第六十七回 盧蒲癸が慶封を逐い、楚霊王が諸侯を集める(四)

*今回は『東周列国志』第六十七回その四です。
 
楚の公子囲が帰国した時、楚王熊麇は宮内で病にかかっていました。
公子囲は入宮して病状を問い、密事を上奏する必要があるという理由で嬪侍(妃妾侍女)を遠ざけると、冠纓(冠の紐)を解いて熊麇の首に巻きつけました。熊麇はすぐに死んでしまいます。
熊麇には二人の子がいました。幕と平夏です。異変を聞いた二人は剣を持って公子囲を殺そうとしましたが、囲の勇力には敵わず二人とも逆に殺されました。
熊麇の弟にあたる右尹熊比(字は子干)と宮厩尹熊黒肱(字は子晳)は楚王父子が殺されたと知り、禍を恐れて出奔しました。公子比は晋に、黒肱は鄭に向かいます。
公子囲は諸侯に楚王の死を伝え、こう告げました「寡君麇が不禄即世(「不禄」も「即世」も「死」の意味)した。寡大夫囲が後を継ぐべきである(寡大夫囲応為後)。」
文書を読んだ伍挙が「寡大夫囲応為後」を「共王の子囲を長にする(共王之子囲為長)」に書き換えました。こうして公子囲が王位に即き、熊虔に改名しました。これを霊王といいます。
罷を令尹に、鄭丹を右尹に、伍挙を左尹に、鬥成然を郊尹に任命しました。
太宰伯州犁は公事のため郟にいました。霊王は伯州犂が自分の即位に反対することを恐れ、人を送って殺しました。
楚王麇は郟に埋葬されたため、郟敖と称されます。
啓疆が代わって太宰になり、長子禄を世子に立てました。
 
志を得た霊王はますます驕慢放縦になり、中原の覇権を独占したいという野望を抱きました。
そこで伍挙を晋に送って諸侯を楚に譲るように求めました。また、豊氏の娘は一族の勢力が小さく、正夫人に立てるにはふさわしくないため、晋侯に婚姻を要求しました。晋平公は趙武を失ったばかりだったため、強大な楚を畏れ、全ての要求に同意しました。
 
 
周景王六年、楚霊王二年冬十二月、鄭簡公と許悼公が楚に入りました。
楚霊王は二人を留めて晋に送った伍挙の報告を待ちます。
帰国した伍挙が言いました「晋侯は二事とも承諾しました。」
喜んだ霊王は諸侯に使者を送って翌年春三月に申(地名)で大規模な会を開く約束をしました。
鄭簡公が先に申地に赴いて諸侯を迎え入れる準備をしたいと申し出たため、霊王は許して帰国させます。
 
翌年春、諸侯が続々と会に集まりました。しかし魯と衛は理由を探して辞退し、宋は大夫向戍に代行させました。その他の蔡、陳、徐、滕、頓、胡、沈、小邾等といった国君は自ら会に参加します。
楚霊王が多数の兵車を率いて申地に到着すると、諸侯がそろって謁見に来ました。
右尹伍挙が霊王に進言しました「霸(覇業)を図ろうとする者は必ず諸侯を得るものであり、諸侯を得ようとする者は必ず礼を慎重に行うものであるといいます。今回、我が王は晋に諸侯を譲るように求めました。宋の向戍と鄭の公孫僑はどちらも大夫の良(優秀な者)で、礼を理解している者と号されています。慎重にしなければなりません。」
霊王が問いました「古に諸侯を集めた時の礼とはどのようなものだ?」
伍挙が言いました「夏啓には鈞台の享があり、商湯には景毫の命があり、周武には孟津の誓があり、成王には岐陽の蒐があり、康王には酆宮の朝があり、穆王には塗山の会があり、斉桓公には召陵の師があり、晋文公には践土の盟がありました。これら六王二公が諸侯を合わせることができたのは、礼があったからです。国君は相応しいと思う礼をお選びください。」
霊王が言いました「寡人は諸侯の覇者になるつもりだ。斉桓公の召陵の礼を用いよう。しかしその礼がどういうものかはわからない。」
伍挙が言いました「六王二公の礼は臣も名を聞いただけで内容は習熟していません。臣が聞いたところでは、斉桓公が楚を攻めて召陵に師を退けた時、楚は先大夫屈完を斉師に送りました。すると桓公は八国の車乗を整然と並べ、衆強(強盛な大軍)を屈完に誇示してから、諸侯を合して屈完と会盟を開きました。今、諸侯は新たに服したばかりなので、我が王も衆強の勢いを示して畏怖させてから、諸侯を会に集めて二心を抱く者を討つべきです。そうすれば従わない者はいないでしょう。」
霊王が言いました「寡人は諸侯の兵を用いて桓公が楚を撃った故事に倣おうと思う。誰を先に討伐するべきだ?」
伍挙が言いました「斉の慶封はその君を弑殺して呉国に逃亡しました。呉はその罪を討たず、逆に寵を加えて朱方の地に住ませました。慶封は家族を集めて生活しており、その富は以前にも勝るので、斉人は憤怨しています。呉は我が国の仇でもあるので、もし慶封誅討を名分に兵を用いて呉を討伐すれば、一挙両得となります。」
霊王は「善し」と言うと車乗を整然と並べて諸侯を脅し、申地で会盟しました。
徐君の母が呉姫だったため、呉に帰順していると疑って三日間拘束します。しかし徐子が呉討伐の嚮導(先導)になることを願ったため釈放しました。
 
