第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(四)

*今回は『東周列国志』第六十九回その四です。
 
晏嬰が朝門まで来ると外で十余人の官員が待っていました。それぞれ峨冠博帯(高い冠と太い帯。礼服)という姿で、整然と二列に並んでいます。
晏嬰は楚国の豪傑だと判断し、急いで車を降りました。
楚の官員達が一人一人前に出て晏嬰に挨拶してから、序列に順じて左右に分かれて立ち、朝見の時を待ちます。
官員の中から一人の後生(若者)が口を開きました「大夫は夷維(晏嬰の出身地)の晏平仲ではありませんか?」
晏嬰が見ると、鬥韋亀の子鬥成然でした。郊尹の官に就いています。
晏嬰が言いました「そうです。大夫には何か教えがありますか?」
鬥成然が言いました「斉は太公が封じられた国で、兵甲は秦楚に匹敵し、貨財は魯衛に通じていると聞きました。しかし桓公が一度霸を称えた後は簒奪が相次ぎ、宋晋に攻撃され、今日では朝は晋に、夜は楚に仕え、君臣が道路を奔走して安寧な年がなくなってしまいました。これはなぜですか?斉侯の志は桓公の下であるはずがなく、平仲の賢も管子に譲らないでしょう。君臣が徳を合わせながら経綸(国家の大計)を展開しようとせず、旧業を振興させて先人の緒(旧功。発端)を輝かせることもなく、逆に大国に仕えて自ら臣僕になるとは、まさに愚昧であり理解できないことです。」
晏嬰が響く声で言いました「時務(形勢)を理解できる者を俊傑といい、機変に通じることができる者を英豪といいます。周の綱(綱領。政治)が統制を失ってから、五霸が相次いで興り、斉晋が中原で覇を称え、秦は西戎の覇に、楚は南蛮の覇になりました。人材が代わる代わる現れているとはいえ、状況は気運によって変わっているのです。晋文公は雄略でしたが死んですぐに戦禍に遭い、秦穆公は強盛でしたがその子孫は衰弱し、荘王の後の楚も晋呉の侮りを受けています。斉だけのことではありません。寡君は天運の盛衰を知り、時務の機変に精通しているので、兵を養って将を鍛え、時を待って行動しようとしているのです。また、今日の交聘は隣国の往来の礼であり、王制に則っています。なぜ臣僕というのでしょうか?汝の祖父子文は楚の名臣であり、時を知って変に通じていましたが、子(あなた)は嫡裔(直接の子孫)ではないのではありませんか?なぜ悖(道理に合わないこと)を言うのでしょう。」
鬥成然は恥じ入り、首を縮めてさがりました。
 
すぐに左の列から一人の士が問いました「平仲は時を知って変に通じている士だと自負しているが、崔慶の難において、斉の臣には賈挙以下、節を尽くして義のために死んだ者が無数おり、陳文子(陳須無)も馬十乗しかない身分だったのに国を去って従わなかった。子(汝)は斉の世家(代々の臣)でありながら、上は賊を討伐できず、下は位を避けることができず、中は死に至ることができなかった。なぜ名声と官位を惜しんで手放さなかったのだ?」
晏子が見ると楚の上大夫(字は子瑕)でした。穆王の曾孫です。
晏嬰が言いました「大節を抱いている者は小諒(小さな見解や信用)に拘らず、遠慮がある者は近謀に固執しないものです。国君が社稷のために死んだのなら、臣下も従うのが当然だと聞いています。しかし先君の荘公は社稷のために死んだのではなく、荘公に従って死んだ者は全て私暱(近臣。寵臣)でした。嬰(私)は不才ですが、寵幸の列に自ら身を列し、死によって栄誉を得ることはできません。そもそも、人臣が国家の難に遭ったら、能力があれば国のために図り、なければ去るものです。私が去らなかったのは新君を定めて宗祀を保とうと思ったからであり、官位を貪ったからではありません。もし皆が去ってしまったら、国事はどうするのですか?それに、君父の変事はどの国にもあります。子(あなた)の見解では、楚国の諸公で朝廷に列している者は全て賊を討って国難のために命を棄てることができる士だというのですか?」
最後の一言は楚の熊虔(霊王)が国君を殺したのに諸臣が奉戴していることを暗示しています。他者を責めるだけで自分を責めることを知らない公孫瑕には返す言葉がありませんでした。
 
