第七十回 兄を殺して楚平王が即位し、晋昭公が盟を尋ねる(三)

*今回は『東周列国志』第七十回その三です。
 
この頃、蔡公は鬥成然、朝呉、夏齧等の諸将を率いて乾谿の霊王を攻めようとしていました。
途中で鄭丹と倚相の二人に会います。二人は楚王の状況を詳しく報告し、こう言いました「侍衛は既に離散し、(王は)一人で死を求めています。某(私)はそれを見るのが忍びなくなり、去って来ました。」
蔡公が問いました「汝等はどこに行くつもりだ?」
二人が答えました「国内に帰るつもりです。」
蔡公が言いました「公等はとりあえず我が軍中に入れ。共に楚王の行方を探ってから一緒に帰ろう。」
蔡公は大軍を率いて霊王を探しました。しかし訾梁まで来ても消息がつかめません。
一人の村人が蔡公の到着を知り、楚王の冠服を献上してこう言いました「三日前、岸の柳の上で得ました。」
蔡公が問いました「汝は王の生死を知っているか?」
村人は「わかりません」と答えます。
蔡公は冠服を受け取ると重賞を与えて去らせました。
 
蔡公が更に霊王を探そうとしましたが、朝呉が進み出て言いました「楚王が衣冠を棄てたのは勢が窮して力が尽きたからです。恐らく、溝渠で死んだのでしょう。これ以上探す必要はありません。今は子干が位にいます。もし彼が号を発して令を施し、民心を集めたら、(王位を)図ることができなくなります。」
蔡公が問いました「それではどうする?」
朝呉が言いました「楚王は外におり、国人は行方を知りません。人心がまだ定まっていないうちに、数十の小卒に敗兵のふりをさせて城の周りでこう叫ばせます『楚王の大兵(大軍)がもうすぐ到着するぞ!』それから鬥成然を帰国させて子干にこれこれと報告させます。子干と子晳はどちらも懦弱で無謀な輩なので、この報告を聞いたら必ず驚き恐れて自尽します。こうすれば、明公はゆっくり軍旅を整えて帰国でき、宝位を安定させて座り、枕を高くして憂いがありません。素晴らしいことではありませんか?」
蔡公は納得しました。
 
蔡公はまず観従に小卒百余人を率いて敗兵を偽らせ、郢都に奔らせました。小卒は城の周りを駆けながら「蔡公は兵が敗れて殺された!楚王の大兵がすぐに到着する!」と叫びます。
国人はこれを信じて驚愕しました。
すぐに鬥成然が到着し、小卒と同じ話をしました。国人はますます信じ、城壁に登って遠くを眺めます。
鬥成然が走って子干に報告しました「楚王の怒りは甚だしく、あなたが勝手に立った罪を討ちに来ました。蔡般や斉の慶封の故事を繰り返そうとしています。あなたは早く計を考えて辱めから逃れるべきです。臣も命を守るために逃げるつもりです。」
鬥成然は言い終わると遁走しました。
 
子干は子晳を招いて相談しました。子晳が言いました「朝呉が我々を誤らせたのです。」
兄弟は抱き合って泣きました。
そこに宮外からまた報告が来ました「楚王の兵が既に城に入りました!」
子晳は先に佩剣を抜き、喉を斬って死にました。子干も慌てて剣を取って自剄します。
宮中が大乱し、宦官や宮女が驚き恐れて次々に自殺しました。宮掖後宮に自殺者の死体が並び、号哭の声が絶えません。
間もなくして、兵を率いた鬥成然が再び入って来ました。死体をかたずけてから百官を率いて蔡公を迎え入れます。
国人は真相を知らず、霊王が来たと疑いました。しかし実際に入城したのは蔡公だったため、前後の報告が全て蔡公の計によるものだったと初めて気づきました。
 
蔡公は入城して即位し、名を熊居に改めました。これを平王といいます。
かつて共王が神に向かって「ちょうど璧の上に立って拝した者を国君にする」と祈祷しましたが、ここに至ってそれが現実になりました。
 
国人は霊王が死んだことをまだ知らないため、喧噪が続いています。ある夜、霊王が帰って来たという噂が流れたため、男女が驚いて起き上がり、門を開いて外を探しました。
平王はこれを憂いて観従と密謀しました。まず観従を漢水の辺に派遣し、別人の死体に霊王の冠服を着せて漢水の上流から下流に流します。観従は「楚王の屍首(死体)を得た」と宣言して訾梁で殯(死体を棺に入れる葬礼)を行い、帰って平王に報告しました。
偽の報告を受けた平王は鬥成然に葬事を行わせ、諡号を霊王と定めました。
その後、榜(立札)を設けて国人を慰撫しました。人心がやっと安定します。
三年後、平王が再び霊王の死体を探し、申亥が埋葬した場所を報告したため、霊王は改葬されました。
 
