第六十七回 盧蒲癸が慶封を逐い、楚霊王が諸侯を集める(二)

*今回は『東周列国志』第六十七回その二です。
 
当日、斉景公が太廟で嘗祭の儀式を行いました。諸大夫が従っています。
慶舍も祭祀に臨み、慶繩が主宰して爵(酒器)を献上しました。
慶氏の家甲が廟宮を囲んで守ります。
盧蒲癸と王何は寝戈(護身用の武器)を持って慶舍の左右に立っており、寸歩も離れません。
 
陳氏と鮑氏の二家に優戯(雑技演劇)を得意とする圉人がおり、わざと魚里の街で演じさせました。
慶氏の馬がそれに驚いて走り出したため、軍士達が馬を捕まえて縄で縛りつけました。その後、軍士達は甲冑を脱ぎ、武器を置いて優戯を見始めます。
 
欒氏、高氏、陳氏、鮑氏四族の家丁が廟門の外に集まりました。
盧蒲癸は小便に行くと偽って慶舎から離れ、門の外に出て四氏と手はずを約束します。秘かに太廟が包囲されました。
盧蒲癸が再び太廟に入って慶舍の後ろに立ちました。戟を逆さに持って高蠆に合図を送ります。それに気づいた高蠆は従人に命じて闥(恐らく正門の横にある小門)で門扉を叩かせました。三回音が鳴ると甲士が一斉に進入します。
慶舍は驚いて立ち上がりましたが、座席を離れる前に盧蒲癸が背後から刺しました。刃が脅(肋骨)に至ります。王何も戈で左肩を撃ち、肩が折れました。
慶舍が王何を凝視して「乱を成したのは汝曹(汝等)だったか」と言うと、右手で俎壺(祭品を置く道具)を取って王何に投げつけました。王何は即死します。
盧蒲癸が甲士に命じ、先に慶繩を捕えて殺させました。
重傷を負った慶舍は痛みに耐えることができず、両手で廟の柱を抱えて力いっぱい揺らしました。廟の屋根まで震動します。やがて一声絶叫して息絶えました。
 
景公は凄まじい光景を目の当たりにしたため、驚愕して逃走しようとしました。しかし晏嬰が秘かに「群臣は主公のためにこうしているのです。慶氏を誅して社稷を安定させたいと思っているのです。他の考えはありません。」と上奏したため、景公は心を落ち着かせ、祭服を脱いで車に乗り、内宮に還りました。
 
盧蒲癸が指揮をとって四姓の甲士と共に慶氏の党を滅ぼしました。慶封の帰国を拒むため、各氏が分かれて城門を守ります。水も通さないほど厳しい防備が布かれました。
 
慶封が狩猟から帰る途中、逃げ出してきた慶舍の家丁に遭遇しました。家丁は乱が起きたことを報告します。
慶封は自分の子が殺されたと聞いて激怒し、西門を攻撃しました。しかし城内の守備が固いため攻略できません。卒徒も徐々に逃げ去っていきました。
慶封は恐れて魯国に出奔します。
ところが斉景公が魯に使者を送って譴責し、叛逆の臣を留めてはならないと伝えたため、魯人は慶封を斉に送り返そうとしました。それを聞いた慶封は恐れて呉国に出奔しました。
 
呉王夷昧は慶封を朱方に住ませて俸禄を厚くし、斉にいた時よりも富貴を与えて、楚国の動静を探らせました。
魯の大夫子服何が叔孫豹に問いました「慶封は呉でも再び富を手に入れた。天は淫人を福すのだろうか?」
叔孫豹はこう答えました「『善人が富むのなら、それは賞というが、淫人が富むのなら、それは禍という(善人富,謂之賞。淫人富,謂之殃)。』慶氏の殃(禍)は近い。なぜ福となるのだ。」
 
