公は後圃で演射(矢の練習)をしています。大夫が謁見したいのなら、御自分で会いに行ってください。」
孫林父と寧殖は心中で立腹し、飢えを忍んで後圃に行きました。遠くで献公が皮冠を被り、射師公孫丁と射術の腕を競っています。
二人を見た献公は皮冠を脱がず、弓を臂(腕)に懸けて問いました「二卿が今日来たのは何のためだ?」
二人が声をそろえて言いました「主公が午食を共にすると約束されたので、臣等は腹を空かせて今まで待っていました。君命に違えることを恐れたので、ここに来たのです。」
献公が言いました「寡人は射術に夢中になっていたため忘れてしまった。二卿はとりあえず還れ。日を改めて再び約束しよう。」
言い終わった時、ちょうど鴻雁が鳴きながら飛び去って行きました。献公が公孫丁に言いました「汝とあの鴻を賭けよう。」
孫林父と寧殖は辱められたことを恨んで退きました。
 
孫林父が言いました「主公は遊戯に耽って小人の群れと慣れ合っており、大臣を敬って礼を用いようという意志が全くない。我々は近々禍から逃れられなくなるだろう。どうするべきだ?」
寧殖が言いました「国君の無道は国君自身の禍となるだけです。人に禍をもたらすことはできません。」
孫林父が言いました「わしは公子剽を国君に奉戴したいと思うが、子(汝)の意見は如何だ?」
寧殖が言いました「それこそ正しい選択です。お互いに機会を待って動きましょう。」
二人は謀反を約束をしてそれぞれ帰りました。
 
家に戻った孫林父は食事をしてから夜を通して戚邑に向かいました。秘かに家臣の庾公差、尹公佗等を招き、家甲を整理させて謀叛の準備をします。
同時に長子孫蒯を献公に謁見させて様子を探りました。
孫蒯は衛に入って内朝で献公に謁見し、偽ってこう言いました「臣の父林父は風疾(病)にかかってしまいました。暫く河上で養生することをお許しください。」
献公が笑って言いました「汝の父の疾(病)は餓え過ぎたから招いたのであろう。寡人はその子まで餓えさせるわけにはいかない。」
献公は内侍に命じて酒を運ばせ、孫蒯をもてなします。また、楽工(楽人)に詩を歌わせて酒宴の余興にしました。
太師が問いました「何の詩を歌いますか?」
献公が言いました「『巧言』の卒章(末章)は時事に合っている。なぜ歌わぬのだ。」
太師が言いました「この詩は語意が不佳(美しくない)なので、恐らく歓宴では相応しくありません。」
しかし師曹が怒鳴って言いました「主公が歌えと言ったら歌えばよい。多言は必要ない!」
師曹は琴が得意だったため、かつて献公が嬖妾(寵愛する妾)に琴を学ばせたことがありました。しかし嬖妾が教えに従わなかったため、師曹は鞭で十回打ちました。妾は泣いて献公に訴えます。献公は嬖妾の前で師曹を三百回鞭打ちました。
師曹はこの事を恨んでいたため、詩の内容が相応しくないと知りながらわざと歌って孫蒯の怒りを誘うことにしました。師曹が長い声でゆっくり歌いました「彼は何者だ。黄河の辺に住んでいる。拳も勇もないのに、乱の根源になっている(彼何人斯,居河之麋。無拳無勇,職為乱階)。」
 
孫林父は河上に住んでおり、叛乱の形跡も見えるため、献公は歌を借りて孫氏を威嚇しようとしました。
孫蒯は歌を聞いて不安になり、すぐに別れを告げます。
献公が言いました「先ほど師曹が歌った内容を子(汝)は汝の父に述べよ。汝の父は河上にいるが、寡人はその動息(消息)を知っている。注意して慎重に病体を休めよ。」
孫蒯は叩頭して「滅相もございません(不敢)」と何回も繰り返し、退席しました。
 
