戦国時代119 秦王政(五) 楚考烈王の子 前238年(2)

今回は秦王政九年の続きです。
 
[] 楚王と春申君の間にも秦始皇帝呂不韋の関係に似た話が伝わっています。『史記春申君列伝(巻七十八)』と『資治通鑑』からです。
楚考烈王には子ができなかったため、春申君黄歇が憂いて生育能力のある婦人を多数進めました。しかしそれでも子ができません。
趙人李園が妹を楚王に進めようとしましたが、子ができないと聞いて寵愛を得られないのではないかと心配し、まず李園自身が春申君の舍人になることを請いました。
暫くして李園は一時、趙に帰国しました。わざと期限から遅れて楚に戻ります。
春申君が理由を問うと、李園が言いました「斉王が人を送って臣の妹を求めました。使者と宴を開いていたため、期日に遅れました。」
春申君が「既に娉(聘幣。婚約の礼物)は入れられたか(婚約したか)?」と問うと、李園は「まだです」と答えました。
春申君が「会えるか?」と問うと、李園は「会えます(可)」と答えて妹を春申君に紹介しました。春申君は李園の妹を気に入って寵幸を与えます。
 
やがて李園の妹が妊娠しました。李園は妹と謀り、機会を探して妹から春申君にこう言わせました「あなたは国君の貴幸を受けており、王の兄弟も及ばないほどです。あなたは既に楚で二十余年も相を勤めました。しかし王には子がいないので、百歳の後(楚王の死後)、王の兄弟が立つことになり、王の兄弟が即位したら、新王は自分と親しい者を重用するでしょう。あなたは寵を保つことができなくなります。それだけではありません。あなたは尊貴な地位にあり、久しく政治を行ってきたので、王の兄弟に対してしばしば礼を失してきました。王の兄弟が即位したら禍があなたの身に及びます。これでどうして相印と江東の封地を保つことができるでしょう。今、妾()が妊娠したことを知る者は誰もいません。妾はあなたの幸を受けてまだ長くないので、王に重んじられているあなたが妾を王に進めれば、王は必ず妾を寵幸します。もし妾が天の援けを得て男を生んだら、あなたの子が王になり、あなたは楚国をことごとく得ることができます。不測の禍を招くのとどちらがいいでしょう。」
春申君は納得して李園の妺を屋敷から出し、館舍に住ませてから楚王に進言しました。
楚王は李園の妹を後宮に入れて寵幸し、やがて男児が生まれました。この子が太子に立てられます。
李園の妹は王后になり、李園も楚王に重用されて政治を行うようになりました。
 
権力を握った李園は春申君が秘密を漏らすのではないかと心配し、秘かに死士を養って春申君を殺す機会を探しました。多くの国人が李園の企みを知ります。
 
楚王が病にかかった時、朱英が春申君に言いました「この世には無望(毋望。予測できず突然訪れること)の福というものがあり、また無望の禍というものもあります。今、あなたは無望の世(生死の変化が一定ではない世。生死を予測できない時代)におり、無望の主(測り知ることができない国君。喜怒が一定ではない国君)に仕えています。無望の人(予測しない福禍をもたらす人。思いもよらない人)がいないはずがありません。」
春申君が問いました「無望の福とは何だ?」
朱英が言いました「あなたが楚の相になって二十余年が経ちました。名は相国ですが、実際は楚王と同じ地位にいます。今、王は病になり、旦暮(朝夕)には薨じ(死ぬ)でしょう。王が薨じてからもあなたは幼主の相となり、伊尹や周公のように王に代わって国を治め、王が成長してから政治を還すことになります。これはあなたが南面して孤を称し(王位に即き)、楚国を有すのと同じです。これが無望の福です。」
春申君が問いました「無望の禍とは何だ?」
朱英が言いました「李園が国を治めなければ、あなたの仇となります(原文「君之仇也」。新王即位後、李園が政権を握らず春申君が政権を握り続けたら、李園と敵対することになります。『戦国策楚策四』では「君之仇也」ではなく「王之舅也」と書かれています。舅は母の兄弟の意味です)。兵を管理していないのに、死士を養って久しくなります。王が薨じたら李園が必ず先に入って権力を奪い、あなたを殺して口封じをするでしょう。これが無望の禍というものです。」
春申君が問いました「無望の人とは何だ?」
朱英が言いました「あなたは臣を郎中(宮門の守衛)に任命してください。王が薨じたら李園が先に入るはずなので、臣があなたのために殺しましょう。これが無望の人です。」
春申君が言いました「足下はこの件に関与するな。李園は弱人であり、私も彼に善くしている。そのようなことにはならない。」
朱英は進言が用いられなかったため、禍を恐れて逃走しました。
 
十七日後、考烈王が在位二十五年で死にました。
李園が真っ先に王宮に入り、死士を棘門(寿春城門)の中に隠します。
春申君が門を通ると死士が挟み撃ちにして刺殺しました。春申君の首は棘門の外に投げ捨てられます。
李園が派遣した官吏が春申君の家人を全て逮捕しました。
李園の妹が生んだ太子悍が立ちました。これを幽王といいます。
 
尚、『春申君列伝』の注(索隠)にこう書かれています。
「楚捍(幽王)には同母弟(幽王の次に即位する哀王)がおり、猶には庶兄負芻(楚国最後の王。秦王政十九年228年参照)と昌平君(秦の相。本年、嫪の乱を平定した人物)がいた。よって楚考烈王に子がいなかったというのは誤りである。」
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代120 秦王政(六) 李斯登場 前237年(1)