戦国時代115 秦王政(一) 趙の李牧 前246~244年

今回から秦王・政の時代です。天下統一に向かって急速に動き始めます。
 
秦王政
秦王政は荘襄王の子で、後に天下を統一して始皇帝と称します(天下統一までは「秦王政」と書きます)
 
秦王政元年
246年 乙卯
 
[] 秦の蒙驁が秦に背いた晋陽(太原郡。前年参照)を討って平定しました。
 
[] 韓が秦に水工鄭国(人名)を派遣しました。鄭国は仲山(地名)から涇水を引き、北山を沿って東の洛水に繋げます。
大規模な水利工程によって秦国を疲弊させることが目的です。
 
渠が完成する前に、鄭国が韓の間者だということが発覚しました。秦人は鄭国を処刑しようします。
鄭国が言いました「臣が来たのは確かに韓の数年の命を延ばすためです。しかし渠が完成すれば、秦にとって万世の利となります。」
秦は鄭国に水渠(人工の河川)を完成させました。
史記河渠書(巻二十九)』によると、完成したのは三百余里におよぶ大水渠で、「鄭国渠」とよばれました。
 
鄭国渠によって豊かな水が四万余頃の地を潤し、一畝で一鍾の収穫を得られるようになりました。
関中がますます豊かになり、秦の天下統一の基礎が作り出されました。
 
 
 
翌年は秦王政二年です。
 
秦王政二年
245年 丙辰
 
[] 秦の麃公(麃は邑名です。名は伝わっていません)が魏の巻(邑名)を攻めて三万を斬首しました。
 
[] 趙が廉頗を假相国に任命し、魏を攻めて繁陽を取りました。
 
この年に廉頗が假相国に任じられたというのは『資治通鑑』の記述です。「假」は「代理」の意味です。
しかし『史記廉頗列伝(巻八十一)』を見ると、廉頗は信平君に封じられた時に假相国に任じられています(秦昭襄王五十六年251年参照)
また、秦荘襄王元年(前249年)には『史記趙世家』に「趙の假相大将武襄君楽乗」という名が見られます。

[] 趙孝成王が在位二十一年で死に、子の偃が即位しました。これを悼襄王といいます。
 
即位したばかりの趙悼襄王は廉頗ではなく武襄君楽乗を重用しました。廉頗の地位を楽乗に代えさせます。
怒った廉頗は楽乗を攻め、楽乗は逃走しました。
廉頗も罪を恐れて魏に出奔します。
しかし久しく経っても魏は廉頗を用いませんでした。
この頃、趙がしばしば秦の攻撃を受けていたため、趙王は再び廉頗を用いたいと思いました。廉頗も趙に帰りたいと思っています。
趙王は使者を送って廉頗の様子を探りました。
ところが廉頗の仇郭開が使者に多額の金を贈って廉頗の悪い情報を報告させました。
廉頗は使者に会うと、一回の食事で一斗の米と十斤の肉を食べました。また、甲冑を身に着けて馬に乗り、健在であることを示しました。
使者は帰国して趙王にこう報告しました「廉将軍は老いたとはいえ、善く食事をしました。しかし臣と一緒に座っている間に、三回も尿のため席をはずしました。」
趙王は廉頗が老いたと思い、呼び戻すのをあきらめました。
それを知った楚が人を送って秘かに廉頗を招きます。
廉頗は楚将になりましたが、功を立てることなく、しばしば「私は趙人を指揮したい」と言って嘆きました。
廉頗は後に楚の寿春で死にます。
 
 
 
翌年は秦王政三年です。
 
秦王政三年
244年 丁巳
 
[] 秦を大飢饉が襲いました。
 
[] 秦の蒙驁が韓を攻めて十二城を取りました。
 
秦が韓から奪った城の数を『資治通鑑』は「十二城」としていますが、『史記秦始皇本紀』『韓世家』『蒙恬列伝』『六国年表』では「十三城」になっています。
 
史記秦始皇本紀』はこの後に「秦将王齮が死んだ」と書いています。韓攻撃に参加して死んだのか、秦国で死んだのかはわかりません。

[] 趙王が李牧を将に任命し、燕を攻めて武遂と方城を取りました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記廉頗列伝(巻八十一)』も廉頗が出奔した翌年の事としているので、本年(秦王政三年244年)になります。
しかし『史記趙世家』『史記燕世家』『史記六国年表』では秦王政四年(前243年。翌年)に書かれています。
 
李牧は趙の北辺の良将で、かつて代と雁門を守って匈奴に備えていました。以下、燕を攻撃する前の出来事です(具体的にいつの事かは不明です)
李牧は状況に応じて官吏を任命する権利をもち、市租(税)も莫府(幕府。将帥がいる場所)に入れて士卒の費用とすることが許されました。
李牧は毎日数頭の牛を殺して将兵をねぎらいました。兵士に騎射を習わせ、烽火を設け、多数の間諜を放って匈奴の動静を探ります。但し、出陣を禁止して将兵にこう命じました「匈奴が入盗したら急いで堡塁に入って守りを固めよ。捕虜を得ようとする者(出撃しようとする者)は斬る。」
匈奴が侵攻する度に烽火が挙がり、それを見た李牧の兵は必ず守りを固めました。
数年の間、趙軍は戦うことはなく、損失もありませんでした。
 