また暫くして、右の列から一人が進み出て言いました「平仲!汝は『新君を安定させて宗祀を保つため』と言ったが、大げさではないか!崔慶が共に策謀し、欒鮑が並んで争った時、汝はその間にいながら傍観するだけで、奇計を出して策をめぐらせることがなかった。他者によって事が成されただけではないか。心を尽くして国に報いようという者がこの程度なのか?」
晏嬰が見ると右尹鄭丹(字は子革)です。
晏嬰が笑って言いました「子(あなた)は一を知って二を知らないようです。崔慶の盟では、嬰(私)だけが参加しませんでした。四族の難においては、嬰は国君がいる場所にいました。剛の方法でも柔の方法でも機に応じて動くのは、君国を守ることを重視しているからです。傍観者が窺い知ることではありません。」
 
左の列からまた一人が出て言いました「大丈夫は時勢を正し、主にめぐり会い、大きな才略を持ち、必ず大きな規模(抱負)があるものだ。しかし私が平仲を見たところ、鄙吝(吝嗇。心が狭い)の夫(男)に過ぎないではないか。」
晏嬰が見ると太宰啓疆です。
晏嬰が問いました「足下はなぜ嬰が鄙吝だとわかるのですか?」
啓疆が言いました「大丈夫が明主に仕えて相国という尊貴な地位に登ったら、服飾を美しくして車馬を飾り立てることで国君の寵錫(恩恵)を明らかにするものだ。なぜ敝裘(破れた皮衣)と羸馬で外邦(外国)を訪れるのだ。禄食が足りていないのか?わしが聞いたところでは、平仲は狐裘をあまり着ないので、三十年経っても換えないという。祭祀の礼では豚肩が豆(皿)を覆うこともない。これが鄙吝ではなくて何だというのだ?」
晏嬰は手を叩いて大笑いし、こう言いました「足下の見識はなぜそのように浅いのですか!嬰が相位に立ってから、父の家族は皆、裘を着ており、母の家族は皆、肉を食べています。妻の家族にも凍餒(凍えと餓え)に苦しむ者はいません。草莽(民間)の士で嬰を待って火を挙げる者(晏嬰の援助を得て生活する者)は七十余家もいます。私の家は倹約に勉めていますが、三族は肥えています。この身は吝嗇のようですが、群士は充足しています。このようにして国君の寵錫を明らかにする方が、大きいのではありませんか?」
 
言い終わる前に右の列から一人が前に進み、晏嬰を指さしながら大笑して言いました「成湯の身長は九尺もあって賢王となり、子桑の力は万夫に匹敵して名将になったという。古の明君達士はどれも容貌が魁梧で雄勇に並ぶ者がいなかったから、その時代に功を立てて後代に名を残すことができたのだ。今、子(汝)の体は五尺にも満たず、力は一雞(鶏)にも勝てないのに、いたずらに口舌を使って自分が有能だと見せようとしている。恥ずかしくないのか!」
晏嬰が見ると公子真の孫で、囊瓦(字は子常)でした。楚王の車右の職にいます。
晏嬰は微笑してこう言いました「秤錘は小さいとはいえ千斤を圧し、舟漿はいたずらに長いだけで水の中で使われるといいます。僑如は長身だったのに魯に戮され、南宮万は絶力だったのに宋に戮されました。足下は長身で力も大きいようですが、彼等に近いのではありませんか?嬰は自分が無能だと知っていますが、質問があるから答えているのです。自らこの口舌を誇示しているのではありません。」
 
