第六十六回 甯喜を殺して子鱄が出奔し、崔杼を戮して慶封が相になる(後篇)

*今回は『東周列国志』第六十六回後編です。
 
崔成と崔疆は盧蒲の兵が来たのを見ると、門を閉じて守りを固めようとしました。しかし盧蒲がこう言いました「私は左相の命を奉じて来ました。子()を利すためであり、子を害すためではありません。」
崔成が崔疆に言いました「孽弟(庶弟)の明を除きに来たのではないか?」
崔疆は「恐らくそうだ」と言って門を開き、盧蒲を中に入れます。
盧蒲が門に入ると甲士も共に侵入しました。崔成と崔疆は甲士を止めようとしましたが、命令を聞きません。二人が盧蒲に問いました「左相の命とはどのような内容ですか?」
盧蒲が言いました「左相が汝の父の訴えを聞いたので、わしが命を奉じて汝等の頭を取りに来たのだ。」
盧蒲が甲士に「速く動け!」と怒鳴ると、崔成と崔疆は言葉を発する前に頭を落とされました。
盧蒲は甲士を放って家中の物を自由に略奪させました。車馬服器が全て奪われ、門戸が破壊されます。
棠姜は驚き恐れて房内で自縊しました。
この時外にいた崔明だけは難から逃れます。
 
盧蒲が崔成と崔疆の首を車に掲げて崔杼に報告しました。
崔杼は二人を見て憤りと悲しみを覚えます。
崔杼が盧蒲に問いました「内室()を震驚させなかったか?」
盧蒲が言いました「夫人は高臥(枕を高くして寝ること)しており、まだ起きていません。」
崔杼の顔に喜色が浮かび、慶封にこう言いました「私は帰りたいのですが、小豎は轡を執るのがうまくありません。一人の御者を借りることができたら幸いです。」
盧蒲が言いました「某()に相国を御させてください。」
崔杼は慶封に再三感謝の言葉を述べてから、車に乗って別れました。
 
崔杼が府第(屋敷)に着きました。重門が大きく開かれており、動いている者は一人もいません。
中堂に入って直接、内室を眺めると、窓も戸も門(外門)も闥(小門)も開かれおり、部屋の中には何もなく、ただ棠姜が梁で首を吊っているのが見えました。
崔杼は魂が抜けたように驚き、盧蒲を問いただそうとしましたが、盧蒲は既に何も言わず去っていました。
崔明を探しても姿が見えません。
崔杼は声を挙げて大哭し、「慶封に売られてしまった!家を失ったのに生きていて何になる!」と言って自縊しました。
 
夜半、崔明が府第に潜入して崔杼と棠姜の死体を一つの霊柩に納めました。それを車に乗せて家を出て、祖先の墓地に穴を掘って埋めます。圉人だけが行動を共にしました。他に知る者はいません。
埋葬が終わると崔明は魯国に出奔しました。
 
慶封が景公に上奏しました「崔杼は先君を弑殺したので、討伐しないわけにはいきませんでした。」
景公は従うだけでした。
こうして慶封が一人で景公の相となります。
慶封は景公の命として陳須無を斉国から呼び戻しました。陳須無は告老(引退)し、子の陳無宇が跡を継ぎました。
周霊王二十六年の事です。
 
 
この頃、呉と楚が頻繁に戦っていました。
楚康王が舟師を動員して呉を攻めましたが、呉に備えがあったため功を立てることなく引き返しました。
呉王餘祭は即位してまだ二年ですが、勇を好んで命を軽んじていました。楚の出兵に怒った餘祭は相国屈狐庸を楚の属国舒鳩に送って楚に背くように誘います。
 
舒鳩が叛したため、楚の令尹屈建が兵を率いて舒鳩を討伐することにしました。養繇基が自ら先鋒を買って出ましたが、屈建は「将軍は老いました。舒鳩は蕞爾国(小国)なので勝てないはずがなく、将軍を煩わせることはありません」と言って反対します。
しかし養繇基はこう言いました「楚が舒鳩を討ったら呉が必ず助けに来ます。某()は何回も呉兵を防いできたので、軍情を熟知しています。一行に従わせていただけるなら、死んでも恨みません。」
屈建は養繇基が「死」と言うのを聞いて、心中で悲哀を感じました。
養繇基が続けて言いました「某()は先王の知遇を受けたので、以前から身をもって国に報いたいと思っていましたが、その地を得られないことを恨んでいました。今、鬚髪とも改まりましたが、もしも牖下(窓の下。家の中)で病死することになったら、令尹の責任です。」
屈建は養繇基の意志が強いと知って要求に同意し、大夫息桓に補佐を命じました。
 
