第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(一)

第七十九回 女楽を帰して黎彌が孔子を拒み、会稽に棲んで文種が宰嚭に通じる
(帰女楽黎彌阻孔子 棲会稽文種通宰嚭)
 
*今回は『東周列国志』第七十九回その一です。
 
斉侯が夾谷の会から帰って間もなくして、晏嬰が病で死にました。景公は数日にわたって哀泣します。
朝廷に人が乏しくなったことを憂いている時、孔子が魯の相になって魯国が大いに治まっていると聞き、驚いて言いました「魯相の孔子は必ず霸を称える。霸を称えたら必ず地を争う。斉は魯の近鄰の国だ。恐らく最初に禍が及ぶだろう。どうするべきだろうか?」
大夫黎彌が言いました「国君は孔子が用いられていることを憂いていますが、なぜ妨害しないのですか?」
景公が言いました「魯は孔子に国政を任せたばかりだ。わしに妨害することができるか。」
黎彌が言いました「治安の後は必ず驕逸が生まれるといいます。女楽を盛んに飾り立てて魯君に贈りましょう。もし魯君が受け入れれば、必ず政事を怠って孔子を疎遠にします。孔子は自分が疎遠にされたら、必ず魯を棄てて他国に移ります。我が君は枕を安んじて寝ることができるでしょう。」
喜んだ景公は黎彌に命じて女閭(妓館)から二十歳以下で容姿が優れた者八十人を選ばせました。それを十隊に分け、錦繡の服を着せ、『康楽』という歌舞を教えます。声容(歌声。歌曲)は新鮮で、艶美な様子は今まで見たこともないほどでした。
併せて良馬百二十頭を集めました。金勒雕鞍(金勒は馬の頭につける金で装飾された道具。雕鞍は彫刻が施された鞍)をつけ、毛の色はそれぞれ異なり、遠くから眺めると錦が輝いているようです。
景公は使者を送って女楽と良馬を魯侯に献上しました。
 
斉の使者はまず魯の南門の外で二か所に錦棚を建てました。東棚には良馬を置き、西棚には女楽を並べます。準備が整うと国書を定公に送りました。そこにはこう書かれています「杵臼(景公の名)が頓首して魯賢侯殿下に書を送ります。孤は以前夾谷で罪を得ましたが、そのことを後悔して心の中から忘れたことがありません。幸いにも賢侯が謝過(謝罪)の誠意を鑑みたおかげで(斉の過ちを赦したおかげで)なんとか修好できましたが、最近は国の多虞(多難)のため、聘問を欠かしてしまいました。今ここに十群の歌婢がおり、侑歓(歓びを増すこと)とすることができます。また、三十駟(百二十頭)の良馬がおり、服車(車を牽くこと)とすることができます。謹んで左右に贈り(国君本人に直接贈ることを憚って「左右」と称していますが、実際は定公に贈っています)、悦慕(敬慕)を示させてください。受け入れていただけることを願います(伏惟存録)。」
 
当時、魯の相国季斯は太平を享受して安心しており、その太平がどこから来たかも忘れて胸中に侈楽の心を抱き始めていました。突然、斉が美しく飾った女楽を送って来たと聞き、どうしても会ってみたくなります。そこで早速、微服に着替えると、心腹数人と共に車に乗り、秘かに南門を出ていきました。
女楽はちょうど演奏の練習をしているところでした(原文「那楽長方在演習」。「楽長」の意味が分かりません)。美しい歌声が響き(原文「歌声遏雲」。歌声が美しいため空を流れる雲も動きを止めるという意味)、舞う姿は風のようで(舞態生風)、光華(華やか)な一進一退が見る者の目を奪い、まるで天上で遊んで仙姫を目撃した時のようです。人の世において想像できる光景ではありません。
長い間眺めていた季斯は、容色の美と服飾の華にも見とれて手脚がしびれ、目と口が閉じることなく、まるで意神(意識)を迷わせて魂魄を失ったようになりました。
魯定公が一日に三回召しても、季斯は女楽に見とれて赴こうとしません。
 
翌日、季氏がやっと入宮して定公に会いました。定公が斉の国書を見せると、季斯が言いました「これは斉君の美意です。拒否してはなりません。」
定公にも女楽に会ってみたいという想いがあったため、「女楽はどこにいる?試しに観ることができるか?」と問いました。
季斯が言いました「高門の外に並んでいます。車駕を向かわせるのなら臣が従いましょう。しかし百官を動揺させる恐れがあるので、微服に着替えるべきです。」
こうして君臣が法服(礼服)を脱ぎ、それぞれ小車に乗って南門から駆け出しました。二人とも西棚の下に行きます。
 
早くも「魯君が服を換えて自ら楽を観に来た」という情報が流れたため、斉の使者は女子達に心を込めて技を披露するように命じました。
女楽の歌声は柔和で人を引きつけ(歌喉転嬌)、袖を舞わせれば艶美が増します。十隊の女子が順に前に進み、美声が耳を満たして艶姿が目を奪いました。魯国の君臣二人は息をつく間もなく没頭し、知らず知らずに歓喜に合わせて手足を舞わせていました。
従人が東棚の良馬も称賛しましたが、定公はこう言いました「これだけでも既に極観だ。馬について問う必要はない。」
 