慶封が出奔したため、高蠆と欒肹が斉の政治を行うようになりました。崔氏と慶氏の罪を国中に発表し、慶舍の死体を朝廷に晒します。
崔杼の棺を求めても見つからないため、報告した者に賞賜を与えることにしました。棺がある場所を知っている者には崔氏の拱璧(大きい璧玉)を下賜すると宣言します。
やがて、崔杼を埋葬した圉人が璧を欲したため届け出ました。崔氏の祖先の墓陵が暴かれ、崔杼の棺が破壊されます。中には二人の死体が入っていました。崔杼と妻の棠姜です。
景公が二人の死体を並べて晒そうとしましたが、晏嬰が「婦人に戮(辱め)を及ぼすのは礼ではありません」と進言したため、崔杼の死体だけを市に晒しました。
崔杼の死体はまだ認識できる状態だったため、国人が集まって「本物の崔子だ」と言いながら見物しました。
 
諸大夫が崔氏と慶氏の邑を分けました。慶封の家財が全て盧蒲の家にあったため、盧蒲は淫乱の罪を咎められて北燕に追放されます。盧蒲癸も従って北燕に行きました。二氏の家財も衆人が分け合います。
しかし陳無宇だけは何も取りませんでした。
慶氏の荘園には百余車分の木材があったため、群臣が議して陳氏に与えることにしました。
陳無宇はそれを全て国人に施します。この後、国人は皆、陳氏の徳を称賛するようになりました。
周景王初年の出来事です。
 
翌年、欒肹が死に、子の欒施が大夫を継ぎました。高蠆と共に国政を行います。
高蠆は高厚の子高止が気に入らず、二つの高氏が並立していることを嫌っていたため、高止を追放しました。高止も北燕に奔ります。
高止の子高豎が盧邑で挙兵すると、景公は大夫閭邱嬰に盧を包囲させました。
高豎が言いました「私は謀反したいのではありません。高氏の祭祀が途絶えることを懼れるのです。」
閭邱嬰は高氏が跡継ぎを立てることを許しました。高堅は兵を収めて晋国に出奔します。
閭邱嬰が帰って景公に報告すると、景公は高に高傒の祭祀を守らせました。
それを知った高蠆は怒って「閭邱を派遣したのは高氏を除くためだった。一人が去ったのにまた一人を立てたら、何も変わらないではないか」と言い、閭邱嬰を讒言して殺しました。
諸公子子山、子商、子周等がこれに不満で非難しましたが、怒った高蠆は口実を探して諸公子を全て追放します。国中の人が高蠆を恐れて直言しなくなりました。
しかし暫くして高蠆が死にました。子の高彊が大夫を継ぎます。高彊はまだ若かったため、卿には立てられていませんでした。大権は欒施一人に帰します。
 
 
晋と楚が講和してから、列国は安息していました。
鄭の大夫良霄は字を伯有といい、公子去疾の孫、公孫輒の子にあたります。当時、上卿として政治を行っていました。
良霄は驕慢奢侈な性格で、酒を好み、いつも夜を通して飲み耽っていました。酒を飲んでいる時は人に会いたくなく、他の事も聞きたくなかったため、窟地(地下)に部屋を作って飲具(酒器)や鐘鼓を移し、長夜の宴を楽しみました。家臣が朝見したくても誰も会えません。
ある時、日中に酔ったまま入朝し、鄭簡公に公孫黒を楚へ送るように進言しました。聘問の礼を修めるためです。
この頃、公孫黒は公孫楚との間で徐吾犯の妹を争っていたため、遠出をしたくありませんでした。そこで使者の任を解くように頼むため、良霄に会いに行きました。しかし閽人(門番)がこう言いました「主公は窟室に入ってしまいました。報告できません。」
公孫黒は激怒して家に帰り、家甲を総動員しました。夜に乗じて印段と共に良霄の邸宅を包囲し、火を放って焼き払います。
良霄は既に泥酔していたため、衆人が抱きかかえて車に乗せ、雍梁に奔りました。
良霄がやっと目を醒ました時、家人から公孫黒の襲撃を聞いて激怒しました。
 
