第六十八回 師曠が新声を聞き分け、陳氏が斉国を買う(後篇)

*今回は『東周列国志』第六十八回後編です。
 
斉の大夫高蠆は高止を駆逐し、閭邱嬰を讒言で殺してから、朝廷中の不平を招きました。
やがて高蠆が死んで子の高彊が大夫を継ぎました。高彊はまだ若く、酒を愛していたため、同じく酒好きな欒施と意気投合しました。二人は陳無宇、鮑国との関係を薄くします。その結果、四族は二党に分かれました。欒施と高彊はいつも二人で酒を飲み、酔うと陳氏と鮑氏の長短(是非。長所と短所)を論じます。陳無宇と鮑国はそれを知ってしだいに二人を疑い、対立するようになりました。
 
ある日、高彊が酔って小豎を鞭打ちました。欒施も高彊を助けます。
小豎は二人を恨んで夜の間に陳無宇を訪ね、こう言いました「欒氏と高氏が家衆を集めており、陳氏と鮑氏の二家を襲うつもりです。明日の決行を約束しました。」
小豎は鮑国の家にも走って同じことを話しました。鮑国はこれを信じ、共に欒氏と高氏を攻める約束をするため、すぐに小豎を陳無宇の家に送りました。
陳無宇は武器甲冑を家衆に配り、急いで車に乗って鮑国の家に行こうとします。
しかし途中で高彊に遭遇しました。高彊も車に乗っており、既に半ば酔っぱらっています。向こうから来た高彊が車の上で陳無宇に拱手して問いました「甲(兵)を率いてどこに行くのですか?」
陳無宇はとっさに偽って「一人の叛奴を討ちに行くのです」と答え、「子良(高彊)はどこに行くのですか?」と問い返しました。
高彊は「私は欒氏の家で飲むつもりです」と答えます。
 
二人が別れてから陳無宇は輿人に命じて速く駆けさせました。
間もなく鮑家の門に到着します。そこには車徒が整然と並び、戈甲が密集していました。鮑国も甲冑を着て弓を持っており、車に乗ろうとしています。
合流した二人は改めて相談しました。
陳無宇が子良の言葉を伝えてこう言いました「欒氏の家で飲むというのが確かかどうかわからない。人を送って探ってみよう。」
鮑国は人を送って欒氏の家を偵察させました。
部下が戻って言いました「欒氏と高氏の二大夫はどちらも衣冠を脱ぎ、蹲踞(膝を立てて座ること)して賽飲(酒量を競うこと)しています。」
鮑国が言いました「小豎の言は嘘だったか。」
しかし陳無宇がこう言いました「豎の言は事実ではなかった。しかし子良は道中で私が甲(兵)を率いているのを見た。私にどこに行くのかと聞いたから、偽って叛奴を討ちに行くと答えたが、もし討伐せず兵を解いたら、彼等は心に疑いを抱くだろう。もし彼等が先に我々を駆逐する策を謀ったら、後悔しても手遅れになる。彼等が酒を飲んで備えをしていない今こそ、先に襲うべきだ。」
鮑国は「善し」と言って両家の甲士を同時に出発させました。陳無宇が先に行き、鮑国が後に続きます。
 
二人は欒家に向かい、前後の府門を何重にも包囲しました。
欒施が巨觥(大杯)を持って酒を飲もうとした時、陳氏と鮑氏の二家が攻めて来たという報告が入りました。欒施は思わず觥を落とします。
高彊は酔っていましたが三分の思考は残っていました。そこで欒施に言いました「急いで家徒を集め、甲(甲冑)を配って入朝しよう。主公を奉じて陳鮑を討てば勝てないはずがない。」
欒施は家衆を総動員しました。
高彊が先を進み、欒施が後になります。後門から包囲を突破し、一条の血路を切り開いて公宮に走りました。
陳無宇と鮑国は斉侯を取られて重権を奪われることを恐れ、急いで追撃しました。
高氏の族人も変事を聞いて家衆を集め、公宮に駆けつけました。
 
宮中にいた景公は四族が兵を率いて攻めて来たと聞き、事態を理解できず、急いで閽者(門番)に命じて虎門を堅く閉じさせました。宮甲が門を守ります。
同時に内侍を送って晏嬰に入宮を命じました。
 
欒施と高彊は虎門を攻めましたが、中に入れないため門の右に駐軍しました。
陳無宇と鮑国の兵は門の左に駐軍し、双方が対峙します。
 
暫くして晏嬰が端冕委弁(礼服礼冠)という姿で車に乗って来ました。
四家がそれぞれ人を送って晏嬰を招きましたが、晏嬰は招きに応じず、四家の使者にこう言いました「嬰(私)は君命に従うのみです。勝手に決めることはできません。」
閽者が門を開き、晏嬰は宮中に入りました。
 
