第七十五回 孫武子が美姫を斬り、蔡昭侯が呉師を乞う(後編)

*今回は『東周列国志』第七十五回後編です。
 
唐と蔡の二君が楚に入って三年が経ちました。帰りたいと思っても動けません。
唐の世子は唐侯が帰ってこないため、大夫公孫哲を楚の国境まで送って様子を見させました。唐侯が拘留されていると知ります。
公孫哲が唐侯に伝えました「二馬と一国ではどちらが重要ですか?国君はなぜ馬を献上して帰国を求めないのですか?」
唐侯が答えました「この馬は希世(類まれなこと)の宝だ。寡人はこれを惜しむ。楚王にすら献上したくないのに、なぜ令尹に譲らなければならないのだ。しかも令尹の為人は貪婪に限りがない。威によって寡人を脅迫しているが、寡人はたとえ死んでも従うつもりはない。」
公孫哲は秘かに自分の従者に言いました「我々の主は一馬を惜しんで久しく楚に留められている。畜(動物)を重んじて国を軽んじるのは間違いだ。我等は秘かに驌を盗んで令尹に献上しよう。もし主公が唐に帰れるのなら、我等が馬を盗んだ罪に座したとしても恨むことはない。」
従者はこれに従い、圉人(馬を管理する者)に酒を与えて酔わせてから二頭の馬を盗みました。
公孫哲が馬を囊瓦に献上して言いました「我が主は令尹の徳が尊く声望が重いので、某等(我々)に命じて良馬を献上させました。駆馳の用の備えとしてください。」
囊瓦は喜んで馬を受け取りました。
翌日、囊瓦が入朝して昭王に言いました「唐侯は地が狭く兵も少ないので大事を成すには足りないようです。帰国を赦しても問題ありません。」
昭王は唐成公を釈放して城から出しました。
唐侯が帰国すると公孫哲と従者達が自らを縛って殿前で罪を待ちました。
唐侯が言いました「諸卿が馬を貪夫に献上しなかったら、寡人は国に帰れなかった。これは寡人の罪である。二三子(汝等)が寡人を怨まなければそれで充分だ。」
唐侯は公孫哲等に重賞を与えました。今(明清時代)、徳安府隨州城の北に驌陂がありますが、唐侯の馬が通ったためにつけられた地名です。
 
蔡侯は唐侯が馬を献上して帰されたと聞き、裘と佩を解いて囊瓦に献上しました。
囊瓦がまた昭王に言いました「唐と蔡は一体です。唐侯が既に帰ったのですから、蔡だけを留めるべきではありません。」
昭王は同意しました。
 
蔡侯は郢都を出てからも怒気が胸を満たしています。白璧を漢水に沈めてこう誓いました「寡人が楚を討伐できないのに再び南に渡ったら、この大川がある(楚を討伐できなかったら大川の咎を受ける)!」
帰国した翌日、世子元を人質として晋に送り、楚討伐の兵を借りようとしました。
晋定公は蔡のために周に訴えます。
周敬王は卿士・劉巻に命じ、王師を率いて諸侯と会見させました。宋、斉、魯、衛、陳、鄭、許、曹、莒、邾、頓、胡、滕、薛、杞、小邾子と蔡の十七路の諸侯が集まります。それぞれ囊瓦の貪婪を憎んでおり、兵を率いて参加しました。
晋の士鞅が大将に、荀寅が副将になり、諸軍が召陵の地で集結します。
荀寅は「蔡のために兵を起こしたのだから、蔡に功(恩徳)を与たのと同じだ」と考えました。そこで蔡の重貨(賄賂)を欲し、人を送って蔡侯にこう伝えました「貴君は裘と佩を楚の君臣に贈ったと聞いた。なぜ敝邑にはそれがないのだ?我等は千里の師を興したが、それは君侯のためだ。どうやって犒師(軍を労うこと)するつもりだ?」
蔡侯が言いました「孤(国君の自称)は楚の令尹瓦が貪冒不仁なので楚を棄てて晋に投じました。大夫が盟主の義を念じ、強楚を滅ぼして弱小を援けさえすれば、荊襄五千里は全て犒師の物となります。どちらの利が大きいですか。」
荀寅は慚愧しました。
 
時は周敬王十四年春三月です。この頃、偶然、数十日にわたって大雨が降りました。劉巻が瘧(伝染病)を患います。
荀寅が士鞅に言いました「かつて五伯の中で斉桓公よりも強盛な者はいませんでした。しかし斉桓公でも召陵に駐軍した際、楚に少しの損傷を与えることもできませんでした。先君の文公もわずかに一勝しただけで、その後は搆兵(戦争)が絶えなくなりました。しかし交見(講和の会見)以後、晋と楚には間隙がなくなりました。我々から(間隙、戦端を)開くべきではありません。それに水潦(大雨)が降り続いており、疾瘧(伝染病)も発生しています。進んでも勝てるとは限らず、退いたら楚に乗じられます。慎重に考えなければなりません。」
士鞅も貪婪な男で、蔡侯の酬謝(報酬)を欲していたのに満足できなかったため、「雨水によって形勢が不利になり、兵を進めるのが困難だ」という理由で楚討伐を中止しました。蔡侯の人質を返して撤兵します。
各路の諸侯も晋が遠征の指揮をとらないのを見てそれぞれ帰国しました。
 
