第七十五回 孫武子が美姫を斬り、蔡昭侯が呉師を乞う(中編)

*今回は『東周列国志』第七十五回中編です。
 
孫武が執法を送って呉王にこう報告しました「兵が既に整ったので王の確認を願います。兵は王の指示に従い、赴湯蹈火(熱湯に赴いたり火を踏むこと)を命じたとしても、退避する者はいません。」
闔閭は二姫を失ったことを悲痛して横山に厚葬しました。祠を建てて祭祀を行い、愛姫祠と命名します。
闔閭は愛姫を強く想っていたため、孫武を用いる気がなくなりました。
伍員が進み出て言いました「『兵(戦)は凶器(危険なこと)である(兵者凶器也)』といいます。だから虚談(空談。中身のない談話)をしてはならないのです。誅殺が果断でなかったら軍令が行き届きません。大王は楚を征伐して天下の伯(覇者)になるつもりであり、良将を求めています。将とは果毅(果敢剛毅)を能力とします。孫武を将とせず、誰が淮水や泗水を渡り、千里を越えて戦うことができますか。美色は得やすく良将は求め難いものです。もし二姫のために一人の賢将を棄てるのなら、莠草(雑草の一種。ねこじゃらし)を愛して嘉禾(良く育った稲。瑞兆)を棄てるのと同じです。」
闔閭は過ちを悟り、孫武を上将軍に任命して軍師と号しました。楚討伐の責任を与えます。
 
伍員が孫武に問いました「兵はどこから進めるべきだ?」
孫武が言いました「通常、行兵(用兵)の法とは、先に内患を除いてから外征をするものです。王僚の弟掩餘は徐におり、燭庸は鐘吾におり、二人とも報怨の心を持っていると聞きました。今日、兵を進めるとしたら、まず二公子を除いてから南伐するべきです。」
伍員は納得して呉王に上奏しました。
呉王が言いました「徐と鐘吾はどちらも小国だ。使者を送って逋臣(逃亡した臣)を要求すれば必ず従うはずだ。」
こうして二人の使者が派遣されました。一人は徐国に向かって掩餘を求め、一人は鐘吾に向かって燭庸を求めます。
しかし徐子章羽は掩餘が殺されることを憐れみ、秘かに人を送って掩餘に伝えました。掩餘は逃走します。
道中で同じように逃げて来た燭庸に会いました。二人は相談して楚国に奔りました。
楚昭王は喜んで「二公子は必ず深く呉を怨んでいる。窮難に乗じて厚く結ぶべきだ」と言い、舒城に住ませました。二人に呉を防ぐための兵を訓練させます。
 
闔閭は二国が命に逆らったと知って激怒し、孫武に徐を討伐させました。徐は滅び、徐子章羽は楚に奔ります。
呉軍は鐘吾も攻撃し、国君を捕えて還りました。
後に舒城も襲って破り、掩餘と燭庸を殺しました。
 
闔閭は勝ちに乗じて楚都郢に進攻しようとしました。しかし孫武が「民が疲労しています。まだすぐに使うことはできません(または「頻繁に使うことはできません」。原文「未可驟用」)」と進言したため、兵を還しました。
 
伍員が計謀を献じて言いました「寡(少数)で衆(多数)に勝ち、弱で強に勝つには、労逸(労苦と安逸)の数(道理)を明らかにしなければなりません。晋悼公は四軍を三分して楚師を疲弊させたから、蕭魚の功績を収めることができました。晋は自分が安逸な状態で人に労苦を与えたのです。楚の執政は皆、貪庸の輩なので、誰も困難を請け負おうとはしません。軍を三師に分けて楚を攪乱させてください。我々が一師を出せば楚は必ず全師を出してきます(単独で責任を負おうとする者がいないので、全軍を動員することになります)。楚が出てきたら我々は帰り、楚が帰ったら我々がまた出れば、楚は力を疲弊させて士卒が怠惰になります。その後、機に乗じて突然襲えば勝てないはずがありません。」
闔閭は納得し、軍を三分して順に楚の国境を攻めさせました。
楚が将を送って助けようとすると呉兵は帰ってしまいます。楚人はこれを苦にするようになりました。
 
 
呉王には勝玉という愛娘がいました。
ある日、内宴(宮廷の宴会)で庖人(料理人)が蒸魚を進め、王が半分を食べてから残りを娘に与えました。すると娘は怒って「王は残った魚で私を辱めました。生きている意味がありません」と言い、退席して自殺してしまいました。
悲しんだ闔閭は殮具(棺。葬具)を厚くし、国都西側にある閶門の外に埋葬しました。墓陵を造るために池を掘って土を積みます。掘った場所は太湖(の一部)になりました。今(明清時代)の女墳湖がそれです。
また文石(模様のある石)を切って槨(棺)を作り、金鼎、玉杯、銀尊、珠襦(玉片を編んで作った服)といった宝を副葬しました。府庫の半分近くが使われます。更に「磐郢」の名剣を娘に贈りました。
その後、呉の市で白鶴を舞わせました。万民(民衆)が集まって見物すると、娘を葬送するように命じて隧門(墓道の入り口)に入れます。隧道(墓道)の中には伏機(隠れた装置)が設けられていました。何も知らずに多数の男女が入った時、装置が動いて門が閉まり、人々を生き埋めにしました。男女の死者は万人を数えます。
闔閭が言いました「娘は万人の殉葬を得たのだから寂しくないだろう。」
(明清時代)に至るまで呉の習俗では殯事(葬儀)の際に喪亭(葬儀の際、門の前に建てる門亭。門前に出っ張った小部屋のような部分)の上に白鶴を作りますが、この遺風(名残)です。
生きた者を殺して死人に贈るとは、闔閭の無道も極まりました。
 