景公が晏嬰に問いました「四族が共に攻めており、兵が寝門に至った。どう対応するべきだ?」
晏嬰が言いました「欒氏と高氏が累世の寵に頼って専行を憚らないのは、一日の事ではありません。高止が追放されたことにも、閭邱が殺されたことにも、国人が胥怨(怨恨)しています。今また寝門を攻めて来たので、その罪を赦すわけにはいきません。しかし陳氏と鮑氏も君命を待たず勝手に兵甲を起こしたので、無罪とはいえません。主公の裁きに従います。」
景公が言いました「欒氏と高氏の罪は陳氏と鮑氏より重い。欒氏と高氏を除くべきだ。誰なら任を完遂できるか?」
晏嬰が言いました「大夫王黒なら問題ありません。」
景公は命を発し、王黒に公徒を率いて陳氏と鮑氏を助けさせました。欒氏と高氏は敗れて大衢(大通り)まで撤退します。
国人で欒氏と高氏を嫌っていた者も集り、腕を振るって参戦しました。
 
高彊はまだ酒が完全に醒めていなかったため、力戦できません。欒施が先に東門に奔り、高彊が後に続きました。
王黒は陳氏、鮑氏と共に追撃して再び東門で戦います。
欒氏と高氏の家衆が徐々に離散し始めました。欒施と高彊は門を奪って脱出し、魯国に出奔します。
陳無宇と鮑国は両家の妻子を追放してその家財を二分しました。
すると晏嬰が陳無宇に言いました「子(あなた)は勝手に命を発して世居世襲重臣を追い出しました。さらに利を独り占めしたら人々の議論を招くでしょう。得た物を全て公室に返し、子が利を手にしなければ、人々は子の讓徳(謙譲の徳)を称賛します。その結果、さらに多くのものを得ることになります。」
陳無宇は「教えに感謝します。無宇(私)は命に従います」と言うと、分けられた食邑と家財を全て簿籍(名簿)に載せて景公に献上しました。
景公は大いに喜びました。
 
景公の母夫人を孟姫といいました。
陳無宇は秘かに孟姫にも財産を献上します。そのため孟姫が景公にこう言いました「陳無宇は強家を誅して除き、公室を振るわせて利を公室に返しました。この讓徳を埋没させてはなりません。高唐の邑を下賜するべきです。」
景公はこれに従いました。この後、陳氏は富み栄えるようになります。
 
陳無宇は善人として振る舞うことに心がけていたため、景公にこう言いました「かつて群公子が高蠆に追放されましたが、実際は無辜(無罪)なので呼び戻すべきです。」
景公は同意しました。
そこで陳無宇は景公の命と称して子山、子商、子周等を呼び戻しました。幄幕、器用および従者の衣屨(服靴)等、全て陳無宇が家財を使って個人的に準備し、人を派遣してそれぞれの公子を迎え入れます。諸公子は故国に還られるだけで既に喜んでいたのに、必要な器物が全て整っており、それらが陳無宇から与えられたと知って感激が止みませんでした。
 
陳無宇は更に公室に恩恵を与えるため、公子や公孫で俸禄がない者には自分の俸禄を分け与えました。
また、国中を訪ねて貧困孤寡(身寄りがない者)の者を探し、自分の粟(食糧)を分け与えました。
人に物を貸し出す時にはたくさん出し、返却される時には量を少なくして受け取ります。
貧困のため返す力がない者がいたら券(証文)を焼き捨てました。
その結果、国中が陳氏の徳を称え、命をかけて尽力することを望むようになりました。
史臣はこれを論じて「陳氏は民に厚く施し、後日、国を移す(奪う)きっかけを作った。また国君が徳を施さなかったため、臣下が私恩小恵を施すことで百姓の心を結ぶことができた」と言っています。
 
景公は晏嬰を相国として用いていました。晏嬰は民心が陳氏に帰しているのを見て、個人的に景公と話しました。刑罰を寛大にすること、税を軽くすること、貧困を救済して民に恩沢を施すこと等を勧めて人心を留めようとします。しかし景公は従いませんでした。
 
 
話は楚に移ります。
楚霊王が章華宮を完成させましたが、落成の儀式に参加した諸侯はほとんどいませんでした。これに対して晋が虒祁宮を築くと諸侯が皆祝賀したため、霊王は不平を抱き、伍挙と中原侵攻の計画を練ろうとしました。
伍挙が言いました「王が徳義によって諸侯を招いたのに諸侯が至らなかったのなら、それは諸侯の罪です。しかし土木(宮殿建築)によって諸侯を招いたのですから、諸侯が来ないことを譴責しても人を帰服させることはできません。どうしても兵を用いて中華に威を示したいのなら、罪がある者を征伐しなければ名分がありません。」
霊王が問いました「今、罪があるのはどこの国だ?」
伍挙が言いました「蔡の世子般が君父を弑殺して九年になります。王が初めて諸侯を集めた時、蔡君も会に参加しましたが、王は我慢して誅殺しませんでした。しかし弑逆の賊は子孫の代になっても法に伏すものです。本人ならなおさらでしょう。蔡は楚に近いので、蔡を討ってその地を兼併すれば義と利の両方を得ることができます。」
言い終わる前に近臣が報告しました「陳国の訃音(訃報)が届きました。陳侯溺が薨じ(死に)、公子留が位を継ぎました。」
伍挙が言いました「陳の世子偃師はその名が諸侯の策(資料。記録)にも載っています(諸侯にも知られています)。公子留が即位したとのことですが、偃師はどうしたのでしょう。臣が見るに、陳国で必ず変事があったはずです。」
 
陳でどのような事が起きたのか、続きは次回です。

第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(一)