第六十七回 盧蒲癸が慶封を逐い、楚霊王が諸侯を集める(三)

*今回は『東周列国志』第六十七回その三です。
 
周景王二年、蔡景公が世子般のために楚女羋氏を娶りました。ところが景公は羋氏と私通します。
それを知った世子般が怒って言いました「父が父らしくないのだから、子も子らしくある必要はない!」
世子般は狩りに出ると偽って心腹の内侍数人と内室に隠れました。
景公は世子が外出したと思って東宮(太子宮)に入り、羋氏の室を訪れます。そこを世子般に率いられた内侍が襲い、景公は斬り殺されました。
世子般は暴疾(突然死)という名目で諸侯に訃報を送り、自ら国君に立ちました。これを霊公といいます。
史臣はこの事件を論じてこう言いました「子が父を弑殺したのは千古の大変(大事件。異変)だが、景公が我が子の婦人と淫通したのだから、自ら悖逆(叛逆)を招いたのであり、景公自身も無罪とは言えない。」
 
世子般は暴疾として諸侯に訃報を送りましたが、弑逆の痕跡を隠すことはできず、その情報は蔡国から各国まで伝わっていきました。しかし当時の盟主は安寧に満足して覇業を疎かにしていたため、誅討することができませんでした。
 
 
この年の秋、宋の宮中で夜に失火がありました。宋公の夫人は魯女の伯姫といいます。
伯姫の左右に仕える者が火を見て逃げるように勧めました。しかし伯姫はこう言いました「婦人の義では、傅母(貴族の子女を養育する年配の女性)がいなければ、宵(夜)に堂を降りてはならないことになっています。火の勢いが激しくても、義を廃すわけにはいきません。」
傅母が助けに来た時には、伯姫は既に焼け死んでいました。国人が皆、嘆息します。
 
晋平公は宋が晋楚の講和を実現させた功を評価していたため、火災があったと聞いて同情し、諸侯を澶淵に集合させて宋を救済する財幣を提供させました。
宋代の儒者胡安定はこの事を論じて「蔡世子が父を弑殺した罪は討伐せず、宋の火災に同情して救済を謀るとは、軽重の釣り合いを失っている」と言いました。これが平公が覇業を失った原因です。
 
 
周景王四年、晋と楚が宋の盟を確認するため、再び虢で会すことになりました。
当時は楚の公子囲が屈建に代わって令尹を勤めています。公子囲は共王の庶子ですが、最も年上で、性格は桀驁不恭(凶暴傲慢)でした。人の下にいることを恥としており、自分の才器を自負して秘かに不臣(謀反)の志を蓄え、弱小な国君熊麇を侮って国事の多くを専断していました。
大夫掩が忠直だったため、謀叛の罪を誣告して誅殺し、その家財を全て自分の物としました。
大夫罷や伍挙を腹心とし、日々、纂逆を企んでいます。
以前、郊外で狩りをした時、勝手に楚王の旌旗を使って芋邑に入りました。しかし芋尹申無宇が越権を諫めて旌旗を府庫にしまったため、公子囲は少し抑えるようになりました。
 
虢の会に赴くことになると、公子囲は先行して鄭を聘問することを願い出ました。豊氏の娘を娶るのが目的です。
公子囲が出発する時、楚王熊麇にこう言いました「楚は既に王位を称しており、諸侯の上にいます。使臣(使者。公子・囲)が諸侯(一国の主)の礼を用いることを許可してください。そうすれば列国に楚の尊位を知らしめることができるでしょう。」
熊麇は許可しました。
公子囲は国君の儀礼に倣って衣服器用(器物)を侯伯(諸侯。国君)と同等にし、二人に戈を持たせて先導としました。
 
一行が鄭の郊外に接近すると、郊人は楚王が来たと思い、驚いて国内に報告しました。
鄭の君臣も皆驚き、夜の間に葡匐(恭しい様子)して出迎えます。そこで初めて公子囲だと気づきました。
公孫僑は公子囲が国内に入ったら異変が起きると警戒し、行人游吉を派遣してこう伝えました「城内の舍館が倒壊してしまい、修築が終わっていません。城外で宿営してください。」
公子囲は伍挙を入城させて豊氏との婚姻の話を伝えました。鄭伯はこれに同意します。
 