李牧が戦おうとしないため、匈奴も趙兵も李牧を臆病者だと思うようになりました。趙王も李牧を譴責します。しかし李牧が態度を変えないため、怒った趙王は別の者を派遣して李牧と交代させました。
新しい将が指揮する趙軍は一年余の間に頻繁に出撃を繰り返しましたが、その結果、敗戦が重なって多くの損失を招き、辺境での農耕牧畜ができなくなりました。
趙王は再び李牧を派遣しようとしましたが、李牧は病と称して門を閉ざします。
趙王が強制すると、李牧が言いました「どうしても臣を用いるというのなら、以前の方法を採ることを許可してください。それなら命を受けます。」
趙王は同意しました。
李牧は辺境に行ってから以前と同じように戦いを避けました。
匈奴は数年の間、何も得ることができませんでしたが、やはり李牧が臆病者だと信じます。
 
辺境の士卒は日々、賞賜を与えられましたが、戦いに出ることはありません。やがて、将兵は一戦を願うようになります。
そこで李牧は車千三百乗、騎馬一万三千頭、百金の士(百金の賞賜を与えられた勇士)五万人、彀者(射術を得意とする者)十万人を選んで訓練を始めました。
戦いの準備が整うと、辺境で畜牧を行い、家畜や民を野に放ちました。それを見て匈奴の小部隊が辺境に侵入します。趙兵は負けたふりをして退却し、わざと数十人を匈奴に捕えさせました。
 
報告を聞いた匈奴単于(「単于」は匈奴の主を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、単于は広大な様子を意味する言葉です)は辺境で趙人が牧畜を行っていると知り、大部隊を率いて趙に侵攻しました。
これに対して李牧は複数の奇陣を作り(多為奇陳)、左右両翼から匈奴軍を撃って大破しました。恐らく複数の奇陣というのは彀者(弓兵)を中心にした正面の堅固な陣で、左右両翼は車、騎馬および百金の士で形成されています。
この戦いで匈奴は十余万騎が殺されました。
李牧は更に襜襤(または「澹林」。代地の胡族)を滅ぼし、東胡(後の鮮卑、烏丸)を破り、林胡を降しました。
単于は敗走し、十余年にわたって趙の辺境に近づかなくなりました。
 
資治通鑑』から辺境の状況です。
戦国時代、天下の冠帯の国(中原の国)は七つあり、そのうち三国(秦・趙・燕)の辺境が戎狄に接していました。秦国は隴以西に緜諸、緄戎(または「混戎」「昆戎」。周代の昆夷。春秋時代の犬戎)、翟(狄)の戎があり、岐漆の北に義渠、大荔、烏氏、衍の戎があり、趙国の北には林胡、楼煩の戎があり、燕国の北には東胡、山戎がいました。
それぞれ渓谷に分散して住み、君長がいます。百余の戎が集まっていることもありましたが、統一はされませんでした。
後に義渠が城郭を造って国を守るようになりましたが、秦が少しずつ領地を奪っていき、恵王(恵文王)が義渠の二十五城を取りました。昭王(昭襄王)の時代には宣太后が義渠王を誘い出して甘泉宮で殺し、兵を発して義渠を滅ぼしました。また、隴西、北地、上郡に長城を築いて胡に対抗しました。
趙武霊王は北の林胡、楼煩を破って長城を築き、代から陰山下を通って高闕まで塞(軍事拠点)を設けました。雲中、雁門、代には郡が置かれました。
燕将秦開は胡で人質として生活していたため、胡人の信用を得ていました。しかし秦開は帰国してから東胡を襲い、東胡は千余里退きました。燕も造陽から襄平まで長城を築き、上谷、漁陽、右北平、遼東に郡を置いて胡に対抗しました。
戦国時代の末期になって匈奴が強大になりました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴は淳維の後代で、夏后氏の苗裔です。淳維は獯粥ともいいます。
夏王朝の最後の王桀が無道だったため、成湯(商王朝初代王)が桀を鳴條に放逐しました。桀は三年後に死にましたが、その子獯粥(淳維)が桀の妾達を娶って北野(中国の北辺)に逃げました。中原諸国はこれを匈奴とよぶようになります。
または、堯の時代には葷粥、殷代は獯粥、周代には獫狁とよばれており、秦が匈奴とよび始めたともいいます。
 
資治通鑑』の内容に少し補足します。
戦国時代後期、匈奴が成長して脅威になったため、匈奴と接する燕秦の三国がそれぞれ長城を修築しました。但し、匈奴はまだ国としての体系が整っていません。中原で秦帝国が滅亡し、楚の項羽と漢の劉邦が戦っている頃、匈奴に冒頓という単于が現れて、匈奴を一大強国に成長させていきます。
 
[] 『史記趙世家』に、「趙が魏に大備(または「大脩」)した(大備魏)」とあります。
「大備」について、『正義』には「大備の礼」とあります。趙と魏が関係を改善したという意味だと思いますが、詳細はわかりません。
 
趙が平邑、中牟に通じる道を開こうとしましたが、完成できませんでした。二邑は魏に属しています。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、この年十月、秦の将軍蒙驁が魏の畼と有詭を攻撃しました。どちらも魏の邑です。二邑は翌年に攻略されます。
資治通鑑』は秦の暦を使って十月を歳首としていますが、『秦始皇本紀』は正月を歳首にしているようです。あるいは記述に混乱があるのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。