孫蒯が戚に帰って孫林父に話すと、孫林父はこう言いました「主公はわしをそれほどまで嫌っているのか!座して死を待つわけにはいかない。大夫蘧伯玉(蘧瑗)は衛の賢者だ。彼と事を共にできれば成功しないはずがない。」
孫林父は秘かに衛に入って蘧瑗に会い、こう言いました「主公の暴虐は子(あなた)も知っているはずだ。恐らく亡国の事を招く。どうするべきだろうか?」
蘧瑗が言いました「人臣が国君に仕えたら、諫言できるようなら諫言し、諫言できないようなら去るものです。他の事は、瑗(私)にはわかりません。」
孫林父は蘧瑗を動かすことができないと判断し、別れを告げて去りました。
蘧瑗はその日のうちに魯国に逃げました。
 
孫林父が邱宮に徒衆を集めて献公を攻撃しようとしました。
それを知った献公は恐れて邱宮に使者を送り、孫林父に講和を請います。しかし孫林父は使者を殺してしまいました。
献公が人を送って寧殖の様子を覗わせると、寧殖も既に車を準備して孫林父に呼応しようとしています。
そこで献公は北宮括を召しましたが、北宮括は病と称して出てきませんでした。
公孫丁が献公に言いました「事は急を要します。速やかに出奔すれば復帰を求めることもできるでしょう。」
献公は宮甲約二百余人を集めて一隊を組織し、公孫丁が弓矢を持ってそれに従いました。東門を開いて脱出し、斉国に出奔しようとします。
しかし孫蒯と孫嘉の兄弟二人が兵を率いて追撃し、河沢で追いついて交戦しました。二百余人の宮甲は全て逃げ散り、わずか十数人だけが残ります。幸い、公孫丁が射術を得意としており、放った矢は必ず命中したため、近づいた者を全て矢で射殺し、献公を守って戦いながら逃げることができました。
孫蒯と孫嘉は急追を避けて引き返します。
 
帰路について三里も進まないところで庾公差と尹公佗の二将が兵を率いて向かって来ました。
二将が言いました「相国の命を奉じており、必ず衛侯を討ち取って報告しなければならない。」
孫蒯と孫嘉が言いました「射術を得意とする者が一人従っている。将軍は慎重に自分を守れ。」
庾公差が「それは私が師公孫丁ではないか」と言いました。
尹公佗は庾公差に矢を習い、庾公差は公孫丁に習っていたため、三人の伝授は一線に並んでおり、それぞれの能力をよく知っていました。
尹公佗が言いました「衛侯は遠くまで進んでいないはずだ。とりあえず追ってみよう。」
 
庾公差と尹公佗の二将は十五里ほど駆けた所で献公を見つけました。御者が負傷したため公孫丁が車上で轡を握っています。
公孫丁は振り返って遠くに庾公差の姿を見つけると、こう言いました「向かってくるのは臣の弟子です。弟子が師を害すことはありません。主公は心配いりません。」
公孫丁は車を止めて待ちました。
 
庾公差は献公に追いつくと尹公佗に「本当に私の師だ」と言い、車を降りて拝礼しました。
公孫丁が手を挙げて答礼し、去るように指示します。
庾公差は車に乗ってからこう言いました「今日の事はそれぞれに主がいる。私が矢を射たら師に背くことになり、射なかったら主に背くことになる。私は両方の道を尽くそう。」
庾公差は矢を抜き取ると車輪を叩いて鏃を落とし、大きな声で「我が師よ、驚かないでください」と言ってから四発の矢を放ちました。前は軾(車の前の横木)に、後ろは軫(車を囲む木。ここでは車の後ろの部分)に、左右は車の両側に中りましたが、君臣二人には中りません。本事(実力)を示しながらも個人的な情を送りました。
射終った庾公差は「師傅、お気を付けください(保重)!」と叫ぶと一喝して車を引き還らせました。
公孫丁も轡を引いて去ります。
 
尹公佗は献公に遭遇した時、自分の弓の腕を揮いたいと思いましたが、庾公差が業師(師匠)だったため勝手なことができず引き下がりました。しかし途中で後悔し始め、庾公差にこう言いました「子(あなた)は師弟の分があったので情を用いましたが、弟子(私)は一層の隔たりがあります。師恩は軽く、主命が重くなります。功が無いのに帰ったら、どうやって我が恩主に復命できるでしょう?」
庾公差が言いました「我が師の神箭は養繇基にも劣らない。汝が敵う相手ではない。無意味に性命を送りに行くな。」
しかし尹公佗は庾公差の言を信じず、すぐに向きを変えて衛侯を追いました。
 
この結末はどうなるか。続きは次回です。

第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(前篇)