戦国時代109 東周赧王(四十七) 周王朝滅亡 前256年

今回で東周赧王の時代が終わります。
 
赧王五十九年
256年 乙巳
 
[] 秦の将軍摎が韓を攻めて陽城と負黍を取り、四万を斬首しました。
また、趙を攻めて二十余県を取り、九万を斬首したり捕虜にしました。
 
これは『史記・秦本紀』と『資治通鑑』の記述です。
『帝王世紀』は「秦が韓趙を攻めて大破した」と書いています。
 
史記楚世家』によると、楚の景陽が趙を救うために出兵して新中に至り、秦は兵を退きました。
『六国年表』にも「韓楚が趙の新中を救い、秦が兵を退いた」とあります。
『楚世家』の『索隠』は「趙には新中という地名がないので新市の誤り」としており、『正義』は「魏に寧新中邑があり、秦荘襄王(昭襄王の孫・子楚)に占領されて安陽に改名した」と注釈しています。しかし『秦本紀』と『六国年表』によると、秦が寧新中を攻略したのは前年(秦昭襄王五十年)の事です。『正義』の「荘襄王」は「昭襄王」の誤りかもしれません。
史記趙世家』は「趙将楽乗と慶舍が秦将信梁(『正義』によると王齕の号)の軍を攻めて破った」としています。
 
[] 『史記趙世家』によると、燕が昌壮(または「昌社」「昌城」)を攻め、五月に攻略しました。
 
[] 周王朝が滅亡します。『史記周本紀』『秦本紀』と『資治通鑑』からです。
秦が東進して韓の陽城、負黍と趙の二十余県を取ったため、西周(『史記周本紀』『秦本紀』では西周ですが、『資治通鑑』は赧王としています。赧王は西周の庇護下にあったので、『資治通鑑』は西周を赧王に置き換えたようです)は恐れて秦に背き、諸侯と合従しました。天下の鋭師を集めて伊闕から出撃し、秦国と陽城の交通を遮断させます。
 
怒った秦王は将軍摎に西周を攻撃させました。
西周西周武公。『資治通鑑』『十八史略』は赧王としています)は秦国に入って頓首し、罪を受け入れます。周(周王室。実際は西周の邑三十六、人口三万が秦に献上されました。
秦はこれを受け取り、西周(『資治通鑑』では赧王)を周に帰らせました。
この年、西周(武公)と赧王が死にました。
 
『帝王世紀』によると、秦は西周領を受け取ってから三川郡を置き、赧王を周に帰らせて庶人に落としました。赧王は庶人として寿を終えます。
 
赧王の跡を継いで周王になった者はいません。周王朝が滅亡します。
但し、西周公国は武公の死後に文公が跡を継ぎました。また、東周公国もまだ存在しています。
『周本紀』はこの年に「西周の民が東周に逃亡した。秦が周王室から九鼎宝器を奪い、西周公を𢠸狐に遷した」としています。『索隠』によるとこの西周君は武公の太子文公です。
『秦本紀』『六国年表』『資治通鑑』はこれを翌年に書いています(翌年再述します)
 
史記周本紀』は「この七年後に秦荘襄王が東周(版本によっては「西周」になっていますが誤りです)を滅ぼした」と書いています(荘襄王元年249年参照)。ここにおいて、周は東西の公国も併せて完全に滅亡します。
 
『帝王世紀』は周の治世を「三十七王八百六十七年」としており、『十八史略』もこれに従っています。
また、『十八史略』は「かつて夏王朝が亡び、九鼎が殷に遷った。殷が亡ぶと鼎は周に遷った。西周成王が鼎を陝洛邑に定めた時、卜をして『三十世に伝えて七百年を経る』と出た西周成王七年参照)。赧王によって周王朝が亡びるまでに、その年数を越えることができた」と書いています。
但し、西周が始まった年が明らかではないので、周の治世が何年続いたかは断定できません。
 
周赧王の死後について、『史記・周本紀』の『正義』は「王赧(赧王)の死後、天下に主がいなくなり、三十五年にわたって七雄が並争した。秦始皇の即位によって天下が一統し、その十五年後に海内は全て漢に帰した」としています。
 
