第六十九回 楚霊王が陳蔡を滅ぼし、晏平仲が荊蛮を服す(三)

*今回は『東周列国志』第六十九回その三です。
 
楚共王には寵妾がおり、五人の子が生まれました。長子を熊昭といい、即位して康王になりました。次子は囲で霊王です。即位後、虔に改名しました。三子は比で、字を子干といいます。四子は黒肱で、字を子晳といいます。そして末子が公子棄疾です。
共王は五子の中から世子を立てようとしましたが、決められませんでした。そこで群神の祭祀を行い、玉璧を持って秘かにこう祈祷しました「神に請う。五人の中で賢才と福を持つ者を一人選び、社稷の主に立てることを。」
璧は太室(太廟)の庭に埋められ、目立たない印がつけられました。
五人の子は三日間の斎戒をしてから順番に廟に入って祖先を拝謁します。ちょうど璧がある場所で拝謁した者が神から選ばれた者とされました。
最初に長子の康王(この時はまだ即位していません)が入り、璧を埋めた場所を越えて拝しました。
霊王は手と肘が璧の上にとどきました。
子干と子晳は璧から遠く離れた所で拝しました。
棄疾はまだ幼かったため、傅母が抱いて廟に入ります。ちょうど璧の紐の上で拝礼しました。
共王は心中で神が棄疾を守っていると思い、一層寵愛するようになりました。
共王が死んだ時、棄疾はまだ若かったため、康王が即位しました。しかし楚の大夫で璧を埋めて廟を拝させた事を聞いた者は、皆、棄疾が楚王になるべきだと知っています。朝呉が「当璧」の祥と言ったのはこの故事を指します(「当」は「ちょうど」「当たる」という意味です)
棄疾はこの話が拡がって霊王に猜疑されることを恐れたため、わざと怒って朝呉を帰らせました。
 
朝呉が城に帰って棄疾の言葉を伝えました。
世子有が言いました「国君が社稷のために死ぬのは正しい道理だ。某(私)はまだ喪を終わらせていないので正式に即位していない。しかし既に国君に代わって政治を行い国を守っている。よってこの城と存亡を共にするのは当然のことだ。讎人に膝を屈して奴隸のように生きるわけにはいかない。」
世子有は城を固守して楚軍に抵抗しました。
夏四月に包囲が始まり冬十一月に至ります。
公孫帰生は過労のため病にかかり、起き上がることもできなくなりました。
城中の食糧が尽きて餓死者が半数を数えます。城を守る者は疲困し、既に敵を防ぐ力はありません。
そこに楚軍が蟻のように次々と城壁を登って来ます。ついに城が落ち、世子有は姿勢を正して城楼に座ったまま縛られました。
 
棄疾は城に入って居民を慰撫してから、世子有を囚車に乗せ、蔡洧と一緒に霊王に送って戦勝の報告をしました。
朝呉は当璧の言があったため霊王には送らず、蔡に留めます。
暫くして帰生が死にました。朝呉は棄疾に仕えることにしました。
これは周景王十四年の事です。
 
楚霊王は既に楚都郢に帰っていました。
ある日、夢で神人が会いに来ました。神人は九岡山の神を自称し、こう言いました「わしを祭れば汝に天下を取らせよう。」
目が覚めた霊王は大喜びし、車を準備させて九岡山に向かいました。
ちょうどそこに棄疾の捷報が届きました。霊王は世子有を殺して九岡山の神を祭る犧牲に使おうとします。申無宇が諫めて言いました「昔、宋襄公が子を殺して次睢の社で犠牲に使ったため、諸侯が叛しました。王は前者の轍を踏むべきではありません。」
しかし霊王はこう言いました「彼は逆般(逆賊般)の子だ。罪人の後代を諸侯と較べる必要はない。六畜として用いるのは当然なことだ。」
申無宇が退席してから嘆いて言いました「王の汰虐(驕慢暴虐)は甚だしい。善い終わりを迎えることはできないだろう。」
申無宇は告老(引退)して田地に帰りました。
 
