第七十三回 伍員が呉市で乞い、専諸が王僚を刺す(三)

*今回は『東周列国志』第七十三回その三です。
 
呉軍はまず罪人三千を送り出して楚の右営を急襲させました。
この日は秋七月晦日(末日)です。兵家は晦日に兵を動かすことを忌避したため、胡子髠も沈子逞も陳の夏齧も戦の準備をしていませんでした。
呉兵が来たと聞き、それぞれ営を開いて迎撃します。
罪人達には紀律がないため、ある者は奔走し、ある者は突然止まり、無秩序に行動しました。三国は散乱した呉兵を見て、功を争って追いかけまわします。その結果、自軍の隊伍も混乱してしまいました。
そこに姫光が左軍を率いて進撃します。姫光は夏齧に遭遇し、一戟で馬の下に落としました。
胡と沈の二君は慌てて路を奪い、逃走しようとします。
しかし公子掩餘の右軍も到着し、二君は網に飛び込んだ鳥のように逃げ場を失いました。二人とも呉軍に捕えられます。軍士で死んだ者は数えきれず、甲士八百余人が生け捕りにされました。
姫光は胡と沈の二君を斬首するように命じました。但し捕えた甲士は釈放し、楚の左軍に向かって奔らせ、こう言わせました「胡、沈の二君と陳の大夫が殺された!」
許、蔡、頓三国の将士は心胆を地に落としたように驚き、戦わずにそれぞれ逃げ道を探しました。
王僚は左右の二軍を集結させ、泰山が崩れるような勢いで楚の中軍を襲います。
中軍の越が陣を構える余裕もないまま、軍士の大半が四散しました。呉兵が楚軍に殺到し、死体が野を埋めて血の流れが川を作りました。
越は大敗し、五十里奔ってやっと危機から脱しました。
姫光は蔡に進んで鄖陽に入り、楚夫人を迎えて還ります。蔡人は呉軍に抵抗しませんでした。
 
越が敗兵を集めました。半分しか残っていません。姫光が単師で鄖陽の楚夫人を奪ったと聞き、昼夜を駆けて蔡に向かいます。しかし楚軍が蔡に入った時には、呉軍が鄖陽を離れて既に二日が経っていました。
越は追いつけないと知ると、天を仰いで嘆息し、「わしは関を守るように命じられたのに亡臣を捕えることができなかった。これは無功だ。しかも七国の師を失って国君の夫人を失ってしまった。これは罪だ。一つの功もないのに二つも罪を負っている。楚王に再び会わせる顔がない」と言って自縊しました。
 
楚平王は呉軍の勢いが盛んだと聞いて大いに懼れました。囊瓦を令尹に命じて陽の位を継がせます。
囊瓦は郢城が低くて狭いため、東に土地を開いて大城を築くように進言しました。旧城より七尺も高く、二十余里も広い城が築かれます。旧城は紀山の南にあったため紀南城と名付け、新城を郢とよんで遷都しました。
また西にも一城を築いて右臂(右腕)とし、麦城と号しました。三城は「品」の形を作り、互いに情勢を連絡しあいます。
楚人はこれを囊瓦の功績としましたが、沈尹戍が笑って言いました「子常(囊瓦)は徳政を修めることに務めず、いたずらに建築を興した。もし呉兵が来たら、たとえ十の郢城があっても何の益もない。」
 
囊瓦は雞父の恥を雪ぐため、舟楫を整えて水軍の訓練をしました。
三月、水手(水軍)が習熟すると、囊瓦は舟師を率いて大江(長江)から呉の国境に直進し、武を誇示して引き返しました。
呉の公子光は楚軍が国境を侵したと聞き、夜を通して援けに行きましたが、国境に来た時には、囊瓦は既に引き返していました。
姫光が言いました「楚は武を誇示して還ったばかりだ。辺人は備えをしていないだろう。」
姫光は秘かに軍を出して巣を滅ぼし、更に鐘離を滅ぼして凱旋しました。
 