『帝王世紀』は周王の子孫について書いています。
西漢武帝の元鼎四年(前113年)武帝が東巡して河洛黄河洛水付近)に来た時、周の徳を想って姫嘉(周王の子孫)を戸数三千、方三十里の地に封じました。これを周子南君といい、周の祭祀を行うようになります。
翌元鼎五年、姫嘉の弟昭の爵位を進めて承休侯にしました。封地は姫嘉に与えた城です。
平帝元始四年4年)、承休侯の後代を鄭公にしました。
東漢光武帝建武三年27年)、姫観を衛公に封じました(これらに関しては漢代に再述します)
 
[] 『史記趙世家』によると、秦が西周を滅ぼしたため、趙が警戒して大夫徒父祺(徒父が氏、祺が名)を国境に出兵させました。
 
[] 『史記趙世家』によると、(趙の)太子が死にました。但し、注(集解)には「この年に周赧王が死んだので、この『太子』は『天子』の誤りではないか」とあります。
 
[] 楊寛の『戦国史』はこの年に魯が滅んだとしています。
戦国史』によると、前261(東周赧王五十四年)、楚が魯を攻めて徐州を取りました。この時、魯君を改封して魯地の莒に遷しました。
256(本年)、楚が魯を完全に滅ぼしました。
 
これは『史記魯周公世家』の「魯頃公二年、秦が楚の郢を攻略し、楚頃王が東の陳に遷都する。十九年、楚が魯を攻めて徐州を取る。二十四年、楚考烈王が魯を滅ぼす。頃公は亡命して下邑(国外の小邑。または「卞邑(地名)」)に遷り、家人(庶民)となる。魯の祭祀が途絶える。頃公は柯で死ぬ」という内容が元になっています。
秦が楚の郢を攻略したのは東周赧王三十七年(前278年)なので、魯頃公二年は前278年になります。こここから、
魯頃公十九年 東周赧王五十四年(前261年) 楚が徐州を取る
魯頃公二十四年 東周赧王五十九年(前256年。本年) 魯が滅ぶ
となり、魯が滅んだ年が『戦国史』と一致します。
 
しかし『史記六国年表』は魯頃公元年を東周赧王四十三年(前272年)としており、秦が楚の郢を攻略したのは頃公即位前で、魯文公十八年になります(『魯周公世家』と合いません)
これを基準に『魯周公世家』の記述を見ると、
魯頃公二年に秦が楚の郢を攻略したというのは魯文公十八年の誤り
魯頃公十九年 秦昭襄王五十三年(前254年) 楚が徐州を取る
魯頃公二十四年 秦荘襄王元年(前249年) 魯が滅ぶ
となります。
 
これ以外に、『六国年表』『資治通鑑』は秦昭襄王五十二年(前255年。翌年)に「楚が魯を取り、魯君を莒に封じた」と書いていますが、『魯周公世家』『楚世家』には見られません(楊寛の『戦国策』には書かれています。但し、『六国年表』『資治通鑑』とは事件が発生した年が異なります)
秦昭襄王五十二年に楚が魯の地を取っているとしたら、その翌年の秦昭襄王五十三年に楚が再び魯から徐州を取るというのは、矛盾しているように思えます。そのためか、『六国年表』『資治通鑑』とも楚が徐州を取ったという記述をしていません。
『六国年表』『資治通鑑』の記述はこうなります。
魯文公十八年(前278年) 秦が楚の郢を攻略する
魯頃公十八年 秦昭襄王五十二年(前255年) 楚が魯を取り、魯君を莒に封じる
魯頃公二十四年 秦荘襄王元年(前249年) 魯が滅ぶ
 
『帝王世紀』は魯頃公の終わりの年を「辛亥」としており、辛亥の年は秦孝文王元年(前250年。前年)に当たります。恐らくこれは魯が滅んだ年ではなく、頃公が死んだ年です。
もし『帝王世紀』が正しく、辛亥の年に頃公が死んだとしたら、秦孝文王元年の翌年に当たる秦荘襄王元年(前249年)に魯が滅んだとする『史記六国年表』『資治通鑑』の記述は誤りになります。
 
 
 
次回から秦の時代に入ります。

戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年