蔡洧は世子有が殺されたと知って三日間哀泣しました。霊王は蔡洧の忠心を認めて縄を解き、自分に仕えさせます。
蔡洧は父を霊王に殺されたため、秘かに復讐の志を抱いていました。そこで霊王にこう言いました「諸侯が晋に仕えて楚に仕えないのは、晋が近く楚が遠いからです。今、王は陳蔡の地を全て所有したので、中華(中原)と地を接するようになりました。もし陳・蔡の城を広大にし、それぞれに千乗の兵を置いて威を諸侯に示せば、四方で畏服しない者はいなくなります。その後、兵を呉越に用いて先に東南を服し、次に西北を図れば、周に代わって天子になれます。」
霊王は蔡洧の諛言を気に入り、日に日に寵用するようになりました。
こうして陳と蔡の城が改めて修築され、高さも広さも倍になります。
棄疾が蔡を滅ぼした功績によって蔡公に任命されました。
更に東と西に二つの不羹城を築き、楚の要害としました。
 
霊王は天下に楚よりも強い国がないと信じ、天下を得る日を待ち望みました。
ある日、太卜に守亀(卜用の亀)で卜をさせ、こう問いました「寡人はいつになったら王になれるか?」
太卜が言いました「国君は既に王を称しています。なぜ今更それを問うのですか?」
霊王が言いました「楚と周が並立しているから真の王ではない。天下を得た者こそ真の王だ。」
太卜は亀を焼き、亀裂を見て言いました「占った事は成せません(所占無成)。」
霊王は亀を地に投げ捨てると、袖をめくり上げて大声で言いました「天よ!天よ!区区(小さい様子)とした天下すらわしに与えようとしないのか!この熊虔を何のために生んだのだ!」
すると蔡洧が言いました「事は人為にかかっています。朽ち果てた骨に何がわかるというのでしょう。」
霊王は機嫌を直しました。
 
 
諸侯は楚の強盛を恐れました。小国は朝見し、大国は聘問します。貢献の使者が絶えず往来しました。
その中の一人、斉国の上大夫晏嬰(字は平仲)に関する故事を紹介します。晏嬰は斉景公の命を奉じて修聘(友好を確認する訪問)のために楚国に向かいました。
それを知った霊王が群下に言いました「晏平仲は五尺にも満たない体だが、賢名は諸侯に聞こえている。今、海内の諸国の中で楚が最も強盛だ。寡人は晏嬰に恥をかかせて楚国の威を張りたいと思うが、卿等に妙計はないか?」
太宰薳啟疆が密奏して言いました「晏平仲は応対(受け答え。対応)を得意とするので、一事だけでは辱めることができないでしょう。そこでこうするべきです。」
薳啟疆の計を聞いた霊王は大喜びしました。
 
その夜、薳啟疆は卒徒を動員して郢城東門の傍に小竇(小さな穴)を掘りました。大きさはちょうど五尺です。
完成すると門を守る軍士にこう命じました「斉国の使臣が来たら城門を閉じてこの竇から入らせろ。」
 
やがて、晏嬰が到着しました。破裘(古くて破れた皮衣)を着ており、軽車を羸馬(痩せた馬)が牽いています。
晏嬰が東門の前まで来ましたが、城門は固く閉ざされていました。晏嬰は車を止め、御者に命じて門衛に門を開けるように伝えさせます。
すると門衛は小門を指さして「大夫の出入りはこの竇からしてください。広さには充分余裕があります。なぜ門を開く必要があるのですか」と言いました。
晏嬰が言いました「これは狗門(犬の門)だ。人が出入りする門ではない。狗国(犬の国)に使者として来た者は狗門から入り、人国に使者として来た者は人門から入るものだ。」
門衛はこの言葉を急いで霊王に伝えました。
霊王は「わしが戯れようとしたのに、逆に戯られてしまった」と言って東門を開くように命じました。
晏嬰が城内に入れられます。
 
郢都は城郭が堅固で市井が密集しており、真に地霊人傑(土地に恵まれて人材が豊富)な江南の勝地でした。
晏嬰が城内の様子を観察していると、二乗の車騎が大衢(大通り)を走って来ました。どちらの車にも長身で鬣(恐らく「髭」)が長い選び抜かれた大漢が乗っており、盔甲は鮮やかで、手には大弓と長戟を握っています。その様子は天神のようでした。彼等が晏嬰を迎えに来たのは、背が低い晏嬰と対比させて辱めるためです。
しかし晏子は「今日は聘好のために来たのであり、攻戦のためではない。なぜ武士が必要なのだ!」と一喝して二人を片隅に退け、車を駆けて直進しました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十九回その四に続きます。