養繇基が離城に至った時、呉王の弟夷昧が相国屈狐庸と共に兵を率いて援けに来ました。
息桓は後続の大軍を待とうとしましたが、養繇基がこう言いました「呉人は水戦を善くするが、今は舟を棄てて陸に登った。射御は彼等の長所ではない。到着したばかりで安定していないところを急襲するべきだ。」
養繇基は弓矢を持って士卒の先を進みます。養繇基に矢を射られた者が全て命を落としたため、呉軍は少し退きました。
養繇基が追撃を続けると、屈狐庸の車に遭遇しました。養繇基は「叛国の賊!どの面目があってわしに会うつもりだ!」と罵って屈狐庸を射ようとします。しかし屈狐庸が車を返して風のように駆け去ったため、養繇基は驚いて「呉人にも御術を善くする者がいたのか。早く射るべきだった」と悔やみました。
その時、四面に鉄葉車が現れて養繇基を包囲しました。車に乗っている将士は全て江南の射手です。万矢が一斉に発せられて養繇基は乱箭(矢)の下で命を落としました。
かつて楚共王が養繇基は芸に頼って死ぬといいましたが、それがここで現実になりました。
息桓が敗軍を集めて屈建に報告すると、屈建は嘆息して「養叔の死は自ら得たものだ」と言いました。
 
屈建は精兵を栖山に隠し、別将の子疆に私属(自分の兵)を率いて呉軍を誘い出させました。子疆は十余合ほどで逃走を始めます。
屈狐庸は伏兵を警戒して追撃しませんでしたが、呉王・夷昧が高い場所に登って遠くを眺め、楚軍がいないことを確認して「楚兵が遁走した!」と言ったため、呉軍は陣を空にして追撃を始めました。
栖山の下まで来た時、子疆が向きを変えて応戦し、伏兵も一斉に襲いかかりました。夷昧は包囲されます。突破しようとしても囲みを破れません。
しかしそこに屈狐庸の兵が到着し、楚兵を退かせてなんとか夷昧を救い出しました。
この戦いで呉軍は敗走し、屈建が舒鳩を滅ぼしました。
 
翌年、楚康王がまた呉を攻撃しようとし、秦に出兵を請いました。
秦景公は弟の公子鍼に兵を率いて楚を援けさせます。
しかし呉が兵を増やして江口を守ったため、楚軍は侵攻できませんでした。
 
当時、鄭が久しく晋に服従していたため、楚は呉から引き上げて鄭を侵しました。
楚の大夫穿封戍が鄭将皇頡を陣で捕えます。公子囲がそれを奪おうとしましたが、穿封戍は拒否しました。
すると公子囲は逆に康王に訴えてこう言いました「私が皇頡を捕えたのに、穿封戍に奪われました。」
間もなくして、穿封戍も皇頡を連れて康王に功績を報告し、公子囲を訴えました。
康王は判断を下すことができず、太宰伯州犁に裁かせます。
伯州犁はこう言いました「鄭囚(捕虜)も大夫であり、細人(庶人)ではありません。囚に問えば自分で言うでしょう。」
皇頡が庭に立たされました。伯州犁が右に、公子囲と穿封戍が左に立ちます。
伯州犁は拱手(両手を胸の前で組む礼)した手を上に向けて動かしながら「こちらは王子囲であり、寡君の介弟(弟を尊敬した呼び方)である」と言い、拱手した手を下に向けて動かしながら「こちらは穿封戍だ。方城外の県尹である。汝を捕えたのは誰だ?正直に述べよ」と言いました。
州伯犁の意図を悟った皇頡は、王子囲の機嫌をとるため、目を見開いて囲を凝視し、「頡()はこの王子に遭遇して勝てなかったので捕まりました」と言いました。
穿封戍は激怒し、架()から戈を抜き取って公子囲を殺そうとしましたが、公子囲が驚いて逃走したため及びませんでした。
伯州犁が後を追い、仲直りをするように勧めて戻りました。
伯州犁が康王に進言したため功績は二分されます。康王は宴を開いて公子囲と穿封戍を和睦させました。
今でも秘かに結託して誤りを隠すことを「上下其手(手を上下させる)」と言いますが、これは伯州犁の故事から始まるようです。
 
 
呉の隣国を越といいます。子爵で夏王禹の後裔でした。無余が始封され、夏王朝から周王朝を経て三十余世で允常に至ります。
允常が政治に励んだため、越は徐々に強盛になりました。呉は越の成長を警戒します。
 
呉王餘祭が即位して四年目、呉が越に対して初めて兵を用いました。越王の宗人を捕虜にしたため、足を切断して閽(門番)に任命し、「餘皇」という大舟を守らせます。
 
ある時、餘祭が舟を観察し、酔って寝てしまいました。宗人はその機に乗じて餘祭の佩刀を解き、餘祭を刺殺します。従人がそれを見つけて共に宗人を殺しました。
 
餘祭の弟夷昧が順に従って即位しました。
夷昧は国政を季札に委ねます。
季札は兵を収めて民を安んじ、上国(中原諸国)と通好することを請いました。夷昧はこれに同意し、季札に魯国を聘問させます。季札は魯で五代と列国の楽舞を見学し、一つ一つに評価を与えました。その内容が全て楽舞の内容を正しく言い当てていたため、魯人は季札が音楽に精通していると評価しました。
季札は魯の次に斉を聘問して晏嬰と関係を善くし、鄭を聘問して公孫僑と関係を善くし、衛を聘問して蘧瑗と関係を善くし、晋に行って趙武、韓起、魏舒と関係を善くしました。彼等は皆、当時を代表する賢臣です。彼等と友好を結んだことからも、季札の賢才がうかがい知れます。
 
この後の事がどうなったか、続きは次回です。

第六十七回 盧蒲癸が慶封を逐い、楚霊王が諸侯を集める(一)