楚平王は二邑が滅ぼされたと聞いて驚愕し、心疾(心臓病)を患いました。久しく経っても快癒しません。
周敬王四年、平王の病が重くなります。平王は囊瓦と公子申を榻前(病床の前)に招き、太子珍を託して死にました。
囊瓦が郤宛に相談して言いました「太子珍はまだ幼く、その母は太子建のために招かれたので正(地位が正しいこと。道理があること)ではない。子西は年長者で善を好む。年長者を立てれば名に順があり(名分があり)、善を建てれば国が治まる。子西を立てれば楚の頼りになるだろう。」
郤宛が囊瓦の言を公子(子西)に伝えると、公子申は怒ってこう言いました「太子を廃したら君王の穢行(淫行)を明らかにすることになる。太子は秦から出ており(母は秦女です)、その母は既に国君の夫人に立てられている。なぜ嫡嗣ではないというのだ。嫡を棄てて大援(国外の大きな援け)を失ったら、国の外も内も憎むだろう。令尹が利を使って私に禍をもたらそうとしているのは、病狂(発狂。狂気)のためか?今後再びこの事に言及したら私が殺してやろう。」
囊瓦は懼れて太子珍に喪事を主宰させ、楚王に立てました。太子珍は軫に改名します。これを昭王といいます。
囊瓦は令尹を続け、伯郤宛が左尹に、鄢将師が右尹になりました。費無極も太子の師傅という恩があったため、共に国政を行います。
 
鄭定公は呉人が楚夫人を連れて帰ったと聞き、人を送って珠玉簪珥を呉に届けました。太子建を殺した恨みを解くためです。
楚夫人が呉に入ると、呉王は西門の外に邸宅を与え、羋勝を楚夫人(祖母)につかえさせました。
 
平王の死を聞いた伍員は一日中胸を叩いて大哭しました。
公子光が不思議に思って問いました「楚王は子(汝)の仇人だ。その死を聞いたら喜ぶべきではないのか。なぜ逆に大哭するのだ?」
伍員が言いました「某(私)は楚王のために哭しているのではありません。彼の頭を晒して恨みを雪ぐことができず、牖下(窓の下。家の中)で終わりを迎えさせてしまったことを憎んでいるのです。」
公子光も嘆息しました。
 
伍員は仇討ちが平王の身に及ばせなかったことを恨み、三夜眠りにつきませんでした。その間に一つの計策を生み出します。
伍員が姫光に問いました「公子は大事を行いたいのに、つけいる隙が無いのではありませんか?」
姫光が答えました「昼夜ともその事を考えているが、まだ便(機会)を得ていない。」
そこで伍員が言いました「今、楚は王が死んだばかりで朝廷には良臣がいません。公子は呉王に『楚の喪による混乱に乗じて南伐をすれば霸業を図ることができる』と上奏するべきです。」
姫光が問いました「私を将として派遣したらどうする?」
伍員が答えました「公子が誤って車から落ち、足を怪我すれば、王が公子を派遣することはありません。それから、掩餘と燭庸を将にするように推挙し、更に鄭衛と連携して共に楚国を攻めるために公子慶忌を使者として派遣させれば、一網にして三翼を除くことができるので、呉王の死は目下に迫ります。」
姫光が問いました「三翼が去ったとしても、延陵季子が朝廷にいる。私の簒奪を見たら私を容認しないのではないか?」
伍員が言いました「呉と晋は和睦しています。季子を晋に派遣して中原の釁(間隙。状況)を窺わせましょう。呉王は大事を好みますが計には疎いので、必ず従います。彼が遠国から帰った時には、大位が既に定まっているので、再び廃立を議すことはできません。」
姫光は思わず下拝して「孤(私)が子胥を得たのは、まさに天の賜(恵)だ」と言いました。
 
