第七十四回 囊瓦が無極を誅し、要離が慶忌を刺す(四)

*今回は『東周列国志』第七十四回その四です。
 
闔閭は伍員が要離の勇を称えるのを聞いて、尋常ではない魁偉な人物だと思っていました。
しかし実際に要離に会ってみると、身長はわずか五尺余で、腰の周りは一束(恐らく一抱えの太さ)しかなく、容貌も醜陋だったため、大いに失望して心中不快になりました。
闔閭が問いました「子胥は勇士要離を称えたが、子(汝)のことか?」
要離が言いました「臣は細小で力もなく、風を迎えたら伏せ、風を負ったら固まってしまいます(原文は「迎風則伏,負風則僵」。恐らく「迎風則僵,負風則伏」が正しく、その場合は「風を迎えたら仰向けに倒れてしまい、風を負ったら前に伏せてしまいます。」『呉越春秋闔閭内伝(第四)』参照。何の勇があるというのでしょう。しかし大王の指示を受けたら必ず力を尽くします。」
闔閭は黙ったまま何も言いません。
伍員が闔閭の心中を察して言いました「良馬とは形が高大かどうかが重要ではなく、力があって重い荷物を任せられ、その足が遠くに至ることができるから貴ばれるのです。要離の形貌は劣っていますが、智術は常人ではありません。この者でなければ事を成せないので、王は彼を失ってはなりません。」
闔閭はやっと後宮に招き入れて席を与えました。
要離が言いました「大王の意中の憂患は、亡き王の公子ではありませんか?臣なら彼を殺せます。」
闔閭が笑って言いました「慶忌は骨騰肉飛(敏捷な様子)で、走れば奔馬を追い越し、矯捷(迅速なこと)さは神のようだ。万夫でも対抗できない。子は恐らく彼の敵ではない。」
要離が言いました「人を殺すことができる者は、智を使うのであって力を使うのではありません。臣は慶忌に近づいて刺すことができます。それは鶏を割くように容易な事です。」
闔閭が言いました「慶忌は明智の人で、四方(国外)の亡命者(逃亡者)を招き集めている。国内(呉国)から来た客を軽率に信じて子を近づけるはずがない。」
要離が言いました「慶忌が亡命者を集めているのは呉を害すためです。臣は罪を負ったと偽って出奔します。王は臣の妻子を戮(処刑)し、臣の右手を斬ってください。慶忌は必ず臣を信じて近くに置きます。そうなれば、後を図ることができます(暗殺を実行できます)。」
闔閭は不愉快になって言いました「子(汝)に罪がないのにそのような惨禍を子に加えられると思うか?」
要離が言いました「臣はこう聞いています『妻子との楽しみに安んじて国君に仕える義を尽くさないこと、これを非忠という。室家(妻。家族)の愛を抱いて国君の患を除けないこと、これを非義という。』臣は忠義によって名を成すのです。家を挙げて死に就いても、甘んじて受け入れます(原文「其甘如飴」。飴のように甘いという意味)。」
傍にいた伍員が進み出て言いました「要離は国のために家を忘れ、主のために身を忘れようとしています。真に千古の豪傑です。功が成ってからその妻孥(妻子)を表彰して功績を埋もれさせず、後生に名を伝えることができれば充分でしょう。」
闔閭は同意しました。
 
翌日、伍員が要離を連れて朝廷に入りました。伍員は要離を将に推挙し、楚討伐の出兵を請います。
しかし闔閭が罵って言いました「寡人が要離の力を観たところ、一小児にも及ばない。なぜ楚討伐の重任に堪えることができるのだ。そもそも、寡人の国事はやっと安定し始めたところだ。兵を用いる余裕などない。」
要離が進み出て言いました「王は不仁ではありませんか!子胥は王のために呉国を定めました。しかし王は子胥のために仇に報いないのですか?」
闔閭が激怒して言いました「これは国家の大事だ!野人(城外に住む田舎者)が知った事ではない!朝廷で寡人を責めて辱めるのか!」
闔閭は力士に怒鳴って要離を捕まえさせ、右臂(右腕)を切断して獄に入れました。また、人を送って妻子も逮捕します。
伍員は嘆息して退出しました。群臣は誰も真相を知りません。
 
数日後、伍員が秘かに獄吏を諭し、要離の監視を緩めさせました。要離は隙を窺って脱出します。
それを知った闔閭は妻子を処刑して市で焼きました。
宋代の儒者はこの出来事を「一人の不辜(無罪の者)を殺して天下を得るようなことは、仁人にはできないものだ。理由もなく人の妻子を処刑して詐謀を実行するとは、闔閭の残忍は極まったと言える。そして要離も王との間に生平(生涯)の恩があるわけでもないのに、勇俠の名を貪るために身を損なって家を害した。良士とみなすわけにはいかない」と論じました。
 