その夜、定公は公宮に帰りましたが、一晩中眠れませんでした。耳の中ではまだ音楽が聞こえおり、美人が枕元にいるようです。
定公は楽女を受け入れたいと思いましたが、群臣から反対意見が出ることを恐れたため、翌朝、季斯だけを入宮させました。二人で答書を準備し、感謝の言葉を連ねます。また、黄金百鎰を斉の使者に贈りました。
こうして女楽が宮中に入れられました。三十人は季斯に下賜されます。良馬は圉人が養うことになりました。
 
定公と季斯は女楽を得てからそれぞれ享受し、昼は歌舞を披露させ、夜は枕席に侍らせて楽しみました。瞬く間に三日が過ぎましたが、朝政に参加しようともしません。
この事を聞いた孔子は長い間寂しそうに嘆息しました。
傍にいた弟子の仲子路(仲由)が言いました「魯君は政事を怠っています。夫子は去るべきです。」
孔子が言いました「郊祭の日が近い。大礼が廃されないようなら、国はまだ成り立つ。」
祭祀の日が来ました。しかし定公は礼を行うとすぐに帰り、やはり朝政を視ようとしません。しかも胙肉を群臣に分けようという心もありませんでした。
主胙者が宮門を叩いて君命を請うと、定公は責任を季孫に押し付け、季孫はその家臣に押し付けました。
孔子は祭祀から帰ってから、夜になっても胙肉が配られないのを見て、子路に「我が道が行われなくなった。これも命(天命)だろう」と言い、琴を弾いてこう歌いました「あれら婦人の口が、大臣を国から追い出すことができる。あれら婦人の謁見が、死敗をもたらすことができる。(不遇をかこった私は)悠々と遊んで年を過ごすだけだ(彼婦之口,可以出走。彼女之謁,可以死敗。優哉游哉,聊以卒歳)。」
歌い終わると荷物をまとめて魯を去りました。
子路冉有も官を棄てて孔子に従います。この後、魯国は再び衰退しました。
 
孔子は魯を去って衛に入りました。
衛霊公が喜んで迎え入れ、戦陣の事(軍事)を問います。しかし孔子は「丘(私)(戦について)学んだことがありません」と答え、翌日、衛から出ていきました。
宋の匡邑を通りました。匡人はかねてから陽虎を怨んでいます。孔子の容貌が陽虎に似ていたため、匡人は陽虎が再び来たと思い、孔子を囲みました。子路が戦おうとしましたが、孔子が制止して言いました「某(私)は匡に対して仇がない。これには理由があるはずだ。暫くすれば自然に解けるだろう。」
孔子は静かに座って琴を弾き始めました。
そこに霊公が送った使者が追いつき、孔子を衛に連れて帰りました。匡人はやっと誤りを悟り、謝罪して去っていきました。
孔子は再び衛国に入り、賢大夫蘧瑗の家に住みました。
 
 
衛霊公の夫人は南子といい、宋女です。美色をもち、しかも淫乱でした。
宋にいた頃、公子朝と姦通しました。公子朝も男子の中の絶色だったため、美男美女は夫婦以上に愛し合うようになりました。
南子は霊公に嫁いでから蒯瞶を生みました。成長して世子に立てられます。その頃も南子は公子・朝との旧情が絶えませんでした。
当時、彌子瑕という美男子がいました。霊公の寵愛を受けています。ある日、彌子瑕が桃を半分食べてから、残りを霊公の口に入れました。霊公は喜んでそれを呑み込み、彌子瑕を褒めて周りの者にこう言いました「子瑕はこれほどまで寡人を愛している。一つの桃が美味だったため、一人で全て食べるのが忍びず、分けて寡人に食べさせた。」
これを聞いた群臣は皆隠れて笑いました。
彌子瑕は寵に頼って自由に権勢を弄びました。
霊公は外では彌子瑕を寵愛し、内では南子を懼れていたため、常に南子に媚びることを考えていました。そこで頻繁に宋朝(公子朝)を招いて夫人に会せました。南子と宋朝の醜聞が知れ渡りましたが霊公はそれを恥とも思いません。
しかし蒯瞶はこの事(母の不倫)を深く憎み、醜聞を消すために、家臣の戲陽速を使って朝見の機会に南子を刺殺することにしました。ところが南子が陰謀を悟って霊公に訴えます。
霊公は蒯瞶を追い出し、瞶は宋に奔ってから晋に移りました。
霊公は蒯瞶の子輒を世子に立てました。
 
孔子が再び衛に来た時、南子が孔子を招きました。孔子が聖人だと知って通常の倍の礼を施します。
ある日、霊公と南子が同じ車に乗って外出し、孔子を陪乗させました。
街市を通った時、市の人がこう歌いました「車を共にする者は色があるのか?車に従う者は徳があるのか?(「同車者色耶,従車者徳耶」。美色がある者を車に乗せ、徳がある者を従わせている)
孔子が嘆息して言いました「衛君の好徳(徳を愛すること)は好色に及ばない。」
孔子は衛を去って宋に行きました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十九回その二に続きます。

第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(二)