囊瓦が答えられないでいるところに、「令尹罷が来ました」という報告が入りました。
諸臣は姿勢を正して待ちます。
伍挙が晏嬰に揖礼して朝門に迎え入れ、諸大夫に「平仲は斉の賢士だ。諸君の口が敵うはずがない」と言いました。
 
すぐに霊王が殿に登りました。伍挙が晏嬰を連れて謁見します。
霊王は晏嬰を一見するとこう問いました「斉国には人がいないのか?」
晏嬰が言いました「斉の国中で人々が気を吐いたら雲になり、汗を揮ったら雨になり、歩く者は肩と肩がぶつかり、立っている者は脚と脚がぶつかっています。なぜ人がいないというのですか?」
霊王が問いました「それならなぜ小人を我が国に聘問させたのだ?」
晏嬰が言いました「敝邑が使者を出す時には常典(決まり)があります。賢者は賢国に使いし、不肖の者は不肖の国に使いし、大人は大国に使いし、小人は小国に使いします。臣は小人でしかも最も不肖なので使者として楚に来ることになりました。」
楚王は恥じ入りましたが、心中では晏嬰の賢才に驚きました。
 
使者としての任務を終えた時、郊人(郊外の居民)が合歓橘を献上しました。
霊王が一つ取って晏嬰に下賜すると、晏嬰は皮が着いたまま食べ始めます。
霊王は手を叩いて大笑いし、こう言いました「斉人は橘を食べたことがないのか?なぜ皮を剥かないのだ?」
晏子が答えました「『国君に下賜された物は、瓜桃は削らず、橘柑は剥かない(受君賜者,瓜桃不削,橘柑不剖)』と言います。今、大王の賜を受けましたが、大王は私の国君と同じです。大王が皮を剥くように諭していないのですから、全て食べないわけにはいきません。」
霊王は思わず敬意を覚え、席を与えて酒を勧めました。
 
暫くすると三四人の武士が一人の囚人を縛って殿下を通りました。
霊王がすぐに問いました「囚人はどこの者だ?」
武士が答えました「斉国の人です。」
霊王が問いました「何の罪を犯したのだ?」
武士が答えました「盗みを働きました。」
霊王が晏嬰を顧みて言いました「斉人には盗みの習慣があるのか?」
晏嬰は霊王が自分を嘲笑するために策を弄していると悟り、頓首してこう言いました「江南に橘(甘い果物)という樹がありますが、江北に移すと枳(酸っぱい果物)に変わるといいます。それは地土(土地)が異なるからです。今、斉人は斉で生まれても盗人にならないのに、楚に至ったら盗人になります。これは楚の地土によるものでしょう。斉に何の関係があるのですか?」
霊王は久しく黙ってからこう言いました「寡人は子を辱めようとしたのに、逆に子によって辱められてしまった。」
霊王は晏嬰に対して厚く礼を用いてもてなし、斉国に帰らせました。
 
斉景公は晏嬰の功を嘉し、上相の尊位と千金の裘を与え、地を割いて加封しようとしました。しかし晏嬰は全て辞退します。
景公は晏嬰の邸宅を拡大しようとしましたが、晏嬰はそれも固辞します。
ある日、景公が晏嬰の家を訪ねました。
景公が晏嬰の妻を見て問いました「あれが卿の内子(妻)か?」
晏嬰は「そうです(然)」と答えました。
すると景公が笑って言いました「老いて醜い女だ。寡人に愛娘がおり、若くて美しい。卿に嫁がせよう。」
晏嬰が答えました「少姣(若くて美しいこと)によって人に仕える者は、それによって、後年、老悪(老いて醜いこと)になった時も互いに託せるようにするのです(少姣によって結婚するのは、老後を託す相手を作るためです)。臣の妻は老いて醜くなりましたが、かつて託を受けました(夫婦として助け合うことを約束しました。今は老いて醜くなりましたが、かつては少姣でした)。なぜそれを裏切ることができるでしょう。」
景公は感嘆して「卿は妻を裏切らない。君父に対してならなおさらだろう」と言いました。
景公はますます晏嬰の忠心を信じ、政治を委ねるようになります。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。

第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(一)