第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(二)

*今回は『東周列国志』第七十回その二です。
 
子干と子晳が自分の衆を率いて蔡公と合流しました。
朝呉は観従を陳に駆けさせます。
陳公に会うために昼夜兼行した観従は、道中で陳人夏齧に会いました。夏徵舒の玄孫で、観従とは以前から面識があります。
観従が蔡復国について話すと、夏齧が言いました「私は陳公の門下に仕えており、陳復国の計を考えていました。今、陳公は病のため起きられないので、子(あなた)が会いに行く必要はありません。子は先に蔡に帰ってください。私が陳人を率いて一隊になりましょう。」
観従は帰って蔡公に報告しました。
 
朝呉は蔡洧にも密書を送って内応するように誘いました。
蔡公は家臣須務牟を先鋒に、史を副先鋒に、観従を嚮導(先導)に任命し、精甲を率いて先行しました。
そこに陳の夏齧も陳の兵を率いて到着します。
夏齧が言いました「穿封戍は既に死にました。私が大義によって陳人を諭し、義行を援けにきました。」
蔡公は大喜びし、朝呉に蔡人を率いて右軍を、夏齧に陳人を率いて左軍を編成させました。
蔡公は「掩襲(急襲)の計は遅れをとってはならない」と言うと、夜を通して郢に向かいました。
 
蔡洧は蔡公の兵が来たと聞き、まず心腹の者を城外に派遣して投降の意志を伝えました。
鬥成然が蔡公を郊外で出迎えます。
令尹罷が兵を集めて守りを設けようとしましたが、蔡洧が門を開いて蔡軍を城内に入れました。須務牟が真っ先に進入して叫びました「蔡公が楚王を乾谿で攻めて殺した!大軍がこの城に迫っている!」
国人は霊王の無道を嫌っており、蔡公が王になることを願っていたため、誰も抵抗しませんでした。
罷は世子禄を奉じて出奔しようとしましたが、須務牟が兵を率いて王宮を囲んでいるため中に入れません。罷は家に帰って自刎しました。
 
蔡公の大軍が到着し、王宮に攻め入りました。世子禄と公子罷敵に遭遇して二人とも殺します。
蔡公は王宮を掃除して子干を王に立てようとしました。
子干は辞退しましたが、蔡公が「長幼の秩序を廃してはなりません」と言ったため、子干が即位しました。
子晳が令尹に、蔡公が司馬になります。
朝呉が秘かに蔡公に問いました「公が最初に義挙を唱えたのに、なぜ王位を人に譲ったのですか?」
蔡公が言いました「霊王はまだ乾谿におり、国が安定していない。それに、二兄を越えて自ら立ったら人々が非難するだろう。」
朝呉は蔡公の意図を察し、こう言いました「王卒(王の兵)は暴露(露天の下に置かれること)されて久しいので、帰りたいと思っています。人を送って利害を説けば必ず壊滅します。その後に大軍が続けば、王を擒にできます。」
蔡公は納得し、観従を乾谿に派遣しました。
観従が将兵に言いました「蔡公が既に楚に入り、王の二子を殺して子干を王に立てた。ここに新王の令がある。『先に帰順した者には田里を返すが、遅れて帰順した者は劓(鼻を削ぐ刑)に処す。(霊王に)従う者は罪が三族に及び、飲食を送る者も同罪とする。』」
これを聞いた軍士は大半が離散しました。
 
霊王は乾谿の台で酔って横になっていました。そこに鄭丹が慌てて報告に来ます。
霊王は二人の子が殺されたと聞き、床の上から地面に身を投げて大哭しました。
鄭丹が言いました「軍心が既に離れています。王は速やかに帰国するべきです!」
霊王が涙を拭いて問いました「人が子を愛すのは、寡人と同じか?」
鄭丹が答えました「鳥獣でも子を愛すことを知っています。人ならなおさらです。」
霊王が嘆息して言いました「寡人は多くの人の子を殺してきた。人がわしの子を殺すのも不思議ではない。」
暫くして哨馬が報告しました「新王が蔡公を大将に任命して派遣しました。蔡公は鬥成然と共に陳蔡二国の兵を率いて乾谿に向かっています。」
霊王が激怒して言いました「寡人の成然に対する待遇は薄くなかった。それなのになぜわしに叛すのだ!一戦して死ぬことはあっても、手をこまねいて縛られるつもりはない!」
霊王は営寨を引き払って兵を発し、夏口から漢水を上って襄州に至りました。楚都郢を襲うつもりです。
しかし士卒が道中で次々に逃走しました。霊王自ら剣を抜いて数人を殺しましたが、逃走を止めることはできません。訾梁に到着した時には、従っている者はわずか百人になっていました。
霊王は「事を成すことはできない」と言うと、冠服を脱いで岸の柳に掛けました。
鄭丹が言いました「王は暫く近郊に入って国人の離反の様子を調べるべきです。」
霊王が言いました「国人は皆叛した。なにを調べるというのだ。」
鄭丹が言いました「それなら他国に出奔し、救援の師を求めればいいでしょう。」
霊王が言いました「諸侯の誰がわしを愛しているというのだ。一度失った大福は再び来ないという。自ら辱めを受けに行くだけだ。」
鄭丹は自分の計が用いられないと知り、自分も罪を得ることを恐れて倚相と共にこっそり楚に帰りました。
 
