第六十六回 甯喜を殺して子鱄が出奔し、崔杼を戮して慶封が相になる(中篇)

*今回は『東周列国志』第六十六回中編です。
 
周霊王二十六年、寧喜が春宴の準備をしました。
それを知って公孫無地が公孫免餘に言いました「寧氏が春宴を開こうとしています。備えがないはずなので、まず、私に先行させて、子(あなた)が後に続いてください。」
公孫免餘が「卜をしないのか?」と問うと、公孫無地が言いました「事は必ず行わなければなりません。なぜ卜が必要なのですか。」
公孫無地と公孫臣は家衆を全て集めて寧氏を攻めました。
 
寧氏の門の内側には伏機が設けてありました。伏機というのは地面を掘って深い穴を作り、その上を木板で覆い、傍に木の機関(仕掛け)をつけたものです。機関に触れたら下から動力が発し、板が開いて上の人が落ちる仕組みになっています。昼は機関が外され、夜になると置くことになっていました。
しかしこの日は春宴を開いており、家属が堂内で観優(雑技や演劇を観ること)しているため、門を守る者がいません。そこで昼の間から機関を置いて巡警の代わりにしました。
それを知らない公孫無地は、門を入るとすぐに機関に触れてしまい、穴の中に転落しました。
寧氏の人々が驚いて賊を捕まえるために集まり、公孫無地を捕縛します。
公孫臣が戈を奮って助けに来ましたが、寧氏の人が多いため、逆に敗れて殺されました。
 
寧喜が公孫無地に問いました「子(汝)がここに来たのは、誰に命じられたからだ?」
公孫無地は目を大きく開くと罵って言いました「汝は功に頼って専横しており、臣でありながら不忠である!よって我々兄弟が社稷のために汝を誅殺しに来たのだ!事が成らなかったのは命(天命)だ!誰かに命じられたのではない!」
寧喜は怒って公孫無地を庭の柱に縛りつけ、鞭で殴り続けて殺してから首を斬りました。
 
右宰穀は寧喜が賊を捕えたと聞き、夜の間に車を駆けて状況を確認に来ました。
寧氏が門を開いた時、公孫免餘も兵を率いて到着し、そのまま門に入ります。右宰穀は門で殺されました。
寧氏の堂内が大混乱に陥りました。寧喜が驚き慌てて問いました「賊となったのは誰だ?」
公孫免餘が答えました「国中の人がここにいる。敢えて姓名を問うのか!」
寧喜は恐れて逃走しましたが、公孫免餘が剣を奪って追いかけ、堂の柱の周りを三周して斬りつけました。寧喜は二回剣を浴びて柱の下で死にます。
公孫免餘は寧氏の家属を滅ぼして帰還し、献公に報告しました。
献公は寧喜と右宰穀の死体を回収して朝廷に曝しました。
 
異変を聞いた公子鱄は裸足で入朝し、寧喜の死体を撫でて哀哭しながら言いました「国君が信を失ったのではない。私が子(あなた)を騙してしまったのだ。子が死んだのに、私に何の面目があって衛の朝廷に立てるだろう。」
公子鱄は天に向かって三回長く号哭すると、小走りで退出し、牛車に妻子を乗せて晋国に奔りました。
献公が人を送って呼び戻そうとしましたが、公子鱄は従いません。
 
公子鱄が河上まで来た時、献公が再び大夫斉悪を送って来ました。斉悪は衛侯の気持ちを伝えて公子鱄を還らせようとします。しかし子鱄はこう言いました「私を衛に還らせるなら、寧喜を生き返らせなければならない。」
それでも斉悪は頑なに帰国を促します。
すると子鱄は一羽の生きた雉を手に取りました。斉悪の前で佩刀を抜いて雉の頭を落とし、こう誓います「鱄と妻子が今後再び衛の地を踏んで衛の粟を食べることがあったら、この雉のようになる。」
斉悪は強制できないと知ってやむなく引き返しました。
 
