第七十三回 伍員が呉市で乞い、専諸が王僚を刺す(四)

*今回は『東周列国志』第七十三回その四です。
 
姫光が専諸を招いて「魚腸」の剣を与えました。専諸は姫光が言葉を発する前にその意図を悟り、発憤して言いました「王を殺すことができます。二弟は遠く離れ、公子も使者として国を出ました。彼は孤立しているので、我々に対して何もできません。しかし死生の時を自分で勝手に決めるわけにはいきません。老母に話してから命に従います。」
専諸は帰って母に会いました。泣くだけで何も言いません。
母が言いました「諸は何をそのように悲しんでいるのですか。公子が汝を用いようとしているのではありませんか?私達は家を挙げて公子の恩養を受けています。大徳には報いなければなりません。忠と孝は両立できないものです。汝は早く行きなさい。私を心配する必要はありません。汝が人の事を成して名を後世に残せるのなら、私は死んでも不朽です。」
それでも専諸は別れようとしませんでした。
すると母が「清泉を飲みたくなりました。河まで行って取って来てください」と言いました。
専諸は言いつけに従って河に水を汲みに行きます。
家に戻ると老母は堂にいませんでした。妻にどこに行ったか問います。
妻が言いました「姑は先ほど『疲れたから戸を閉めて休みたい』と言い、邪魔をしないように命じました。」
専諸は心中で疑い、窓を開けて中に入りました。老母は床の上で自縊していました。
 
専諸は痛哭してから殯殮(死者の服を換えて棺に入れること)を済ませて西門の外に埋葬しました。
その後、専諸が妻に言いました「私は公子の大恩を受けてきた。今まで死ねなかったのは老母がいたためだ。しかし今、老母は既に亡くなった。私は公子の急に赴くつもりだ。私が死んでも汝等母子は必ず公子の恩眷(恩恵愛顧)を受けることができる。私の事を気にかける必要はない。」
言い終わると姫光に会いに行きました。
 
専諸が母の死を話すと、姫光も心苦しくなり、専諸を慰めました。
長い時が経ってから、王僚の事を論じ始めます。
専諸が言いました「公子が享(宴)を設けて呉王を誘うというのは如何でしょう。もし王が来るようなら、十中八九は成功します。」
姫光が王僚に謁見してこう言いました「一人の庖人(料理人)が太湖から来ました。最近、炙魚(焼き魚)を学び、その味はとても鮮美で他の炙とは異なります。下舍(自分の家)に足を運んでぜひ賞味してください。」
王僚は魚炙が好物だったため、喜んで同意して「明日、王兄(姫光)の府を訪問しよう。過度な出費は要らぬ」と言いました。
その夜、姫光は甲士を窟室(地下室)に隠しました。更に伍員に命じて秘かに死士百人を手配し、外で待機させます。
その後、王をもてなす宴が準備されました。
 
翌朝、姫光が再び王僚を招きました。
王僚が入宮して母に告げました「公子光が酒宴の準備をして私を招きました。何か謀があるのでしょうか?」
母が言いました「光の心気は怏怏(不満な様子)としており、常に愧恨の色が見えます。今回の招きは、恐らく好意によるものではありません。なぜ辞退しないのですか?」
王僚が言いました「辞退したら間隙を生みます。警備を厳しくすれば懼れることはないでしょう。」
王僚は●猊(●は「犭」に「唐」)の甲冑(●猊は猛獣の一種。甲冑の模様に使われました)を三重に着ました。また、兵衛を動員して王宮から姫光の家の門まで並べます。兵が街衢(大通り)を埋め、隙間なく連なりました。
 
王僚が車で門まで来ると、公子光が迎え入れて拝礼し、王を席に案内しました。公子光は王の傍に坐ります。
王僚の親戚や近信(近臣)が堂の階段を満たしました。席に侍る力士百人は皆長戟を持ち、利刀を帯びて王の左右に密着しています。
庖人が饌(食事)を献上する時は、皆、庭下で検査を受けてから衣服を着替え、膝で歩いて前に進みました。十余人の力士が剣をもって庖人を挟み、一緒に前に進みます。庖人が饌を置く時も王を仰ぎ見てはならず、退出する時も膝で歩きます。
姫光が觴(杯)を献じて敬意を表しました。すると突然(恐らく「搓足」。脚を揉むこと)し、苦痛を堪えるふりをして言いました「光の足疾(足の病。怪我)が再発し、痛みが心髓に達しています。大帛できつく縛らなければ痛みは止みません。王は暫くくつろいでお座りになり、(臣が)足を縛ってから宴に参加することをお許しください。」
王僚は「王兄の自由にすればいい」と答えます。
姫光は足を引きずりながら(一歩一躓)奥の部屋に入り、窟室に潜りました。
 
暫くして、専諸が魚炙を献上することが伝えられました。それまでの包人と同じように厳しく検査されます。
「魚腸」の短剣は魚腹の中に隠されていましたが、誰も気がつきませんでした。
力士が専諸を挟み、王の前まで膝で歩かせます。
専諸が手で魚を切り開いて王に進めようとした時、突然、匕首を抜き出し、王僚の胸を突きました。手の勢いがとても強かったため、三層の堅甲を貫いて背脊(背中)に突き出ます。
王僚は一声を叫んですぐに息が絶えました。
侍衛の力士が一斉に集り、刀戟をもって専諸を切り刻みます。堂中が大乱に陥りました。
 