 
話は楚に移ります。
宮中で寝ていた昭王が目を覚ました時、枕元に冷たく光る物を見つけました。よく見ると宝剣のようです。
朝になってから相剣者(剣を鑑定する者)風胡子を入宮させて剣を見せました。
風胡子が驚いて問いました「君王はどこでこれを得たのですか?」
昭王が言いました「寡人が眠りから覚めたら枕元で見つけたのだ。剣の名がわかるか?」
風胡子が言いました「これは『湛盧』という剣です。呉の剣師欧冶子が鋳た物です。昔、越王の命によって鋳られた名剣が五つありました。呉王寿夢がそれを知って要求したため、越王は三つを献上しました。『魚腸』『磐郢』『湛盧』です。『魚腸』は王僚を刺し、『磐郢』は死んだ娘に贈られました。『湛盧』の剣だけが残っています。その剣は五金の英(精髄)、太陽の精でできており、出せば神があり、服せば(剣を帯びれば)威があるといいます。しかし人君が理に逆らう事を行ったら剣は出ていきます。この剣がある国は、国祚(国運)が綿遠と昌熾(隆盛)します。最近、呉王は王僚を弑殺して自立し、また万人を坑殺(生埋め)して娘を埋葬しました。呉人が悲怨しているので、『湛盧』の剣は無道から去って有道に就いたのです。」
喜んだ昭王は剣を身に着けて至宝とし、国人に天瑞を得たことを宣示しました。
 
一方、剣を失った闔閭は人を使って探させました。するとある人が報告しました「その剣は楚国に帰しました。」
闔閭が怒って言いました「楚王がわしの左右の者に賄賂を贈って剣を盗ませたに違いない!」
闔閭は左右の者数十人を殺します。
その後、孫武、伍員、伯嚭に楚討伐を命じました。
同時に越に使者を送って出兵を要求しましたが、越王允常は楚との関係を絶っていなかったため、出兵を拒否しました。
孫武等は楚の六と潜の二邑を占領しましたが、後続の兵がないため引き返しました。
闔閭は越が楚討伐に協力しなかったことを怒って討伐を謀りました。
孫武が諫めて言いました「今年は歳星木星が越にいるので討伐は不利です。」
闔閭は諫言を聞かず、越を攻めて檇李で破り、略奪を行って兵を還しました。
孫武が秘かに伍員に言いました「四十年後に越が強くなって呉が尽きるでしょう。」
伍員は黙ってこの言を記憶しました。闔閭五年の事です。
 
翌年、楚の令尹囊瓦が舟師を率いて呉を攻めました。潜六の役の報復です。
闔閭は孫武と伍員に迎撃させました。呉軍は楚軍を巣で破り、楚将羋繁を捕えて還ります。
闔閭が言いました「郢都に入らなければ楚兵を破っても功がないのと同じだ。」
伍員が言いました「臣は一時も郢都を忘れたことがありません。しかし楚国は天下莫強(無敵)です。敵を軽んじてはなりません。囊瓦は民心を得ていませんが、諸侯にはまだ憎まれていません。とはいえ、賄賂を要求して際限がないと聞いたので、近々諸侯に変化が現れるでしょう。そこに乗じることができます。」
闔閭は孫武に命じて江口で水軍の演習をさせました。伍員は終日人を送って楚の状況を探ります。
ある日、「唐蔡二国が使臣を送って友好を結びに来ました。既に郊外にいます」という報告が入りました。
伍員が喜んで言いました「唐も蔡も楚の属国だ。(我が国との間に)何もないのに遠くまで使者を送って来たということは、楚との間に怨みがあるに違いない。天が我が国に楚を破らせ、郢に入らせようとしているのだ。」
 
話は楚に戻ります。
楚昭王が「湛盧」の剣を得たため、諸侯が祝賀のために集まりました。唐成公と蔡昭侯も楚に来朝します。
蔡侯は羊脂白玉佩(羊脂白玉という白い玉石で作った装飾品)一対と銀貂鼠裘(皮衣)二着をもっていました。一裘一佩を楚昭王に献上して祝賀の礼物とし、残りは自分が使っています。それを見た囊瓦が裘と佩を気に入り、人を送って蔡侯に求めました。しかし蔡侯も裘と佩を気に入っていたため要求を拒否しました。
 
唐侯には二頭の名馬がおり、「肅霜」といいました。本来、「肅霜」というのは雁の名です。羽が練(白い絹か生糸)のように白く、頭が高くて首が長い雁です。唐侯の馬は形や色がこの雁に似ていたため、「肅霜」と名づけられました。後の人は「馬」をつけて「驌」と書くようになります。天下を探しても稀有な名馬でした。
唐侯は肅霜に車を牽かせて楚に来ました。脚が速いのに安定しています。
囊瓦は肅霜も気に入り、人を送って唐侯に求めました。しかし唐侯も拒否しました。
 
二君が朝見の礼を終えると、囊瓦が昭王に讒言して言いました「唐と蔡は秘かに呉国と通じています。もし放して帰らせたら必ず呉を導いて楚を攻めます。二人を留めるべきです。」
二君は館駅に拘留されることになりました。それぞれ千人の兵が守ります。名目は護衛ですが、実際は監押(監視)です。
当時、昭王はまだ幼かったため、国政は全て囊瓦が行っていました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十五回後編に続きます。

第七十五回 孫武子が美姫を斬り、蔡昭侯が呉師を乞う(後編)