第七十四回 囊瓦が無極を誅し、要離が慶忌を刺す(三)

*今回は『東周列国志』第七十四回その三です。
 
当時、楚の伯嚭が国外に出奔していました。伍員が呉で重用されていると聞き、呉に奔ります。
伯嚭はまず伍員に謁見しました。伍員は伯嚭に会って二人で泣き、闔閭に会わせました。
闔閭が問いました「寡人は東海の僻地にいるのに、子(汝)は千里を遠いとも思わず、わざわざ下土(辺鄙な土地)に足を運んだ。何か寡人に教えることがあるのか?」
伯嚭が言いました「臣の祖父と父は二世にわたって楚で力を尽くしてきました。しかし臣の父は罪もないのに無残にも焚戮(焼き殺すこと)されました。臣は四方を亡命して帰属する場所がありませんでしたが、大王が高義によって伍子胥を窮厄から收めたと聞き、千里を遠しとせず、束身(身を束ねる。帰順の意味)帰命しました。大王に死生を委ねます(大王のために尽力します)。」
闔閭は伯嚭に同情して大夫に任命し、伍員と共に国事を計らせることにしました。
 
呉の大夫被離が秘かに伍員に問いました「子(あなた)は嚭を一目見ただけで信用したのですか?」
伍員が言いました「私の怨は正に嚭と同じです。『同じ病の者は憐れみあい、同じ憂いの者は助け合う(同疾相憐,同憂相救)』という諺があります。驚いて飛び立った鳥は互いに後を追って集り、瀬(浅瀬。急流)の下の水は再び一つになって流れるものです(浅瀬の石や岩にあたって別れた水も通り過ぎたらまた一つになります)。子(あなた)は何を怪しむのですか?」
被離が言いました「子(あなた)は彼の外を見ていますが、まだ内を見ていません。私が観たところ、嚭の為人は鷹が獲物を探し、虎が歩く姿に似ており、その性は貪佞で、功を専らにして勝手に人を殺すこともできます。近づけてはなりません。もし重用したら子にも累が及びます。」
しかし伍員は被離の言葉を気にせず、伯嚭と共に呉王に仕えました。
後人は被離が伍員の賢を見極め、しかも伯嚭の佞まで予見したため、真に神相(神のような人相の達人)だと論じました。伍員がその言葉を信じなかったのも、天命というものでしょう。
 
 
呉の公子慶忌は艾城まで逃走して死士を集め、隣国と結びました。隙を窺って報復の時を待ちます。
闔閭が慶忌の動きを聞いて伍員に言いました「以前、専諸の事では、寡人は全て子の力を頼りにした。今、慶忌に呉を謀ろうとする心があるため、寡人は飲食しても甘味(美味)を感じず、坐っても安心できない。子は新たに寡人のために図れ。」
伍員が言いました「臣は不忠で無行(品行が悪い)のため、大王と共に王僚を私室の中で図りました(暗殺しました)。今また王僚の子を図るのは(殺すのは)、恐らく皇天の意思ではありません。」
闔閭が言いました「昔、武王は紂を誅して更に武庚を殺したが、周人はこれを非難しなかった。皇天が廃すところは、天に順じて行うべきだ。慶忌が存在し続けたら、王僚が死んでいないのと同じだ。寡人と子は成敗を共にしている。小さな不忍(忍び難いこと。情け)によって大患を生み出してもいいのか?寡人がもう一人の専諸を得られれば解決できる。子は謀勇の士を探して久しいが、相応しい人材はいないか?」
伍員が言いました「難しいことです。しかし臣は一人の細人(地位が低い者。または小柄な者)を厚く遇しており、彼なら共に謀ることができるかもしれません。」
闔閭が問いました「慶忌の力は万人に匹敵する。細人と謀ることができるのか?」
伍員が言いました「確かに細人ですが、間違いなく万人の勇をもっています。」
闔閭が問いました「それは誰だ?子はなぜその者に勇があると知っているのだ?試しに寡人に話してみよ。」
伍員が言いました「彼の姓は要、名は離といい、呉人です。臣は彼が壮士椒邱訢を辱めるのをみて、その勇を知りました。」
闔閭がどのような事があったか聞いたため、伍員が詳しく語りました。
 