姫光は窟室の中で成功を知り、甲士を放ちました。双方が交戦します。一方は専諸が成功したと知って十倍の威力を発揮しますが、もう一方は王僚が死んだのを見て勢いを三分ほど失っています。
王僚の衆は半分が殺され半分が逃走しました。王僚が設けた軍衛も伍員が率いた兵に襲われて殺されるか四散します。
 
伍員等は姫光を奉じて車に乗り、入朝して群臣を集めました。
姫光は王僚が背約して自ら即位した罪を国人に宣言し、こう言いました「今日の事は、光が位を貪ったのではない。王僚の不義が招いたことである。光は仮に大位に即くが、季子の帰国を待って奉じるつもりだ。」
姫光は王僚の死体を回収して礼に則った殯殮(葬儀)を行いました。
また専諸も厚葬し、その子専毅を上卿に封じました。
伍員は行人の職に就き、臣下ではなく客礼で遇されることになります。
市吏被離も伍員を推挙した功によって大夫の職に抜擢されました。
姫光は財を散じて粟(食糧)を発し、窮民を救済しました。国人が安んじます。
 
姫光は慶忌が国外にいることを嫌い、足が速い者を派遣していつ帰国するかを確認しました。姫光自ら大軍を率いて江上で慶忌の帰りを待ちます。
慶忌は道中で異変を聞き、急いで逃走しました。
姫光が駟馬(四頭の馬が牽く車)に乗って追撃しましたが、慶忌は車を棄てて走り、飛ぶように去っていきます。その速さは馬でも追いつけません。
姫光が矢を集中して射るように命じました。しかし慶忌が飛んでくる矢を手でつかんで防いだため、一本も中りません。姫光は慶忌を捕らえられないと判断し、西鄙(西境)の備えを厳しくするように命じて呉国に帰りました。
 
数日後、季札が晋から帰りました。王僚が死んだと聞いてすぐ墓に向かい、哀悼して喪服に着替えます。
姫光は自ら墓所を訪れて季札に位を讓り、こう言いました「これは祖父や諸叔の意志です。」
しかし季札はこう応えました「汝が求めてそれを得たのだ。なぜまた讓ろうとするのだ?国が祭祀を廃すことなく、民が主を廃さないのなら、位に立つことができる者が私の国君だ(国と民が無事なら誰が国君でも同じだ)。」
姫光は強く要求することができず、自ら呉王の位に即きました。闔閭と号します。
季札は臣下の地位を守りました。周敬王五年の事です。
 
季札は国を争うことを恥とし、老齢を理由に引退して延陵に移りました。終生、呉国(呉都)に入らず、呉の政治にも関わらなくなります。当時の人々はこれを高尚な姿勢だと称賛しました。
季札が死ぬと延陵に埋葬され、後に孔子が訪れて自ら墓碑に「有呉延陵季子之墓」と書きました。
 
季札は賢人として名を残していますが、宋代の儒者は「季札が国を辞したから乱を生むことになった。これは彼の賢人の名における玷(欠点)である」と評価しました。
 
掩餘と燭庸は潜城で進退に窮していました。いくら待っても援軍が来ず、危難から脱する計を謀りかねて困惑しています。そこに姫光が国主を弑殺して位を奪ったという報告が来ました。二人は声を挙げて大哭します。
掩餘が言いました「光は既に弑奪を行った。我々を許容することはないだろう。楚国に奔りたいと思うが、楚が信用しない恐れもある。正に『家があるのに奔れず、国があるのに投じることができない(有家難奔,有国難投)』という状況だ。どうするべきだろう。」
燭庸が言いました「今、ここを困守していますが、このままではきりがありません。とりあえず夜に乗じて僻路(辺鄙な路)から小国に奔り、後の事を考えましょう。」
掩餘が言いました「楚兵は前後を包囲している。飛鳥が籠に入ったのと同じだ。どうやって脱出するのだ。」
燭庸が言いました「私に一計があります。両寨の将士に命を伝え、偽って明日楚兵と決戦すると宣言しましょう。夜半になるのを待って兄と一緒に微服(庶民の服)で秘かに走れば、楚兵に疑われることはありません。」
掩餘は納得しました。
 
両寨の将士が馬に餌を与えてから食事をとり、軍令を待って陣を構えました(翌日の決戦の準備です)
その間に掩餘と燭庸は数人の心腹と共に哨馬の小軍を装い、本営から抜け出しました。
掩餘は徐国に奔り、燭庸は鐘吾に奔ります。
空が明るくなってから、両寨の将士がやっと主将がいなくなったことを知りました。士卒が混乱し、それぞれ船隻を奪って呉国に逃げ帰ります。数えきれないほどの甲兵(甲冑兵器)が棄てられ、全て郤宛の水軍に奪われました。
 
楚の諸将が呉の乱に乗じて呉国を攻撃しようとしました。
しかし郤宛が反対して言いました「彼等は我が国の喪に乗じた。これは非義な事である。なぜ我々がそれに倣う必要があるのだ。」
郤宛は沈尹戍と一緒に兵を還し、呉から奪った俘(捕虜や戦利品)を献上しました。
楚昭王は郤宛の功を認めて奪った甲兵の半分を下賜します。この後、昭王が郤宛に意見を求める時は、ますます敬いの礼を加えました。
費無極がこれに深く嫉妬し、一計を案じて郤宛を害しようとします。
 
費無極がどのような計策を用いるのか。続きは次回です。

第七十四回 囊瓦が無極を誅し、要離が慶忌を刺す(一)