霊王は鄭丹がいなくなったため、成す術なく、釐沢の間を徘徊しました。従人は全て離散し、霊王一人だけになります。
空腹に襲われたため郷村を探して食を求めようとしましたが、道が分かりません。村人の中にも楚王を知っている者がいましたが、四散逃走してきた軍士から新王の法令が厳しいと聞いていたため、刑を恐れて遠くに逃げてしまいました。
霊王は三日にわたって水も食料も喉を通すことができず、飢えて地に倒れ、動けなくなりました。ただ両眼だけを開いて道を歩く人を見ており、面識がある者に出会えれば救星になると考えていました。
 
突然、一人の男が歩いて来ました。以前、門を守っていた官吏で、当時は涓人とよばれていた者です。名を疇といいます。
霊王が叫びました「疇よ!わしを助けてくれ!」
涓人疇は霊王が呼んでいるのを見たため、やむなく近くまで行って叩頭しました。
霊王が言いました「寡人は餓えて三日になる。汝が寡人のために一盂(食器)の飯を探してきてくれれば、寡人の呼吸の命(息をするだけのわずかな命)を延ばすことができる。」
疇が言いました「百姓は皆、新王の令を懼れています。臣はどこから食を得ればいいのですか?」
霊王は一度嘆息すると疇を傍に座らせました。疇の股を枕にして暫く安息します。
しかし疇は霊王が眠りにつくのを待って、土の塊を股の代わりに枕とし、逃走しました。
目が覚めた霊王が疇を呼びましたが返事がありません。枕を触ると土の塊になっています。
霊王は思わず天に叫んで痛哭しました。それは精気のない声だけの慟哭でした。
 
すぐにまた一人の男が小車に乗って来ました。
霊王らしい声が聞こえたため、車から下りて見に行きます。すると本当に霊王がいたため、男は地に倒れるように拝礼し、こう問いました「大王はなぜこのようなことになってしまったのですか?」
霊王が涙で顔中を濡らして問いました「卿は誰だ?」
男が答えました「臣は姓を申、名を亥といい、芋尹申無宇の子です。臣の父は二回も王の罪を得ましたが、王は父を誅殺しませんでした。そのため、往年、臣の父は臨終の際にこう遺言しました『わしは王から二回も不殺の恩を受けた。後日、もし王に難があったら、汝は必ず命を棄てて従え。』臣はこの言葉を強く心に留めて忘れることがありませんでした。最近、郢都が既に落ちて子干が自立したと聞いたので、星夜を駆けて乾谿に行きましたが、王を見つけることができず、一路、王を探しながらここまで来たのです。天に遣わされてここでめぐり会えるとは思いませんでした。今はどこも蔡公の党でいっぱいです。王は他の場所に行くべきではありません。臣の家は棘村にあり、ここから遠くないので、王はとりあえず臣の家に入り、そこで改めて商議しましょう。」
申亥は跪いて乾糒を献上しました。霊王は無理に呑み込み、やっと立てるようになります。
申亥は霊王を抱きかかえて車に乗せ、棘村まで運びました。
 
今まで霊王は章華の台に住み、宮殿を高くし、宮室を深くしていました。しかし今日、申亥が住む農荘の家を目の当たりにしました。篳門(柴の門)や蓬の戸は頭を低くしなければ入れません。甚だしい淒涼を感じて涙が止まらなくなります。
申亥が跪いて言いました「王は寬心(安心)してください。この地は幽僻で、人の往来がありません。数日ここに住んで国内の状況を確認し、改めて進退の計を考えましょう。」
霊王は悲しくて言葉が出ません。
申亥が再び跪いて飲食を進めましたが、霊王は泣くだけで口もつけませんでした。
申亥は霊王を喜ばせるため、自分の二人の娘に王の侍寝を命じました。しかし王は衣を着たまま帯も解かず、一晩中悲嘆します。
五更(午前三時から五時)の頃、悲しむ声が聞こえなくなり、二人の娘が戸を開けて父に報告しました「王が寝所で自縊しました。」
申亥は霊王の死を深く悲しんで慟哭し、自ら殯殮(死者の服を換えて棺に入れること)すると、二人の娘も殺して殉葬しました。
後人はこの出来事を論じて「申亥が霊王の恩に感じて葬儀をしたのは正しいが、二人の娘を殉葬したのは行き過ぎだ」と評価しました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十回その三に続きます。