公子囲が行聘(新郎側が新婦側に礼物を贈ること)しました。盛大な筐篚(礼物を入れる竹の容器)が贈られます。
新婦を娶る時、公子囲は突然、鄭襲撃を考えました。新婦を迎えるという名目で車乗を飾り、隙を窺って行動を起こそうとします。
それを察した公孫僑が言いました「囲の心は測り知れない。衆(兵)を去らせてから入城を許可するべきだ。」
游吉が言いました「もう一度、吉(私)を派遣して説得させください。」
游吉が楚営を訪ねて公子囲に言いました「令尹が衆を率いて迎え入れるつもりだと聞きましたが、敝邑は狭小なので、従者を容れることができません。城外に場所を作って婦人を迎え入れる命を聴いてください。」
公子囲が言いました「貴国が寡大夫囲に幸を与えて豊氏の婚を賜ろうとしているのに、野外で迎え入れたら礼が成り立ちません。」
游吉が言いました「礼に基くのなら、軍容は国に入らないものです。婚姻ならなおさらでしょう。令尹が必ず衆を用いて観瞻(外観。見た目)に壮(武威)を加えたいというのなら、兵備武装は除いてください。」
伍挙が秘かに公子囲に言いました「鄭人は既に我々に備えています。兵(武器)を除くべきです。」
公子囲は士卒に全ての弓矢を棄てさせ、櫜(武器を入れる袋)を逆さにして入城しました。戦う意志がないことを示します。
豊氏を館舍に迎え入れてから、諸侯との会見の場に赴きました。
 
晋の趙武と宋、魯、斉、衛、陳、蔡、鄭、許各国の大夫が既に到着していました。
公子囲が人を送って晋に伝えました「楚と晋の盟は既に結ばれている。今回は友好を尋ねる(求める。確認する)ことが目的なので、再び誓書を立てて歃血を重複させる必要はない。宋で盟した旧約を改めて宣言し、諸君が忘れないようにできればそれで充分だ。」
祁午が趙武に言いました「囲のこの言は晋と先を争うのを恐れているのです。以前は楚に先を譲りました。今回は晋が先になる番です。しかし旧書(前回の盟文)を読むだけならやはり楚が先になります。子(あなた)はどう考えますか?」
趙武が言いました「今回の会見に参加した囲は、蒲(植物)を編んで王宮を作り、威儀は楚王と変わりがない。その志は外亢(外国と対抗すること)ではなく内謀にある。ここは彼の意見を聞いてその志を驕大にさせよう。」
祁午が言いました「確かにその通りです。しかし前回、子木は甲冑を隠して会に赴きました。幸い、変事は起きませんでしたが、今回の囲は更にひどいので、吾子(あなた)は備えを設けるべきです。」
趙武が言いました「友好を尋ねるというのは弭兵の約束を尋ねるということだ。武(わたし)は信を守ることを知っているだけだ。他の事は関与しない。」
諸侯が壇に登ると公子囲が旧書を読んで犠牲の上に置きました。趙武はそれに従うだけです。
儀式が終わると公子囲はすぐに帰国しました。
諸大夫は皆、公子囲がすぐ楚君になるだろうと予想しました。
 
趙武は旧書を読んだために楚が優位に立ったことを心中で恥と思っており、他の者が議論するのではないかと心配しました。そこで各国の大夫に対して「信を守るために楚に譲った」という説明を再三繰り返して行いました。
趙武が帰路について鄭を通った時、魯の大夫叔孫豹が同行していました。趙武はまた信を守ったことを説明します。すると叔孫豹が問いました「相君(国相に対する尊称)は弭兵の約束が最後まで守られると思いますか?」
趙武が答えました「我々は目先の食(俸禄)を貪っており、朝夕の安泰を図るだけです。久遠の事を考える余裕はありません。」
叔孫豹は退席してから鄭の大夫罕虎にこう言いました「趙孟(趙武)はもうすぐ死ぬでしょう。彼の言葉は目先の事だけで、遠計がありません。しかもまだ五十歳にもならないのに、諄諄(くどくどと諭すこと)とした様子は八九十歳の老人のようです。久しいはずがありません。」
暫くして趙武が死にました。
韓起が代わって晋の政治を行います。
 
 
 
*『東周列国志』第六十七回その四に続きます。