戦国時代103 東周赧王(四十一) 范睢と白起 前259年(1)

今回は東周赧王五十六年です。二回に分けます。
 
赧王五十六年
259年 壬寅
 
[] 十月(秦の歳首)、秦の武安君白起が軍を三つに分けました。
王齕が趙の武安と皮牢を攻めて攻略し、司馬梗が北に向かって太原を平定します。上党の地が全て秦の支配下に入りました。
 
恐れた韓と魏が蘇代に厚幣を持たせて秦の応侯范睢を説得させました。『史記范睢列伝(第七十九)』からです。
 
蘇代が問いました「武安君は邯鄲(趙都)を囲むつもりですか?」
范睢は「そうだ(然)」と答えます。
蘇代が言いました「趙が滅んだら秦王が天下の王となり、武安君が三公になります。武安君は秦のために戦って勝利し、七十余城を取りました。南は鄢郢と漢中を定め、北は趙括の軍を擒とし、周公召公呂望の功も武安君には及びません。趙が亡んだら秦王が天下の王となり、武安君が三公になりますが、あなたはその下にいることができますか?あなたが下になりたくないと思っても、そうせざるを得ません。秦はかつて韓を攻めて邢丘を囲み(東周赧王四十九年266年に「秦が魏の邢丘を占領する」という記述があります。韓ではありません)、上党を苦しめました。しかし上党の民は皆、趙に帰順しました。天下が秦の民になることを喜ばなくなって久しくなります。今、趙を亡ぼしても北地の民は燕に入り、東地の民は斉に入り、南地の民は韓魏に入るので、あなたが得る民はほとんどいません。あなたは(戦いをやめて韓と趙に領土を)割譲させるべきです。武安君一人の功にすることはありません。」
范睢は納得して秦王にこう言いました「秦兵は既に疲労しています。韓と趙に領地を割譲させて講和を許し、士卒を休ませるべきです。」
秦王は同意し、韓が垣雍を、趙が六城を譲ったら講和することを許可しました。
この後、趙は六城の割譲を拒否しますが(下述)、韓は『史記秦本紀』に「韓が垣雍を献上する」とあるので割譲したようです。
 
正月、秦の各軍が兵を退きました。
この出来事があってから、白起と范睢は対立するようになりました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、この年(秦昭王四十八年)正月、秦昭襄王の孫異人(子楚。後の荘襄王。孝文王の子)に子が生まれました。名を政といいます。後の始皇帝です。
当時、異人は人質として趙にいました。政は趙都邯鄲で生まれたため、趙を氏としました。史書には趙政と書かれていることもあります。また、『史記正義』は「正月旦(恐らく元旦の意味)に生まれたので名を正とした」という説も紹介しています。
始皇帝誕生に関しては東周赧王五十八年(前257年)に詳しく書きます。
 
[] 趙王が趙郝(または「趙赦」)を秦に派遣して六県を割譲しようとしました。
しかし虞卿が反対して趙王に言いました「秦が王を攻めましたが、疲労したから兵を還したのですか?それともまだ余力があって攻撃を続けることができたのに、王(趙王)を愛しているから攻撃を止めたのですか?」
趙王が言いました「秦に余力はない。疲労したから還ったのだ。」
虞卿が言いました「秦はその力を使って得ることができない場所を攻め、疲労して帰りました。それなのに王は秦の力では取ることができない領土を贈ろうとしています。これは秦を助けて自分を攻撃するのと同じです。来年も秦が王を攻めにきたら、王を救うものはありません。」
趙王は躊躇しました。
 
やがて、楼緩が来て趙王にこう言いました「虞卿は一を知っていますが二を知りません。秦と趙が対立を続けたら天下が喜びます。なぜなら、各国は『強国を利用して弱国に乗じよう』と考えているからです。趙は地を割いて講和し、天下を疑わせ(趙と秦が講和すれば、天下は趙に秦の援けがあると疑い、隙に乗じようとは思わなくなります)、秦を安心させるべきです。そうしなければ、天下は秦の怒りを利用し、趙の疲れに乗じて、趙の地を瓜分(分割)するでしょう。趙が亡んだら秦への対処方法を語ることもできなくなります。」
 
楼緩の言葉を聞いた虞卿は再び趙王に会って言いました「楼子の計は危険です。天下をますます疑わせるだけで(趙と秦が講和したら天下が趙と親しまなくなります)、秦を安心させることはできません。なぜ彼は『天下に趙の弱体をさらすことになる』と言わないのでしょう。臣は領土を与えるなと言いましたが、絶対に与えてはならないというのではありません。秦は王に六城を要求しました。王はこの六城を斉に贈るべきです。斉と秦には深讎があります(『資治通鑑』胡三省注によると、斉は宣王、湣王以来、楚と親しくして秦を敵国としていました。かつて孟嘗君も諸侯を率いて秦を討伐し、函谷関に至りました)。王の言に従うのは当然でしょう。こうすれば、王は斉に対して領地を失いますが、秦の地を取って補い、天下に趙の能力を示すことができます。王がこの策を宣言すれば、兵が国境を窺う前に秦が自ら重賂を趙に贈って講和を求めるでしょう。秦の講和に同意すれば、それを聞いた韓魏が必ず王を重んじます。こうして王は一挙によって三国と親を結び、秦の道を変えることができます(秦は韓魏を脅迫して従わせていますが、趙は和によって韓魏と結んで秦のやり方を変えることができます)。」
趙王は「善し」と言って同意し、虞卿を東に送りました。斉と共に秦に対抗する策が練られます。
虞卿が趙に帰る前に秦の使者が趙に到着しました。趙に講和を求めるためです。
それを知った楼緩は逃走しました。
趙王は虞卿に一城を封じました。
 
史記趙世家』は本年(趙孝成王七年)に「趙王が還る(原文「王還」。どこから帰還したのかはわかりません)。秦の指示を聞かなかったため(六城の割譲をしなかったことを指します)、秦が邯鄲を包囲した。武垣令傅豹と王容、蘇射が燕の民衆を率いて燕の地に去った」と書いていますが、恐らく孝成王八年(翌年)か九年の誤りです(翌年再述します)
 
 
 
次回に続きます。