子鱄は晋国に入り、邯鄲で隠居しました。家人と共に履物を織って食料と交換し、細々と生計を立てます。終生、「衛」という字を口にすることがありませんでした。
 
斉悪が戻って献公に報告すると、献公は久しく感嘆し、二人の死体を棺に納めて埋葬させました。
献公は公孫免餘を正卿に立てようとしましたが、公孫免餘が「臣の声望は軽く、太叔に及びません」と言ったため、太叔儀が政治を行うことになりました。
ここから衛国は安寧を取り戻します。
 
 
話は晋楚に移ります。
宋の左師向戍が弭兵の会を提唱し、晋楚が直接会談するように呼びかけました。
晋の正卿趙武と楚の令尹屈建が共に宋の地に入ります。各国の大夫も続々と到着しました。
晋の属国は魯、衛、鄭で、晋に従って左に営を構えます。楚の属国は蔡、陳、許で、楚に従って右に営を構えます。それぞれ車を城のように並べて守りを固めました。宋が地主(主催国)になります。
 
会見の結果、こう決まりました。
朝聘(朝見と聘問)は通常の周期に従って行い、楚の属国は晋にも朝聘し、晋の属国は楚にも朝聘することにする。貢献する礼物はそれぞれ半数とし、両大国に分けて納める。
大国である斉と秦は晋楚と同等の国とみなし、属国の数に含まないので朝聘は必要ない。
晋に属す小国の邾、莒、媵、薛や、楚に属す小国の頓、胡、沈、麇等は、力があれば朝聘を行い、力がなければ附庸国の例に従って近隣の国に附属する。
 
宋の西門外で歃血して盟が結ばれることになりました。
ところが、楚の屈建は秘かに軍令を発し、礼服の下に甲冑を隠して着させました。盟の席で上位を奪い、趙武を襲って殺すつもりです。しかし伯州犁が固く諫めたため中止されました。
趙武は楚が甲冑を隠して着ていると聞き、羊舌肹に相談して楚に備える計を立てようとしました。
羊舌肹が言いました「今回の盟は本来、弭兵のために開かれました。もし楚が兵(武器)を用いたら、彼等が先に諸侯において信を失うことになるので、諸侯は誰も楚に服さないでしょう。子(あなた)は信を守るだけで充分です。心配はいりません。」
盟を結ぶ時、楚の屈建が先に歃血の儀式を行おうとしました。屈建は向戍を送ってその旨を晋に伝えます。
しかし向戍は晋軍を訪ねても伝えることができず、従人に命じて代わりに伝えさせました。
趙武が言いました「昔、我が先君である文公は践土で王命を受け、四国(四方の国)を綏服(安寧服従させ、長く諸夏を有してきた。なぜ楚が晋の前になるのだ。」
向戍が戻って屈建に伝えると、屈建はこう言いました「もしも王命を論じるのなら、楚もかつて恵王の命を受けたことがある。両国が交見(会見)したのは楚と晋が同等だからだ。晋は盟の主となって既に久しい。今回は楚に譲るべきだ。もし今回も晋が先に儀式を行うのなら、楚は晋より弱いことになってしまう。これでは敵国(同等の国)とは言えない。」
向戍が再び晋営に伝えました。趙武には同意する様子がありませんでしたが、羊舌肹が趙武にこう言いました「盟の主とは徳を持つものであり、勢に頼るものではありません。もしも徳があるのなら、歃血を後に行っても諸侯に奉戴されます。もしも徳がなかったら、歃血を先に行っても諸侯が叛します。そもそも、弭兵を名分にして諸侯を集めました。これは弭兵が天下の利となるからです。歃を争ったら必ず兵(武器)を用いることになり、兵を用いたら必ず信を失うことになります。その結果、天下を利するという意図を失ってしまいます。子(あなた)はとりあえず楚に譲るべきです。」
趙武は楚が先に歃血を行うことに同意しました。
こうして盟が定められ、諸侯が解散しました。
 