蔡侯は諸軍の解散を見て大いに失望しました。
帰路、沈国を通った時、沈子嘉が楚討伐に従わなかったことを譴責し、大夫公孫姓に襲わせて沈国を滅ぼしました。国君は捕虜になって殺されます。
この一件で蔡公は憤りを少し晴らすことができましたが、楚の囊瓦が激怒しました。蔡討伐の兵を起こして城を包囲します。
公孫姓が言いました「晋は頼りになりません。東行して呉に救いを求めるべきです。子胥、伯嚭の諸臣も楚に大仇があるので必ず力を貸します。」
祭侯はこれに従い、公孫姓に命じて唐侯と約束させ、共に呉国に投じて兵を借りることにしました。次子の公子乾を人質にします。
 
伍員が蔡と唐の使者を闔閭に会わせて言いました「唐と蔡は傷心の怨(非常に大きな怨み)によって先駆になることを願っています。蔡を救えば名声を顕示でき、楚を破れば利を厚くできます。王が郢に入りたいのなら、この機を失ってはなりません。」
闔閭は蔡侯の人質を受け入れて出兵に同意しました。先に公孫姓を帰して報告させます。
 
闔閭が兵を準備しようとした時、近臣が報告しました「軍師孫武が江口から帰りました。謁見を求めています。」
闔閭が招いて用を聞くと孫武が言いました「楚を攻めるのが困難なのは、属国が多くて直接国境に至るのが容易ではなかったからです。しかし最近、晋侯が一度招いただけで十八国が集まりました。その内の陳、許、頓、胡はかねてから楚に附いていましたが、楚を棄てて晋に従いました。人心は楚を怨んでいます。唐、蔡だけではありません。今こそ楚の勢力が孤立している時です。」
喜んだ闔閭は被離と専毅に太子波を補佐して呉を守らせ、孫武を大将に、伍員と伯嚭を副将に、親弟の公子夫概を先鋒に任命し、公子山に糧餉を監督させました。
呉兵六万を総動員して十万と号し、水路から淮水を渡って蔡国に進みます。
囊瓦は呉軍の勢いを見て、蔡の包囲を解いて撤退しました。呉軍の追撃を恐れた楚軍は漢水まで休むことなく走り、川を渡ってからやっと駐留しました。急を告げる使者を何回も郢都に駆けさせます。
 
蔡侯は呉王を迎え入れ、楚君臣の悪を泣いて訴えました。
間もなくして唐侯も到着します。
二君は左右両翼になることを願い出て、楚を滅ぼす戦いに従いました。
出発に臨んだ時、孫武が突然軍令を発しました。軍士を上陸させ、戦艦は全て淮水の曲がる場所に留められます。
伍員が秘かに舟を棄てた理由を聞くと、孫武はこう言いました「舟が水の流れに逆らって進んだら遅くなるので、楚に防備の余裕を与えてしまいます。これでは楚を破れません。」
伍員は感服しました。
 
呉の大軍は江北の陸路から章山を通り、直接、漢陽漢水の北)まで駆けました。
楚軍は漢水の南に駐軍しており、呉軍は漢水の北に駐軍します。
囊瓦は昼も夜も呉軍が漢水を渡ってくることを恐れましたが、舟を淮水に留めたと聞いて少し安心しました。
 
楚昭王は呉軍が大挙してきたと聞き、自ら諸臣を集めて計を問いました。
公子申が言いました「子常は大将の才ではありません。速やかに左司馬の沈尹戍を派遣するべきです。呉人に漢水を渡らせてはなりません。彼等は遠くから来ており後継がないので、長期戦はできません。」
昭王はこれに従い、沈尹戍に兵一万五千を率いて令尹と共に呉軍を防がせました。
 
沈尹戍が漢陽に到着しました。囊瓦が大寨に迎え入れます。
沈尹戍が問いました「呉兵はどこから来たのですか?なぜこれほど速いのですか?」
囊瓦が言いました「舟を淮汭(淮水が曲がる場所)に棄てて陸路で豫章からここまで来たのだ。」
沈尹戍が笑い声をあげて言いました「人は孫武の用兵が神のようだと言いますが、これを観ると真に児戯です。」
囊瓦が理由を聞きました。沈尹戍が説明します「呉人は舟楫に慣れているので水戦に利があります。今回、舟を棄てて陸を選び、便捷(迅速)だけを考えていますが、万一利を失ったら帰る路がなくなります。だから笑ったのです。」
囊瓦が問いました「呉兵は漢北に駐留している。これを破る計があるか?」
沈尹戍が言いました「兵五千を分けて子(あなた)に預けます。子は漢水に沿って営を並べ、船隻を全て南岸に集めてから、軽舟に命じて旦夕(朝から晩まで)江の上下を行き来させてください。呉軍が舟を奪って渡るのを阻止するためです。私は一軍を率いて新息から淮汭に出ます。そこで呉の舟を全て焼き払い、更に漢東の隘道を木石で遮断します。その後、令尹は兵を率いて漢江漢水を渡り、呉の大寨を攻撃してください。私も後ろから攻撃します。敵は水陸の路が絶たれ、首尾(前後)に敵を受けることになるので、呉の君臣の命は全て我々の手によって喪われるはずです。」
囊瓦が喜んで言いました「私は司馬の高見に及ばない。」
沈尹戍は大将武城黒に兵五千を統率させて囊瓦を助けるように命じ、自ら一万を率いて新息に向かいました。
 
勝敗はどうなるか、続きは次回です。

第七十六回 楚昭王が西奔し、伍子胥が屍を鞭打つ(一)