椒邱訢は東海上の人で、呉に仕えていた友人が死んだと聞き、喪に参加するため呉に向かいました。途中、車が淮津を通った時、馬に津の水を飲ませようとしました。すると津吏が言いました「水中に神がおり、馬を見たら現れて奪ってしまいます。飲ませてはなりません。」
椒邱訢が言いました「壮士がここにいるのだ。どの神がわしを犯そうというのだ!」
椒邱訢は従者に命じて驂馬を解かせ、津の水を飲ませました,
すると馬がいなないて水に入ってしまいます。
津吏が言いました「神が馬を奪い去った!」
椒邱訢は激怒して上衣を脱ぎ、剣を持って水に入りました。神を探して戦うつもりです。神は大きな波濤を起こしましたが、椒邱訢を害すことができず、三日三晩経ってから、椒邱訢が水中から出てきました。片方の目が神に傷つけられ、眇(隻眼)になっています。
その後、弔問のために呉に入り、喪の席に座りました。椒邱訢は水神と戦った勇を誇って人を威圧し、士大夫に対しても傲慢で不遜な言葉を口にしました。
この時、要離が椒邱訢と向き合って座っていました。要離は突然不平の色を浮かべ、椒邱訢に言いました「子は士大夫に会っても傲色(傲慢な様子)がありますが、勇士を自負しているのですか?勇士の戦いとは、日と戦ったら表(影)を移さず(太陽に正面から向かって影が動くことなく)、鬼神と戦ったら踵を返さず、人と戦ったら名声を裏切ることなく(または「名を隠すことなく」。原文「不違声」)、死んでも辱めを受けないと聞いています。しかし今、子は神と水中で戦いましたが、馬を失って追いつくことができず、しかも眇目の辱めを受けました。形を損なって名も辱しめられたのに命をかけることなく、余生に未練を残すとは、天地の間で最も無用な物です。人に会せる顔もないのに、士に対して傲慢でいるのですか。」
罵られた椒邱訢はとっさに返す言葉が見つからず、羞恥を抱いて退席しました。
要離は夜晚くなって舍に帰ると、妻に戒めて言いました「私は勇士椒邱訢を大家(大衆)の喪の中で辱めた。彼は恨怨を鬱積させているから、恥に報いるため、今夜私を殺しに来るはずだ。私は室内で僵臥(伏せて動かないこと)して彼が来るのを待つ。決して門を閉めてはならない。」
妻は要離の勇を知っていたためその言に従いました。
夜半、椒邱訢が利刃を持って要離の舍に来ました。門の扉は閉じられず、堂の戸も大きく開かれています。まっすぐ室(部屋)まで小走りで進むと、一人の男が腕を伸ばし、髪を放ち、窓に臨んで僵臥していました。よく見ると要離です。椒邱訢が来たのを見ても体を伸ばしたまま動かず、恐れる様子もありません。
椒邱訢が剣を要離の首に当てて言いました「汝が死ぬべき理由は三つある。汝は知っているか?」
要離は「知らない」と答えます。
椒邱訢が言いました「汝はわしを大家の喪で辱めた。これが一つ目の死ぬべき理由だ。家に帰っても門戸を閉めなかった。これが二つ目の死ぬべき理由だ。わしを見ても起きて逃げなかった。これが三つ目の死ぬべき理由だ。汝が自ら死を求めたのだ。わしを怨むな。」
すると要離が問いました「私には三つの死ぬべき過ちはない。しかし汝には三つの不肖(不才。不賢)の愧(恥)がある。汝は知っているか?」
今度は椒邱訢が「知らない」と答えます。
要離が言いました「私が千人の衆の中で汝を辱めたが、汝は一言も返さなかった。これが一つめの不肖だ。門を入る時に咳ばらいをせず、堂に登る時も声を出さず、掩襲(奇襲。闇討ち)の心があった。これが二つめの不肖だ。剣を私の頸に当ててから大言を吐いた。これが三つめの不肖だ。汝には三つの不肖があるのに、逆に私を責めるとは、可鄙(卑怯。人から軽蔑されるべき恥ずかしいこと)ではないか?」
椒邱訢は剣を収めて嘆息し、「わしの勇は、自分では世人に及ぶ者がいないと思っていたが、離(要離)はわしの更に上にいる。真に天下の勇士だ。わしが汝を殺したら人に笑われることになるだろう。しかし汝を殺さなかったら、勇によって世に称えられることが難しくなる」と言うと、剣を地に投げ捨て、頭を牖(窓)にぶつけて死にました。
 
要離の故事を語り終えた呉員が言いました「臣も喪に同席していたので、この出来事を詳しく知っているのです。万人の勇があるといえませんか?」
闔閭が言いました「子(汝)はわしのために彼を招け。」
こうして伍員が要離に会いに行きました。
伍員が言いました「呉王が吾子(汝)の高義を聞いて、一目会いたいと思っている。」
要離が驚いて言いました「私は呉下の小民です。何の徳能があって呉王の詔(命)を奉じることができるでしょう(恐れ多くて会えません)。」
しかし伍員が再び呉王の希望を伝えたため、要離は伍員に従って謁見しました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十四回その四に続きます。