数日の間に家臣が少しずつ集まり、国内の状況を報告してこう言いました「各族が盟を結んで良氏を拒もうとしています。しかし国氏と罕氏だけは盟に参加していません。」
良霄が喜んで言いました「二氏はわしを助けるつもりだ!」
良霄は引き返して鄭の北門を攻撃しました。
これに対して、公孫黒が甥の駟帯に命じて印段と共に勇士を率いさせました。良霄は敗れて屠羊の肆(店)に逃げましたが、兵衆に殺されます。家臣も全て死にました。
 
良霄の死を知った公孫僑は急いで雍梁に走り、良霄の死体を撫でながら哀哭して言いました「兄弟が互いに攻撃するとは、天(天命)だろうか。これほど不幸なことはない!」
公孫僑は家臣の死体も回収し、良霄と一緒に鬥城の村に埋葬しました。
公孫黒が怒って言いました「子産(公孫僑)は良氏の党か!」
公孫黒が公孫僑を攻めようとしましたが、上卿の罕虎が諫めて言いました「子産は死者にも礼を加えることができる。生者に対してならなおさらだろう。礼とは国の幹(基本)だ。礼がある者を殺すのは不祥だ。」
公孫黒は攻撃をあきらめました。
 
鄭簡公は罕虎に政治をさせようとしました。しかし罕虎が「臣は子産に及びません」と言ったため、公孫僑が政治を行うことになりました。周景王三年の事です。
公孫僑が鄭の政権を握ると、都鄙(国都とその他の都市)に章(規律)が生まれ、上下(群臣)に服(任務職責)ができ、田地に封洫(農地の境界と水路。灌漑)が造られ、廬井(田野の農家)に伍(税)が決められ、忠倹が尊ばれて泰侈(奢侈)が抑えられるようになりました。
公孫僑は政治を乱した公孫黒を譴責して処刑しました。
また、公孫僑は『刑書』を鋳て民に威信を示し、郷校を建てて政治の過失を聞きました。
国人が公孫僑を称えてこう歌いました「私には子弟がおり、子産が教導してくれる。私には田地があり、子産が生産を助けてくれる。もしも子産が死んだなら、誰が跡を継げるだろう(我有子弟,子産誨之。我有田疇,子産殖之。子産而死,誰其嗣之)。」
 
ある日、鄭人が北門を出た時、恍惚とした中で良霄に遭遇しました。甲冑を身に着けて戈を持ち、歩きながら「帯と段がわしを害した。必ず二人を殺す!」と言っています。
良霄を見た者は帰って他の人に話してから病を患いました。
噂が広がり国中の人が戦々恐々とします。風で草が動いただけでも良霄が来たと思い、男女が戈矛から逃げるように狂奔しました。
暫くして駟帯が病死し、数日後には印段も死にました。
国人はますます恐れて昼夜とも安心できなくなります。
そこで公孫僑が鄭君に進言し、良霄の子良止を大夫にして良氏の祭祀を継がせました。同時に公子嘉の子公孫洩も大夫に立てます。
これがきっかけで国中の噂が静まりました。
行人の游吉(字は子羽)が公孫僑に問いました「後代を立てたら訛言(噂)が収まりましたが、なぜでしょうか?」
公孫僑が言いました「凶人が悪死(寿命ではない死)したらその魂魄(魂)が散ることはなく、全て厲(悪鬼)となる。しかし帰る場所ができたらそれは収まるものだ。私が祭祀を行う者を立てたから魂魄が帰ったのだ。」
游吉が問いました「それなら良氏を立てるだけで充分です。なぜ公孫洩を併せて立てたのですか?子孔(公子嘉)が厲になることを心配したのですか?」
公孫僑が言いました「良霄には罪があるので、本来は後代を立てるべきではない。もしも厲が原因で後代を立てたら、国人が鬼神の説に惑わされ、(良霄の誅殺を)教訓にすることができなくなる。だから私は七穆(穆公の七人の子)の中で祭祀が絶えた者を改めて継承させるという理由で良氏と孔氏の二家を同時に立てたのだ。これは民の惑(迷い)を除くためである。」
游吉は感嘆して納得しました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十七回その三に続きます。