霊王は大夫屈申に諸侯の兵を率いさせました。連合軍が呉を攻めて朱方を包囲し、斉から亡命した慶封を捕えます。その一族は滅ぼされました。
屈申は呉に備えがあると知り、深入りはせず兵を還しました。慶封が霊王に献上されます。
 
霊王は慶封を辱めるため諸侯に晒そうとしました。伍挙が諫めて言いました「『欠点がない者だけが人を辱めることができる(無瑕者,可以戮人)』と言います。慶封を辱めようとしたら逆に相手から辱められるでしょう。」
霊王は諫言を聴かず、慶封に斧鉞を背負わせ、縛って軍前に晒しました。刀を慶封の首においてこう言わせます「各国の大夫よ、よく聴け!斉の慶封のようになってはならぬ!その君を弑殺して孤(孤児。まだ若い景公)を弱め、大夫に盟を強制した!」
すると慶封は大声でこう言いました「各国の大夫よ、よく聴け!楚共王の庶子囲のようになってはならぬ!その君の兄の子である麇を弑殺して代わりに立ち、諸侯に盟を強制した!」
観ていた者達は皆口を覆って笑い出します。
恥をかかされた霊王はすぐに慶封を処刑させました。
 
申から楚に還った霊王は、屈申が呉の奥深くまで進攻せず朱方から引き返したため、呉と通じているのではないかと疑って殺してしまいました。
屈生が代わって大夫になります。
罷が晋に入り、夫人姫氏を連れて帰りました。罷が令尹に任命されます。
 
この年の冬、呉王夷昧が楚を攻撃し、棘、櫟、麻に進攻しました。朱方の役の報復です。
激怒した楚霊王は再び諸侯の兵を起して呉を攻めました。
越君允常も呉の侵攻を憎んでいたため大夫常寿過に兵を率いて合流させました。
楚将啓疆が先鋒になり、舟師(水軍)を率いて鵲岸に至りましたが、呉軍に敗れます。
楚霊王が自ら大軍を率いて羅汭に至ると、呉王夷昧は宗弟の蹶繇を送って楚軍を慰労させました。
霊王は怒って蹶繇を捕え、殺してその血で軍鼓を塗ろうとします。その前に人を送ってこう問いました「汝はここに来る時に吉凶を卜ったか?」
蹶繇が答えました「卜の結果、吉と出ました。」
使者が問いました「君王が汝の血を取って軍鼓を塗ろうとしているのに、何が吉なのだ?」
蹶繇が答えました「呉が卜ったのは社稷の事であり、一人の吉凶ではありません。寡君が遣繇に犒師(軍を労うこと)させたのは、王の怒りの疾徐(緩急。激しいかどうか)を観察して守備の緩急を決めるためです。貴国の君が歓んで使臣を友好的に迎え入れたら、敝邑は警備を忘れてしまい、滅亡まで日がなくなります。しかし使臣が殺されて鼓が塗られるようなら、敝邑は貴国の君の震怒を知り、武備を修めることになるので、楚に対する防備に余裕ができます。これ以上の吉はありません。」
霊王は「彼は賢士だ」と言って釈放し、帰国させました。
 
楚兵が呉の国境に至りましたが、呉の守りが堅かったため攻め入ることができず、結局兵を還しました。
霊王が嘆いて言いました「罪のない屈申を殺してしまった。」
 
霊王は帰国しましたが、功を立てられなかったことを恥じました。そこで大規模な建築を開始し、物量によって国の強盛を諸侯に誇示することにしました。
章華という宮殿が建造されます。縦横は四十里におよび、中に高台が建てられ、四方を見渡すことができました。台の高さは三十仞で、章華台と命名されます。三休台ともいいます。台が高峻なため、登る途中で必ず三回の休憩が必要になったという意味です。
中の宮室亭榭(亭閣。部屋)は全て極めて壮麗でした。
民居を囲んで建てられており、罪を犯して国外に逃亡した者を全て帰国させて宮室を満たしました。
宮殿が完成すると落成の儀式を開くため、使者を各地に送って四方の諸侯を集めることにしました。
 
どの諸侯が参加するのか、続きは次回です。

第六十八回 師曠が新声を聞き分け、陳氏が斉国を買う(前篇)