翌日、姫光が喪に乗じて楚を討つ利を王僚に説きました。王僚は喜んで話を聞きます。
姫光が言いました「この事は某(私)が労を尽くすべきですが、車から落ちて足脛を負傷してしまい、医療を受けているので、労に堪えることができません。」
王僚が問いました「それでは誰を将にするべきか?」
姫光が言いました「このような大事は親信の者でなければ託せません。王が御自分で選ぶべきです。」
王僚が問いました「掩餘と燭庸はどうだ?」
姫光が言いました「相応しい人選です(得人矣)。」
続けて姫光が言いました「かねてから晋は楚と霸を争っており、呉は属国となっていました。しかし今、晋は既に衰微し、楚もしばしば敗戦しています。諸侯は離心して帰す所がありません。南北の政は東に帰すはずです。公子慶忌に鄭衛の兵を集めさせて共に楚を攻め、延陵季子に晋を聘問させて中原の釁を観察しましょう。王が舟師を選んで訓練し、後の準備を進めれば、霸業を成すことができます。」
喜んだ王僚は掩餘と燭庸に楚を討伐させ、季札を晋国に送って聘問させました。ただし慶忌だけは派遣しませんでした。
 
掩餘と燭庸は二万の兵を率いて水陸から並進し、楚の潜邑を包囲しました。
潜邑大夫は城を堅守して戦おうとせず、楚に人を送って急を告げます。
この時、楚昭王は即位したばかりで、国君は幼く、群臣は足のひっぱり合いをしていたため、呉の兵が潜を包囲したと聞き、朝廷を挙げて恐慌しました。
公子(子西)が進言しました「呉人は喪に乗じて攻めて来ました。もしも兵を出して迎撃しなかったら、こちらの弱体を示し、敵の深入しようとする野心を開かせることになります。臣の愚見に従うなら、速やかに左司馬沈尹戍に命じて陸兵一万で潜を救わせ、更に左尹郤宛に水軍一万を率いさせ、淮汭の流れに乗って東下し、呉兵の後ろを絶たせるべきです。呉軍に首尾(前後)から敵を受けさせれば、坐して擒にできます。」
昭王は喜んで子西の計を用い、二将を派遣して水陸分かれて進軍させました。
 
掩餘と燭庸は潜邑を包囲していましたが、諜者が「楚の救兵が来ました」と報告したため、驚いて兵を分けました。半分が城を包囲し、半分が敵を迎え撃ちます。
沈尹戍は営塁の壁を堅めて呉軍と戦わず、四方に人を送って樵汲の路(柴を刈ったり水を汲むための道)を石の営塁でことごとく遮断しました。
二将はますます動揺します。そこに探馬が報告しました「楚将郤宛が舟師を率いて沙汭から江口を塞ぎました。」
呉軍は進退とも困難になったため、二つの営寨を築いて犄角の形勢(互いに連携して敵を牽制する体勢)を築き、楚将と対峙しました。同時に呉に人を送って救援を求めます。
そこで姫光が王僚に言いました「臣が鄭と衛の兵を集めるように進言したのは真にこのためです。今から使者を送っても遅くはありません。」
王僚は慶忌を派遣して鄭衛の兵を徴集することにしました。
四公子が全て国を離れ、姫光だけが国に留まります。
 
伍員が姫光に言いました「公子はかつて鋭利な匕首を得たのではありませんか?専諸を用いるなら、今がその時です。」
姫光が言いました「その通りだ。昔、越王允常が欧冶子に五つの剣を作らせて、そのうち三つを呉に献上した。一つ目を『湛廬』、二つ目を『磐郢』、三つ目を『魚腸』という。『魚腸』は匕首で、形は短くて細いが、鉄でも泥のように斬ることができる。先君が私に下賜したので、今に至るまで宝として床頭に隠し、非常の時に備えてきた。この剣が連夜光を放っているが、神物(神霊)が自分を試したがっており、王僚の血で満たしたいと思っているのではないか?」
姫光が剣を出して伍員に見せると、伍員は称賛が止まりませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第七十三回その四に続きます。