戦国時代120 秦王政(六) 李斯登場 前237年(1)

今回は秦王政十年です。二回に分けます。
 
秦王政十年
237年 甲子
 
[] 前年、秦で起きた嫪の乱によって、嫪太后に紹介した文信侯呂不韋の罪も問われました。しかし呂不韋は先王の時代に大功を立てたため誅殺できません。
冬十月、秦王が呂不韋の相を免じ、封国に帰らせました。呂不韋の国は河南洛陽です。
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『史記呂不韋列伝(巻八十五)』が元になっています。『史記六国年表』は翌年に呂不韋が河南に行ったとしているので、この十月は翌年の歳首かもしれません。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、桓齮を将軍にしました。
 
[] 前年に書きましたが、『史記秦始皇本紀』は秦王と太后の事を本年に書いています。以下、『秦始皇本紀』からです。
 
斉と趙が秦に入朝しました。秦王は宴を開いてもてなします。
『秦始皇本紀』は「斉と趙」としか書いていませんが、『田敬仲完世家』に「斉王が秦に入朝し、秦王政が咸陽で宴を開いた」とあるので、国君が入朝したようです。
 
『秦始皇本紀』に戻ります。
斉人茅焦が秦王に言いました「秦は天下の事を行おうとしているのに、大王は母太后を遷した悪名を負っています。諸侯がこれを聞いたら、恐らく秦に背くことになるでしょう。」
秦王は諫言を聴いて太后を雍から咸陽に迎え入れました。太后は再び甘泉宮(咸陽南宮)に住みます。
 
『秦始皇本紀』の注(集解)は『説苑』からの引用として、その後のことを書いています。
始皇帝(秦王)は茅焦を傅(教育官)に任命し、更に上卿の爵を与えました。
太后が喜んで言いました「天下の亢直(剛毅で正直)な者が敗(失敗)を成(成功)に変え、秦の社稷を安んじ、妾(私)達母子を再び会わせることができました。これは茅君の力(功績)です。」
 
[] 秦王政が即位してから、韓の水工鄭国が秦で水利工事を行いました。しかし鄭国は韓が秦を疲弊させるために送った間者でした(秦王政元年246年参照)
の乱を招いて失脚した呂不韋も元は趙の商人でした。
秦の宗室大臣が議して言いました「諸侯の国から秦に来て仕官した者は、皆、その主のために遊説しています。全て駆逐するべきです。」
宗室の発言には王族の地位を守って拡大するという目的があります。
 
秦王は大捜索を開始し、他国から来た者を全て追い出しました。「逐客令」が発布されます。
これに反対したのが李斯です。以下、『史記李斯列伝(巻八十七)(抜粋)と『資治通鑑』からです。
 
李斯は楚の上蔡の人です。
若い頃、李斯は郡の小吏(位が低い官吏)を勤めました。
ある日、吏舍の厠で鼠を見ました。鼠は汚れており、人や犬が近づく度に驚き恐れています。
李斯が倉庫に入った時も鼠を見ました。鼠は高く積まれた粟(食糧)を食べ、大きな屋根の下に住み、人や犬が現れても驚く様子がありません。
李斯は嘆息してこう言いました「人が賢となるか不肖となるかは鼠と同じだ。自分がいる場所で決まるのだ。」
李斯は学問を志し、荀卿荀子に従って帝王の術(学)を学びました。
やがて学業を修めた李斯はこう考えました「楚王は仕えるに足らず、六国は全て弱いので功を立てることができない。」
李斯は西の秦に行く決意をしました。
 
李斯が荀卿に別れを告げて秦に入った時、ちょうど秦荘襄王が死にました。
李斯はまず秦の相だった文信侯呂不韋の舍人になります。呂不韋は李斯の賢才を認めて郎に任命しました。
李斯は呂不韋を通じて秦王にこう進言しました「胥人(胥吏。小人)は容易に幾(好機。機会)を失いますが(小人は好機を利用できませんが)、大功を成す者は瑕釁(隙)を見つけたら躊躇せずにつけいるものです。昔、秦穆公は霸を称えましたが、ついに東の六国を兼併することはできませんでした。それはなぜでしょう。諸侯がまだ多数存在しており、周の徳も衰えていなかったから、五伯(五覇)が前後して興隆し、周室を尊重したのです。しかし秦孝公以来、周室は衰弱し、諸侯が互いに兼併を繰り返し、関東は六国のみになりました。このような状況下で秦が勝ちに乗じて諸侯を従えてから、既に六世(孝公、恵文公、武王、昭王、孝文王、荘襄王になります。今、諸侯は秦に服して郡県同様になっているので、秦の強大な力と大王の賢才があれば、竈の上を掃除するように諸侯を滅ぼし、帝業を成立させ、天下を一統とすることができます。これは万世に一時の好機です。この時に怠って機会をつかもうとしなかったら、諸侯が再び強くなり、互いに集まって約従(合従)するでしょう。そうなったら黄帝の賢があっても兼併できなくなります。」
秦王は李斯を長史に任命してその計を用いました。やがて李斯は客卿になります。
 
 
 
次回に続きます。