この時、衛の石悪も盟に参加していました。そこに寧喜が殺されたという情報が入ります。石悪は衛に帰ろうとせず、趙武に従って晋国に留まりました。
この会盟によって晋楚両国間は暫く平穏になります。
 
 
斉に話を移します。
斉の右相崔杼は荘公を殺して景公を立てたため、その威が斉国を震わせました。
左相慶封は元々酒好きで、しかも狩猟を愛したため、国にいないことがよくありました。崔杼が一人で朝政を行い、専横が激しくなります。その様子を見て慶封は心中で妬み、崔杼を嫌うようになりました。
 
崔杼は棠姜との間で崔明を後嗣に立てる約束をしていました。しかし長子の崔成が臂()を負傷したことを憐れみ、口に出せませんでした。
すると、崔成は崔杼の意志を悟って自ら後嗣の地位を崔明に譲り、崔邑で養老することを願い出ました。
崔杼はこれに同意しましたが、東郭偃と棠無咎が反対して言いました「崔は宗邑です。宗子に与えるべきです。」
崔杼が崔成に言いました「わしは崔を汝に与えようと思っていたが、偃と無咎が反対している。どうすればいい。」
崔成はこれを弟の崔疆に話します。崔疆が怒って言いました「こちらは内子(跡継ぎ)の位も譲ったのに、彼等は一邑すら惜しんで与えないのですか。我々の父がいても東郭等はそのように把持(専断)しています。もし父が死んだら、我々弟兄は奴僕の地位を求めても拒否されるでしょう。」
崔成が言いました「左相を頼って我々のために話をしてもらおう。」
崔成と崔疆は慶封に謁見を求めました。
 
二人に会った慶封が言いました「汝等の父は偃と無咎の謀にだけ従っているから、わしが進言しても聞くはずがない。恐らく、後日、汝等の父の害になるだろう。なぜ除かないのだ。」
崔成と崔疆が言いました「某等(私達)にもその心(気持ち)があります。しかし力が薄い(弱い)ので、事を成功できません。」
慶封が「少し考える時をくれ」と言ったため、崔成と崔疆は帰りました。
 
慶封が盧蒲を招いて二人の言を語ると、盧蒲はこう言いました「崔氏の乱は慶氏の利です。」
慶封はどうするべきか悟りました。
数日後、崔成と崔疆が再び訪れ、 また東郭偃と棠無咎の悪を訴えました。
慶封が言いました「汝等が事を起こせるのなら、わしが甲(甲冑)を授けて子(汝等)を助けよう。」
慶封は百具の精甲と同数の兵器を与えました。
崔成と崔疆は大喜します。
 
夜半、二人は甲冑を着て武器を持った家衆を率い、崔氏の家の傍に分散して埋伏しました。
東郭偃と棠無咎は毎朝、必ず崔氏を訪問します。二人が門に入るのを待って、甲士が突然現れて戟で刺殺しました。
それを聞いた崔杼は激怒し、急いで人を招いて車の準備をさせました。しかし輿僕(車を管理する者)は全て逃げ隠れしています。圉人(馬を管理する者)だけが厩舎にいたため、崔杼は圉人に馬を準備させ、一人の小豎を御者にしました。
 
崔杼は慶封の家に行き、哀哭して家難を訴えました。
慶封は知らないふりをし、怪訝そうな顔をしてこう言いました「崔氏と慶氏は二つの氏ですが、実際は一体です。孺子がそのように上を無視しているのですか。子(あなた)が討伐したいのなら、私が力を尽くします。」
崔杼はこれを誠意ある言葉だと信じ、感謝してこう言いました「もし二逆を除いて崔氏の宗族を安定させることができるのなら、私は明に命じて子(あなた)を父として拝させます。」
慶封は家甲を総動員し、盧蒲を招いて策を与えました。盧蒲は慶封の命を受けて出発します。
 
 
 
*『東周列国志』第六十六回後編です。

第六十六回 甯喜を殺して子鱄が出奔し、崔杼を戮して慶封が相になる(後篇)