 
司馬督等は徐を包囲していましたが、久しく功がなかったため、霊王に誅されることを恐れて帰国できず、秘かに徐と通じていました。営塁を構えて守るだけで徐を攻撃しようとしません。
やがて、霊王の兵が壊滅して殺されたと聞くと、包囲を解いて兵を還しました。
しかし豫章に到着したところで呉の公子光に要撃されて破れました。司馬督と三百乗の兵車は全て呉軍に捕獲されます。
公子光は勝ちに乗じて楚の州来の邑を奪いました。これらは全て霊王の無道が招いたことです。
 
 
楚平王は楚の民衆を安定させてから、公子の礼で子干と子晳を埋葬しました。
功労を記録して賢才を用い、鬥成然を令尹に、陽(字は子瑕)を左尹に任命します。
掩と伯州犁の冤死を念じて伯州犁の子郤宛を右尹に、掩の弟射と越を大夫にしました。
朝呉、夏齧、蔡洧は下大夫の職を拝します。
公子魴は勇敢なので司馬になりました。
当時、伍挙は既に死んでいました。平王は生前の直諫の美を嘉し、子の伍奢を連に封じました。号して連公といいます。伍奢の子伍尚も棠に封じられて棠宰になりました。号して棠君といいます。
啓疆や鄭丹等の旧臣は以前の官職が守られました。
観従に何の官職を望むか問うと、観従は「先人(先祖)が開卜(卜を行うこと)をしていたので、卜尹を望みます」と答えました。平王はこれに従いました。
群臣が恩を謝しましたが、朝呉と蔡洧だけは感謝せず、官を辞して去ろうとしました。
平王が理由を問うと二人が言いました「王を援けて師を興し、楚を襲ったのは、本来、蔡国を復したかったからです。しかし今、王の大位は既に定まったのに、蔡の宗祀は血食(祭祀)を得ることができません。臣に何の面目があって王の朝廷に立てるでしょう。昔、霊王は功を貪って兼并したために人心を失いました。王がその行為の逆を行えば、人心が悦んで帰服するでしょう。もし逆を行いたいのなら、陳と蔡の祀を復すのに越したことはありません。」
平王は「善し」と言うと、人を送って陳と蔡の後嗣を探させました。こうして陳の世子偃師の子である呉と蔡の世子有の子である廬が捜し出されます。
平王は太史に吉日を選ばせて、呉を陳侯に封じました。これを陳恵公といいます。また、廬を蔡侯に封じました。これを蔡平公といいます。二人とも国に帰って宗祀を奉じました。
朝呉と蔡洧は蔡平公に従って蔡に帰りました。夏齧も陳恵公に従って陳に帰ります。彼等が率いていた陳蔡の衆(兵)もそれぞれ主に従い、厚く犒労が加えられました。
かつて霊王が二国から重器貨宝を奪って楚の府庫にしまいましたが、これらも全て返還されました。
霊王が荊山に遷した六つの小国も故土に還され、侵犯がなくなります。
各国の君臣上下が雷のように大きな歓声を挙げました。その様子は枯木が再び栄えて朽骨が復活した時のようです。
これは周景王十六年の事です。
 
平王の長子は名を建、字を子木といい、蔡国鄖陽の封人(官名)の娘が生みました。
当時、既に成長していたため、世子に立てられました。連尹伍奢が太師に任命されます。
楚人費無極は以前から平王に仕えており、阿諛を得意としていたため、平王に寵信されて大夫になりました。費無極は世子に仕えることを願い出て少師に任命されます。奮揚が東宮(太子宮)司馬になりました。
平王が即位して四境が安定すると、平王は声色の娯楽に浸るようになりました。呉が州来を取っても平王は報復しようとしません。
費無極は世子の少師になりましたが、いつも平王の左右にいて淫楽に従っていました。
世子建は費無極の諂佞を嫌って疏遠にします。
 
令尹鬥成然が功を誇って専横したため、費無極が讒言によって殺しました。陽が令尹になります。
世子建が頻繁に鬥成然の冤罪を訴えると、費無極は心中で危惧し、世子建と秘かに対立するようになりました。
 
後に、費無極が鄢将師を平王に推挙しました。鄢将師も右領になって寵を受けます。
 
 
 
*『東周列国志』第七十回その四に続きます。