要離は呉の国境まで奔りました。道中で人に会うたびに冤罪を訴えます。
慶忌が衛にいると知って衛国に入り、謁見を求めました。しかし慶忌は疑って会おうとしません。
そこで要離は衣服を脱いで右腕がないことを証明しました。慶忌はそれを見てやっと信用します。
慶忌が問いました「呉王が汝の妻子を殺し、汝の体に刑を施したが、わしに会いに来たのはなぜだ?」
要離が言いました「呉王が公子の父を弑殺して大位を奪い、公子は諸侯と結んで仇に報いようとしていると聞きました。だから臣は残命をもって投じたのです。臣は呉国の状況を知ることができます。公子の勇があり、臣を嚮導(先導)に用いたら、呉に進入できます。大王は父の仇に報い、臣も妻子の恨を少しでも雪ぐことができます。」
慶忌はまだ深く信用できませんでした。しかし暫くして呉の状況を探っていた心腹の者が戻り、要離の妻子が市で焼き捨てられた事を報告しました。慶忌は完全に疑わなくなり、要離に問いました「呉王は子胥と伯嚭を謀主とし、兵を鍛えて将を選んでいるため、国中が大いに治まっていると聞いた。わしは兵が少なく力も弱い。胸中の気を晴らすことができるだろうか?」
要離が言いました「伯嚭は無謀の徒なので心配いりません。呉の臣では子胥だけが充分な智勇を備えていますが、今また呉王との間に間隙が生まれています。」
慶忌が問いました「子胥は呉王の恩人であり、君臣が投合しているではないか。なぜ間隙があるのだ?」
要離が言いました「公子は一を知っているだけで二を知りません。子胥が闔閭に心を尽くしたのは、兵を借りて楚を討伐し、父と兄の仇に報いたいからです。ところが、平王は既に死に、費無極も今は亡く、闔閭は位を得てから富貴に満足し、子胥と共に仇討ちを考えることがなくなりました。臣は子胥のために進言した結果、王の怒りに触れ、惨戮を加えられたのです。子胥の心も呉王を怨んでいるのは明らかです。臣が幸いにも囚繫(牢獄)から逃げられたのは、子胥の周全(助け)のおかげです。子胥は臣にこう託しました『ここを去ったら必ず公子に会い、その志向を確認せよ。もし伍氏のために仇を討つようなら、公子の内応となり、窟室で犯した同謀の罪に償おう。』公子がこの機に乗じて兵を呉に向けなければ、呉の君臣が再び投合してしまい、臣と公子の仇に報いる日は二度と来なくなります。」
要離は言い終わると大哭し、柱に頭をぶつけて死のうとしました。
慶忌が急いで止めて言いました「わしは子の言を聞こう(吾聴子,吾聴子)!」
 
慶忌は要離と一緒に艾城に帰り、腹心として士卒の訓練や舟艦の準備をさせました。
三か月後、呉国を襲うため、長江の流れに乗って東下しました。慶忌は要離と同じ舟に乗っています。
舟が中流まで来た時、後ろの船が追いつかなくなりました。要離が言いました「公子は自ら船頭に座って舟人を戒飭(戒める)するべきです。」
慶忌は船頭に移って座りました。要離は片手で短矛を持って傍に立ちます。
すると突然、江上に一陣の怪風(突風)が吹きました。要離は体の向きを変えて風上に立ち、風の勢いを借りて矛で慶忌を刺します。矛は心窩(胸と腹の真ん中)を貫いて背の外に出ました。
しかし慶忌は要離を逆さに持ち上げました。要離の頭を水中に沈めます。これを三回繰り返してから、要離を抱えて膝の上に置き、振り返って笑いながら言いました「天下にこのような勇士がいるか?わしに刃を加えるとは!」
左右の者達が戈戟を持って一斉に要離を刺そうとしましたが、慶忌が手を振って言いました「これは天下の勇士だ。一日の間に天下の勇士を二人も殺してはならない。」
更に左右の近臣にこう命じました「要離を殺すな。その忠を表彰するために、釈放して呉に帰らせろ。」
言い終わると要離を膝の下に押し、自らの手で矛を抜き取りました。大量な血が流れ出て息が絶えます。
 
要離の性命がどうなるのか、続きは次回です。

第七十五回 孫武子が美姫を斬り、蔡昭侯が呉師を乞う(前篇)